代筆屋リゼは、今日も誰かの言葉を書く
王都の西区には、少し変わった店がある。
看板には、たった三文字。
――代筆屋。
手紙を書く。
それだけの店だ。
恋文。
謝罪文。
商談の申し込み。
遠く離れた家族への便り。
中には、本人が書けば済むような短い伝言まで持ち込まれる。
文字が書けない人。
書けるけれど、文章が苦手な人。
あるいは、自分の気持ちを言葉にするのが苦手な人。
そういう人たちが、この小さな店を訪れる。
「いらっしゃいませ」
今日も私は、扉についた鈴の音に顔を上げた。
入ってきたのは、仕立ての良い服を着た若い男性だった。
貴族だ。
胸元の飾りを見る限り、子爵家か男爵家。
男性は店内を見回すと、少し鼻を鳴らした。
「君が店主か?」
「はい。リゼと申します」
「婚約解消の手紙を書いてほしい」
「承知しました」
私はいつもの仕事道具を取り出した。
「お相手のお名前を」
「エレノア・ベルティア」
「では、婚約解消の理由を」
「価値観が合わない」
私はペンを止めた。
「具体的には?」
「……そこまで細かく書く必要はないだろう」
「お手紙ですから。理由は具体的なほうが、受け取る側も納得しやすいです」
「君は代筆屋だろう? 言われたことを書けばいい」
「はい。ですから、何と言われたかを正確にお聞きしています」
男は苛立ったように椅子へ座った。
「彼女は地味なんだ」
「はい」
「社交の場でも、ほとんど喋らない」
「はい」
「話しかけても、いつも私の話を聞いているだけだ」
「なるほど」
「それに、華やかさがない」
「はい」
「私はもっと社交的で、明るくて、家柄の良い女性と結婚したい」
「分かりました」
私は紙に書き留めた。
「では、婚約解消の理由は『価値観が合わない』ではなく、『自分が望む結婚相手の条件が変わったため』といたしましょうか?」
「……それでいい」
「新しいお相手がいらっしゃることは?」
男は一瞬、得意げな顔をした。
「ああ。侯爵家の令嬢だ」
「では、そのことも?」
「書く必要はない」
「承知しました」
「それと、相手を責めるような文章にはするな」
「分かりました」
「だが、私が悪いようにも書くな」
「……はい」
「要するに、角が立たないようにしてくれ」
「それが、私の仕事ですから」
私は微笑んだ。
「ただし、一つだけ確認させてください」
「何だ?」
「これは、相手を傷つけるための手紙ですか?」
男は少し考えてから答えた。
「……違う」
「では、できるだけ傷つけない文章にします」
私はペンを走らせた。
書き上げた手紙を読み返す。
余計な言葉は一つもない。
相手を馬鹿にする言葉も。
新しい婚約者を自慢する言葉も。
もちろん、謝罪もない。
ただ、
――私は自分の将来について考えた結果、別の道を選ぶことにした。
――あなたに落ち度があるという意味ではない。
――これまでの時間に感謝している。
――どうか、あなたにも幸せな未来がありますように。
そんな文章だった。
「これでよろしいでしょうか?」
男は紙を受け取った。
「……まあ、いい」
「では、代筆料を」
男は銀貨を置いた。
そして扉へ向かう。
帰り際、振り返った。
「なあ」
「はい?」
「こういう手紙を書くとき、君は相手の気持ちを考えないのか?」
私は少し考えた。
「考えます」
「なら、なぜこんなに淡々と書ける?」
「私が考えるのは、依頼された方と、受け取る方の両方です」
「両方?」
「はい」
私は答えた。
「依頼された方が本当に伝えたいことと、受け取った方が誤解しないこと。その二つが一番大事ですから」
「……そうか」
男はそれだけ言って帰っていった。
私は残った紙を片付けた。
そのときは、それだけの依頼だと思っていた。
まさか、この一通が店に奇妙な連鎖を生むことになるとは思っていなかった。
◇
三日後。
扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
今度は、淡い青色のドレスを着た女性だった。
年齢は私とそれほど変わらない。
彼女は店に入るなり、深く頭を下げた。
「代筆をお願いしたいのですが」
「もちろんです。どなた宛てでしょう?」
「……婚約を解消した男性に」
私は少しだけ驚いた。
だが、仕事は仕事だ。
「お名前をお願いします」
「クラウス・ハイネス」
聞き覚えがあった。
三日前に来た男性だ。
私は顔に出さないようにした。
「内容をお聞かせください」
女性――エレノア様は、小さく息を吐いた。
「『婚約解消を承知しました』と」
「はい」
「それから……」
彼女はしばらく黙った。
「『これまでありがとうございました』」
「はい」
「『どうか、お幸せに』」
私はペンを走らせる。
「他には?」
「……ありません」
「よろしいですか?」
「はい」
私は紙を差し出した。
エレノア様はそれを読み、少しだけ笑った。
「綺麗な文章ですね」
「ありがとうございます」
「私が言ったことなのに、私が書いたようには見えません」
「そういう仕事ですから」
彼女は手紙を受け取った。
そして帰りかけて――足を止めた。
「あの」
「はい?」
「一つだけ、追加してもいいでしょうか」
「もちろんです」
彼女は迷った。
何度も口を開きかけて、ようやく言った。
「……『私は、いつからあなたにとって相応しくない女性になったのでしょうか』と」
私はペンを置いた。
「それは……婚約解消の理由を尋ねる文章ですか?」
「はい」
「お聞きになりたいのですか?」
「……分かりません」
「分からない?」
「聞きたいような。聞きたくないような」
私は少し考えた。
「でしたら、その一文は書かないほうがいいと思います」
「どうして?」
「質問には、答えが返ってきますから」
エレノア様は目を伏せた。
「……そうですね」
「答えを知る覚悟ができたときに、改めて書きましょう」
「はい」
彼女は頷いた。
「では、今日はこれだけで」
「承知しました」
彼女が帰ったあと、私は手紙の控えを棚にしまった。
代筆した手紙は、トラブル防止のため一年間保管する。
それが、この店の決まりだった。
私はまだ知らなかった。
その控えが、後で役に立つことを。
◇
翌週。
またクラウス様が来た。
「前の手紙を書き直してくれ」
「どの部分でしょう?」
「彼女への返事だ」
「エレノア様への?」
「ああ」
「どんな内容でしょうか?」
「『君が私に相応しくなかったからではない』と」
「はい」
「『私が自分の人生を考え直した結果だ』」
「はい」
「『君に非はない』」
「はい」
「それから……」
彼は黙った。
「それから?」
「……何でもない」
「分かりました」
私は書き始めた。
しばらくして、彼が言った。
「なあ」
「はい」
「女というのは、どうしてこう面倒なんだ?」
「さあ」
「婚約を解消しただけだろう。もっとあっさり受け入れればいい」
「そうかもしれませんね」
「なのに、どうして理由を聞きたがる?」
私はペンを置いた。
「理由が分からないからではないでしょうか」
「理由なら伝えただろう」
「『価値観が合わない』という理由ですか?」
クラウス様は黙った。
「それでは、何の価値観が合わなかったのか分かりません」
「……」
「それに、自分に何か悪いところがあったのかと思ってしまうかもしれません」
クラウス様は顔をしかめた。
「だから、私が悪いと言いたいのか?」
「いいえ」
「なら余計なことを言うな」
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
そして手紙を完成させた。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ」
彼は手紙を受け取り、銀貨を置いた。
扉のところで、また振り返った。
「……君は」
「はい?」
「人の気持ちに口を出さないのだな」
「代筆屋ですから」
「そうか」
今度は、それだけだった。
◇
さらに一週間。
今度は、若い女性がやって来た。
金色の髪。
仕立ての良いドレス。
侯爵家の紋章が入った扇子。
「あなたがリゼさん?」
「はい」
「クラウス様の手紙を書いた方ね?」
「はい」
「少しお願いがあるの」
「何でしょう?」
女性は椅子に腰を下ろした。
「婚約をお断りする手紙を書いて」
「……クラウス様への?」
「そう」
私は目を瞬いた。
「理由をお聞かせください」
「彼は悪い人ではないわ」
「はい」
「でも、私は彼と結婚したくないの」
「承知しました」
「ただ、それだけ」
「では、そのように書きましょう」
彼女は少し驚いた。
「……それだけ?」
「はい」
「理由を聞かないの?」
「先ほど『それだけ』とおっしゃいましたので」
女性は少し笑った。
「あなた、変わっているわね」
「よく言われます」
彼女は少し考えてから言った。
「本当のことを言えばね」
「はい」
「私は、彼が前の婚約者を捨てたことが嫌なの」
「なるほど」
「だって、いつか私も同じように捨てられるかもしれないでしょう?」
「そうですね」
「人を大切にできない人に、大切にしてもらえるとは思えないもの」
私は書き留めた。
「この理由も書きますか?」
「……いいえ」
「承知しました」
私は彼女の言葉を文章にした。
その手紙には、
――あなたに非があるわけではありません。
――ただ、私はあなたとの結婚を望んでいません。
――どうか、これを恨まないでください。
そう書いた。
彼女は読み終えると、静かに頷いた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
彼女が帰った。
私は小さく息を吐いた。
人は不思議だ。
誰かを傷つけたくないと言いながら、傷つける。
傷つきたくないと言いながら、傷つく。
そして、一番難しいのは。
自分が何を望んでいるのかを、自分自身に伝えることなのかもしれない。
◇
一ヶ月ほど経った。
クラウス様は来なくなった。
エレノア様も来ない。
侯爵令嬢も来ない。
私はいつもの仕事に戻っていた。
ある日は商人から取引の手紙。
ある日は遠くの村に住む母親への手紙。
ある日は、喧嘩した友人への謝罪文。
そして、その中に一つ。
小さな男の子からの依頼があった。
「お母さんに手紙を書きたい」
「何と書きたいの?」
「ありがとうって」
「それだけ?」
「うん」
「じゃあ、自分で書いてみる?」
「……字が書けない」
私は笑った。
「では、私が書きます」
「うん」
「お母さんに何をしてもらったの?」
「昨日、熱が出たとき、ずっとそばにいてくれた」
「なるほど」
「あと、お昼に好きなパンを買ってくれた」
「うん」
「それから……毎日、朝起こしてくれる」
「それは大事ね」
「でも、怒る」
「お母さんだもの」
「うん」
私は聞いたことを一つずつ書いた。
最後に、
――お母さん、いつもありがとう。
と付け加えた。
「これでいい?」
「うん!」
男の子は手紙を抱えて帰っていった。
私はその背中を見送った。
こういう依頼が、一番好きだった。
誰かを言い負かすためでも。
誰かを振るためでもない。
ただ、言葉にできなかった「ありがとう」を紙にする。
それだけの仕事。
そんなある日の午後だった。
店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
入ってきた男性を見て、私は目を見開いた。
クラウス様だった。
以前とは違う。
服は同じように上等だったが、顔つきが疲れている。
「……久しぶりだな」
「はい」
「また、手紙を書いてほしい」
「どなたへ?」
彼は答えなかった。
私は少し待った。
「エレノア様ですか?」
「違う」
「侯爵令嬢様ですか?」
「……違う」
「では、どなたでしょう?」
クラウス様は俯いた。
「エレノアだ」
「はい」
「彼女に謝りたい」
私はペンを用意した。
「では、何を謝りたいのでしょう?」
「……」
「婚約を解消したことですか?」
「それもある」
「他には?」
「……分からない」
私はペンを置いた。
「では、今日は手紙を書かないほうがいいと思います」
クラウス様が顔を上げた。
「なぜだ?」
「まだ、ご自分の言葉になっていませんから」
「謝りたいんだ!」
「はい」
「それでは十分だろう!」
「いいえ」
私は静かに答えた。
「『ごめんなさい』だけでは、受け取った方が何について謝られているのか分かりません」
「……」
「それに、謝罪の手紙は、書いた人が楽になるためのものではありません」
クラウス様は黙り込んだ。
「では、どうすればいい?」
「考えてください」
「何を?」
「あなたが何をしたのか」
彼は長い間、黙っていた。
やがて、
「……私は、彼女が私を好きだから、何をしても許されると思っていた」
と呟いた。
私は何も言わなかった。
「彼女はいつも私の話を聞いていた」
「はい」
「私は、それを退屈しているのだと思った」
「……」
「でも違った」
「はい」
「私が話したいことを、最後まで聞いてくれていたんだ」
クラウス様は苦笑した。
「馬鹿だったな、私は」
私はペンを走らせた。
「今の言葉は、書きますか?」
「……ああ」
私は一字ずつ書いた。
「他には?」
「私は彼女を地味だと言った」
「はい」
「面白くないとも言った」
「はい」
「でも、彼女は私がくだらない話をしても笑ってくれた」
「はい」
「私が失敗したときも、誰にも言わなかった」
「はい」
「私は……」
彼の声が止まった。
「私は、それが当たり前だと思っていた」
私は書いた。
「そして?」
「……」
「他にありますか?」
「ある」
クラウス様は顔を上げた。
「私は、自分が選んだ新しい相手なら、私をもっと幸せにしてくれると思っていた」
私は手を止めなかった。
「でも、彼女にも断られた」
「はい」
「理由を聞いた」
「はい」
「『前の婚約者を大切にできない人を、私は夫にしたくない』と言われた」
クラウス様は苦笑した。
「その通りだと思った」
私は書き終えた。
「これで全部ですか?」
「……いや」
「はい」
「私は、エレノアに戻ってきてほしいと思っていた」
「……」
「でも、戻ってきてほしいと書くのは、やめてくれ」
「分かりました」
「私は、彼女にもう一度私のために時間を使わせたくない」
私は初めて、クラウス様の顔を正面から見た。
「それなら、書けます」
「頼む」
私は手紙を書いた。
今までで一番時間がかかった。
飾り立てた言葉は使わなかった。
「運命だった」も。
「愛している」も。
「もう一度やり直したい」も。
ただ、
自分が何をしたのか。
なぜ悪かったのか。
そして、もう彼女に何も求めないこと。
それだけを書いた。
最後に、
――返事は必要ありません。
と記した。
手紙を渡すと、クラウス様はしばらく黙って読んでいた。
そして、
「……これを送ってくれ」
「承知しました」
彼は立ち上がった。
扉まで歩いていく。
だが、そこで振り返った。
「リゼ」
「はい?」
「前に君が言ったことを覚えている」
「何でしょう?」
「『答えを知る覚悟ができたときに、質問を書けばいい』」
「ああ」
私は頷いた。
「覚えています」
「私は、まだ答えを知る覚悟がない」
「そうですか」
「でも、もう質問する必要もない気がする」
そう言って、彼は店を出ていった。
◇
それから十日ほど経った。
一通の手紙が届いた。
差出人はエレノア様。
私は封を開けずにクラウス様へ渡そうと思った。
けれど、その手紙には、
『代筆屋リゼ様へ』
と書かれていた。
私は中を読んだ。
そこには短い文章があった。
――先日は、ありがとうございました。
――クラウス様から手紙を受け取りました。
――謝罪を受け取りました。
――ですが、返事は不要とのことでしたので、こちらも一度だけお伝えして終わりにします。
――私は、あの日からずっと考えていました。
――私はいつから彼にとって相応しくない女性になったのだろう、と。
――けれど、今はもう、その問いに意味がないと思っています。
――彼がどう考えていたのかは、もう知りたいとは思いません。
――私には、私の人生があります。
――これからは、自分で選んでいこうと思います。
――それを教えてくれたのは、あなたが書いてくれた手紙でした。
私は最後の一文を読んだ。
――ありがとうございました。
私は手紙を折った。
そして、少しだけ笑った。
◇
「こんにちはー!」
その日の午後。
元気な声が店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
先日来た男の子だった。
「また手紙を書いて!」
「誰に?」
「お母さん!」
「何て書くの?」
「この前より、もっといっぱい!」
「いいわね」
私は椅子を勧めた。
「では、最初から聞かせてください」
「うん!」
男の子は嬉しそうに話し始めた。
私はペンを取る。
今日もまた、誰かの言葉を書く。
恋人への別れの言葉。
友人への謝罪。
家族への感謝。
そして、ときどき。
自分が何を思っているのかさえ分からない人のために。
私は思う。
人は、自分の言葉を紙にして初めて、自分が何を大切にしていたのかに気づくことがある。
だから私は、余計なことは言わない。
誰が正しいかも決めない。
誰を好きになるべきかも教えない。
ただ、聞く。
そして書く。
本人が、自分の言葉を自分で読めるように。
「リゼお姉ちゃん」
「なあに?」
「『お母さん、大好き』って書いて」
私は笑った。
「それは、自分で言ってあげたら?」
男の子は少し考えた。
「……恥ずかしい」
「じゃあ、手紙にしましょう」
「うん!」
私は新しい紙を一枚取り出した。
ペン先を紙に置く。
そのとき、店の扉についた鈴が鳴った。
新しい客だ。
「いらっしゃいませ」
振り向く。
今度の客は、真っ赤な顔をした若い女性だった。
「あの……」
「はい」
「婚約者に、言いたいことがあるんです」
「承知しました」
私は椅子を勧めた。
「では、最初からお聞かせください」
女性は小さく頷いた。
私は新しい紙を一枚取り出した。
今日もまた、誰かの言葉を書く。
恋人への別れの言葉。
友人への謝罪。
家族への感謝。
そして、ときどき。
自分が何を思っているのかさえ分からない人のために。
私は思う。
人は、自分の言葉を紙にして初めて、自分が何を大切にしていたのかに気づくことがある。
だから私は、余計なことは言わない。
誰が正しいかも決めない。
誰を好きになるべきかも教えない。
ただ、聞く。
そして書く。
本人が、自分の言葉を自分で読めるように。
今日も、王都西区の小さな店で。
私はペンを取る。
――たぶん。
それが、私の仕事なのだから。
ご一読いただきありがとうございました。
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