プロローグ ― クロノス同窓会という名の、祝福 ―
午後の光が、オフィスのガラスにやわらかく反射していた。
アークシステムズの執務室には、いつも通りの静けさがある。
キーボードの軽快な音を鳴らしている凪の隣で、柊はコーヒーを淹れた。
湯気の立つマグを2つ、机の上に置く。
「はい、どうぞ。……なんか、今日は静かですね」
環がそう言いながら、柊にマグを渡す。
凪は画面から目を離さずに受け取り、鼻歌まじりにひと口飲んだ。
「ん〜、今日のコーヒー最高……って、あれ?」
凪の画面に、新着通知が点る。
同じタイミングで、柊のスマートフォンも震えた。
「……ん? 涼平からメール?」
柊が眉を上げる。
凪もすぐに自分のスマホを確認して、顔をしかめた。
「こっちにも来てます。え、なにこれ。……同窓会?」
「同窓会って……クロノスの?」
環が首をかしげる。
柊は画面を開いた瞬間、ほんの少しだけ口角が引きつった。
そして、声に出して読み上げる。
「――『クロノス卒業生のみなさま。クロノス同窓会のお知らせ』……」
凪が前のめりになって覗き込む。
「場所……如月邸リビングって書いてありますけど……」
「……うちだな」
柊が淡々と言う。
環は一瞬固まり、それからぱっと顔を上げた。
「え? うちって……ぽかぽか邸で?!」
「……ああ……」
凪はじわじわ笑いを堪えられなくなる。
「柊先輩、許可しました?」
「してない」
きっぱり言い切る柊に、環は思わずふふっと笑ってしまった。
「でも……涼平さん、勝手に決めそうですね」
「そういうとこ、ある」
柊が息を吐き、もう一度画面を追う。
「参加メンバー……俺たちと、蒼真、……湊さん……? それとリモートで永峰」
環がその名前でぴたりと止まる。
「……柊。この高杉湊さんって、どんな方なんですか?」
凪も反応が早い。
「僕も知らないです。柊先輩、どんな人なんですか?」
「え? あ、ああ……」
柊が、なぜか歯切れ悪くなる。
環がじっと顔を覗き込んだ。
「……柊? どうしたんですか?」
凪はにやりと口角を上げる。
「……その反応、なんかあるやつですよね?」
「ない。俺は何もない」
「え〜」
凪はわざとらしく声を伸ばし、環に小声で囁く。
「環さん。もしかして……会わせたくない人、とか?」
「えっ」
環の目が丸くなる。
「まさか……元カノ、とか……?」
「凪」
柊の声が低くなる。
「でも柊先輩、恋愛ポンコツですし。環さん一筋だったし。……あれ?じゃあ逆に、“環さんが嫉妬する案件”ってことですか?」
「凪」
「えっ、違うんですか?」
「違う。」
即答。
環が慌てて手を振った。
「え、嫉妬とかじゃなくて……えっと……ただ、気になっただけです。すみません……」
「謝るな……湊さんは涼平の幼なじみだ。」
柊がやわらかく言って、環の頭をぽん、と軽く撫でる。
その手の温度に、凪がすかさずニヤついた。
「ほら出た。柊先輩のナチュラル溺愛」
「溺愛してない」
「してますよ」
環がくすっと笑い、またメールに目を落とす。
「……スペシャルゲストはサプライズ、って……誰なんでしょう」
環がぽつりと呟く。
その声が、ほんの少しだけ弾んでいた。
「……私も知ってる人なのかな……」
柊はその呟きが耳に入った瞬間、口元に小さな笑みを浮かべた。
「うん……誰だろうな」
凪は両手を上げるようにして言った。
「でもこのノリ、絶対ただの同窓会じゃないですよね。場所もぽかぽか邸だし」
「それな」
柊が笑うと、環も頷いた。
「なんか……お祝いっぽくしたほうがいいんですかね。飾りとか……」
「環、まだ決まったわけじゃないからな」
「あ、そうでした……」
環は少し照れたように笑い、それでも目はキラキラしている。
その様子を見て、柊は胸の奥がふっとあたたかくなるのを感じた。
――結婚。
その言葉はまだ、日常に馴染みきっていない。
けれど環が笑うたび、少しずつ“現実”になっていく。
凪は勝手に想像を膨らませて、急に声を上げた。
「でも、湊さんって……涼平さんの婚約者とかだったらどうします?!」
「えっ」
環もすぐ乗った。
「それ、ありそうです!幼なじみ婚……とか……!」
「うわ〜、それならスペシャルゲストって婚約者本人……? じゃあ湊さんは……」
「気まずくないですか?」
「修羅場ですね!」
「えー!幼なじみVS婚約者ですか?!」
ふたりで盛り上がり始める。
柊は耐えきれず、笑いが漏れた。
「……ははは……おまえら、よくそこまで想像できるな」
「だって、楽しそうじゃないですか」
「環まで……」
凪が笑うと、環もふふ、と肩をすくめた。
その空気は、穏やかで、やさしい。
ぽかぽか邸という名前に相応しい、あたたかさがそこにあった。
――そして、その日が来る。
◇◇◇
― クロノス同窓会当日 ―
土曜の午後。
ぽかぽか邸のリビングには、久しぶりの賑やかさが戻っていた。
ソファに座る柊の横には環。
キッチンからは凪の楽しげな声が聞こえる。
テーブルには、いつの間にかそれなりの軽食が並び――
玄関のドアが開く音とともに、涼平の明るい声が響いた。
「みなさま、お集まりいただきありがとうございます!」
続いて、モニター越しに永峰の姿。
そして、窓際で腕を組んでいる蒼真が静かに言う。
「……相変わらず騒がしいな」
「蒼真さん、来てくれたんだから文句言わないでください!」
凪が即座に返し、涼平が笑った。
「よし、じゃあ始めるぞ……」
涼平は一度、深呼吸をして――柊を指差した。
「柊!!」
「……ん?」
柊が怪訝な顔をした瞬間。
「遅くなりましたが……柊!環さん!結婚おめでとう!!」
――パーン!!
クラッカーの音が一斉に弾けた。
「うわっ!」
「きゃっ……!」
不意打ちの大きな音に、環が肩をすくめ、柊が反射的に腕を回す。
抱き寄せるような形になって、ふたりとも一瞬、固まった。
「なに……?これ……?」
柊の呟きに、涼平は満足そうに笑う。
「ははは!実は、柊と環さんの結婚祝いのサプライズ!」
「え……?」
「え??」
環はぽかんとしたまま、クラッカーの紙吹雪を見つめた。
柊も言葉が出ない。
そのタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。
――ピンポーン。
凪が勢いよく立ち上がる。
「はい!今開けま〜す!」
そしてドアが開き、リビングに涼平の声が響く。
「みなさん!スペシャルゲスト到着しましたー!」
現れたのは、2人の女性だった。
「こんにちは」
穏やかで、凛とした声。
環の目が一瞬で輝いた。
「……美乃さん!」
北澤美乃。
そして、その隣に立つのは――すらりと背の高い、ボーイッシュな雰囲気の女性。
柊は一瞬、息を止めたように固まり、それからすぐに姿勢を正す。
「……美乃さん。お久しぶりです」
「お久しぶりね。柊くん。環さんも」
「お久しぶりです!美乃さん!」
凪も弾んだ声で言う。
「美乃さん!お久しぶりです!」
「お久しぶり、凪くん」
「僕のこと覚えててくれたんですね!うれしい」
「当たり前じゃない。助けてもらった恩人ですもの」
美乃の言葉に凪は嬉しそうに頬を緩めた。
そして隣の女性が、柊に向かってにっと笑う。
「柊くん、久しぶり!」
「……湊さん。お久しぶりです」
そのやりとりで、環は小さく目を瞬かせる。
湊は環へ向き直り、礼儀正しく頭を下げた。
「環さん。はじめまして。高杉湊です。よろしくね」
「は、はい……!はじめまして……如月環です……よろしくお願いします……!」
環は丁寧に返しながら、内心で思わず息を飲んだ。
(……かっこいい……)
言葉遣いは落ち着いていて、所作も綺麗で、でも空気が“強い”。
柔らかいのに芯がある――そんな感じがする。
環は柊の袖を、そっと引いた。
「……柊。湊さんって……女性でしたよね?」
「ああ……そうだよ。どうした?」
「すごく、かっこいいです……なんか、ドキドキしちゃいました。柊とはじめて会ったときみたいな……」
柊は一瞬目を丸くして、それからふっと笑った。
「はは……そうか」
その笑顔に、環は少しだけ安心して、でも胸の奥はまだ小さくざわついていた。
美乃が、環の手にそっと包みを渡す。
「柊くん。環さん。改めておめでとう。はい、これ……私からよ」
「あ……ありがとうございます」
「ありがとうございます、美乃さん」
「開けてみて」
環が柊を見る。
柊は頷いて、ゆっくり包み紙を解いた。
現れたのは、ブリザーブドフラワーのフォトスタンドだった。
「……わぁ……」
環の声が、ふわっと明るくなる。
「すごく、素敵です……!」
「……だな。ありがとうございます、美乃さん」
「ふふ。よかった」
その空気が和らいだところで、涼平が手を叩いた。
「えー!それでは改めまして!
本日は、同窓会――そして!柊と環さんのサプライズ結婚祝いということで……乾杯!」
「乾杯!」
グラスが重なり合い、笑い声が弾ける。
紙吹雪の残る床さえ、どこか祝福の一部みたいに見えた。
環はグラスを口に運びながら、ふと、胸の奥があたたかくなるのを感じる。
(……こんなふうに、祝ってもらえるんだ)
怖い記憶の多かった自分の人生に、
こんな時間が来るなんて思わなかった。
柊が隣で、環の指先をそっと握る。
何も言わないのに、“ここにいる”と伝えてくる温度だった。
凪はすでに涼平をいじり始めている。
「いや〜昨日の夜、涼平さんから連絡もらって知りました!」
「凪はここに住んでるだろ。隠し事できないタイプだからギリギリまで言えなかったんだよ」
「うわ、僕、信用されてない……?」
「されてるからこそだろ」
柊が笑って言うと、蒼真も肩をすくめる。
「凪はわかりやすいからな」
「蒼真さんまで……!」
全員が笑う。
美乃も湊も、その輪の中に自然に溶けていた。
――祝福の午後。
ぽかぽか邸に満ちる、あたたかな時間。
けれど、環の胸の奥には、なぜかほんの小さなざわめきが残っていた。
ここにいる全員が、偶然集まったはずなのに。
まるで――この先に待つ“何か”のために、呼ばれたみたいに。
環は、グラスの縁に視線を落とした。
(……気のせい、だよね……?)
その答えは、まだ出ない。
ただ、祝福の空気の裏で、見えない影が静かに伸び始めていた。
◇◇◇
ひと通りの乾杯が落ち着き、キッチンでは凪が皿を追加で並べている。
リビングはまだ賑やかなのに、ほんの少しだけ“隙間”ができた瞬間。
湊は窓際に立ち、外の光を眺めていた。
その背中に、美乃が静かに並ぶ。
「……いい家ね。ここ」
美乃がさらりと言うと、湊は肩をすくめた。
「ぽかぽか邸、だっけ。名前まであったかい。
柊くんらしいのか、環さんらしいのか……」
「環さんね」
美乃は即答した。
湊が小さく笑う。
「やっぱり?」
「見れば分かるわ。あの人がいるだけで、部屋の温度が変わる」
美乃の視線の先には、環がいた。
紙吹雪を拾って、楽しそうに凪と何かを話している。
湊はその姿をじっと見つめる。
そしてふっと息を吐いた。
「……なるほど。柊くんが、ああなるの分かるな」
美乃が、ほんの少しだけ目を細める。
「……柊くん、“大切な人と結婚した”って言ってた」
「ふうん」
湊は軽く返しながらも、目は笑っていない。
「美乃、振られたんだろ?」
「ええ」
「それで、ここに来れるのがすげぇよ。
……強いな、おまえ」
美乃は一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「強いんじゃなくて、終わらせたかっただけよ。
言わずに終わるのがいちばん嫌だった」
「……らしい」
湊が短く言って、グラスの中身をひと口飲む。
そのとき、リビングの方から笑い声がまた弾けた。
柊が環の頭を撫で、環が照れくさそうに笑っている。
湊は、その光景を見たまま、ぽつりと呟いた。
「……守られてるな。環さん」
「守られてる、だけじゃないわ」
美乃が、湊の言葉を静かに否定する。
「環さん自身が、柊くんを“人”にしてる」
湊が美乃を見る。
「……どういう意味だ?」
「柊くんは、優しいのに、どこか冷たい人だった。
自分が壊れても平気みたいな顔をして」
美乃は視線を戻して、続けた。
「でも今は違う。
守りたいものがある人の目をしてる。
あの目は……環さんが作った」
湊はしばらく黙り、やがて口元だけで笑った。
「……なるほど。
環さん、ただの“守られる人”じゃないんだな」
「ええ。たぶんね」
美乃の声が、少しだけ柔らかくなる。
その時――湊のスマートフォンが、短く震えた。
画面には、見慣れない番号。
湊は無意識に指を止める。
胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
「……湊?」
美乃が気づいて声をかけると、湊はすぐに画面を伏せた。
「……ん、仕事。あとでいい」
それだけ言って、湊はいつもの“オトコマエ”の顔に戻る。
けれど美乃は、その一瞬の揺れを見逃さなかった。
湊は、グラスを置いて、軽く伸びをした。
「……ま、今日はめでたい日だ。
余計なこと考えるのは後だな」
そう言って、湊は笑い声の輪へ戻っていく。
美乃だけが、その背中を見つめたまま、ほんの小さく眉を寄せた。
――今の震えは、仕事の通知だけじゃない。
そんな予感が、胸の奥に引っかかる。
そして、もう一度リビングを見る。
柊は環の隣で笑っていた。
凪は騒いでいて、蒼真は呆れた顔をしている。
涼平は場を回し、永峰の画面も穏やかに揺れている。
このメンバーが揃う時、
“何も起きない”はずがない。
美乃は、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……嫌な予感、当たらないといいけど」




