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愛はないけど、もふもふはある! ~冷徹公爵様との政略結婚、聖獣吸いに夢中で夫の存在を忘れていたら、いつの間にか溺愛ルートに突入していた〜

作者: 天音 楓
掲載日:2026/01/31

政略結婚した私たちの間に、愛はない。


重要なことなので、もう一度言う。


――愛はない。


結婚初夜、アルフレート公爵様は氷のような瞳で私を見下ろし、こう言い放った。


「君を愛することはない。衣食住は保証するが、私の私生活には干渉しないでくれ」


「……」


私は沈黙した。ショックを受けたからではない。


彼の足元で、彼以上に冷たい殺気を放ちながら私を威嚇している、巨大な銀色の毛塊――この国に伝わる聖獣の末裔『銀雪狼』の、あまりに完璧なもふもふ具合に魂を奪われていたからだ。


(……あの毛並み、ブラッシングしたら絶対もっと輝くわ。ああ、顔を埋めたい)


「聞いているのか、リリア」


「っ、はい! 承知いたしました閣下! 愛なんて不要です。不倫さえしなければ何もしなくていいのですよね? むしろありがとうございます!」


私は満面の笑みで即答した。


公爵様は「……そんなにすぐ受け入れるのか?」と拍子抜けした顔をしていたけれど、私はそれどころではない。


だって、愛はない。


だから、私は――全力でもふもふすることにした。



それから一ヶ月。


私は、屋敷の主であるアルフレート様を華麗にスルーし、聖獣の『シロちゃん』を愛でる日々を送っていた。


私の二倍ほどもある体、ベルベットのような手触りの毛並み。最高!


「リリア。……おい、リリア。こっちに来い」


ある日の午後。執務室に呼ばれた私は、公爵様の呼びかけに顔を上げた。


けれど、私の体はすでに足元で丸まっているシロちゃんの方へ。


「あっ、ブラッシングですね!任せてください、閣下!」


「いや、そうではな――」


「はーい、シロちゃん。今日もブラッシングの時間ですよ! 終わったら、またお腹をもふもふさせてくださいね!」


私は持参した高級ブラシを手に、手慣れた手つきでシロちゃんの耳の後ろを撫でた。


初めは私を食い殺そうとしていたシロちゃんも、今やこの通り。


「ふにゃあああ……」


聖獣としての威厳をどこかに置き忘れたシロちゃんが、私のお膝でヘソ天(お腹出し)を晒す。


それを見たアルフレート様が、椅子から立ち上がって絶句していた。


「……リリア。それは我が公爵家が代々守り、誰にも懐かなかった伝説の銀雪狼だぞ。なぜ、そんな……醜態を晒している」


「愛情ですよ、閣下。さて、閣下は何か御用でしたか? 忙しいので手短にお願いします」


私はシロちゃんの肉球をぷにぷにしながら聞き返した。


アルフレート様は、苦虫を噛み潰したような、それでいて何かを言いたげな、ひどく複雑な顔をしている。


(ああ、また「邪魔だ」って怒られるのかしら。でもシロちゃんが離してくれないし……)


「……いや、もういい。その……ブラッシングが終わったら、私にも、茶を淹れてくれないか」


「えっ、侍女に言えばいいのでは? ……ああ、分かりました! シロちゃんの毛が舞うから、新しい茶葉を出しなさいってことですね。了解です!」


「…………そうではない。……そうではないんだ、リリア」


公爵様が深いため息をついて顔を覆ったけれど、私はシロちゃんの尻尾の付け根をマッサージするのに忙しくて、それどころではなかった。


冷徹公爵様は、なんだか最近お疲れのようだ。


でも大丈夫。私には愛はないし、彼も私を愛していない。


だから私は、今日も心置きなくシロちゃんを吸うのである。



街での買い出しを終えて屋敷に戻ると、廊下の向こうから「ウー……」という低い唸り声と、聞き慣れない焦った声が聞こえてきた。


(あら、シロちゃんが誰かを威嚇してる? まさか侵入者?)


慌てて居間の扉を開けると、そこにいたのは侵入者ではなく、私の夫――アルフレート様だった。


「いいか、動くな。私は……私は主だぞ。敬意を払えと言っているだろう」


いつもは氷のような瞳で部下を震え上がらせている公爵様が、今は床に膝をつき、髪を振り乱して巨大なシロちゃんと格闘している。


その手には、私が愛用している高級豚毛ブラシ。


対するシロちゃんは、耳をペタンと寝かせ、腰を引いて完全に「不審者を見る目」で旦那様を警戒していた。


「……あなた、何をしているの?」


私が呆然と声をかけると、アルフレート様の体が石のように固まった。


ギギギ、と油の切れた人形のような動きでこちらを振り返る。その顔は、見たこともないほど真っ赤だった。


「リ、リリア……! これは、その……違う、断じて違うぞ」


「何が違うのかしら? もしかして、もふもふに興味があったのかしら?」


意地悪く首を傾げてみせると、彼は持っていたブラシを背中に隠し、必死に冷徹な仮面を被り直そうとした。


「い、いや、そんなことない! 私はただ、この獣の毛並みが公爵家の品位を損なうほど乱れていたから、主として正そうとしただけで……っ」


「まあ。でも、シロちゃんに嫌われちゃっているみたいですけど?」


「ぐっ……」とアルフレート様が言葉に詰まる。


その隙を見逃さず、シロちゃんが旦那様の手をすり抜けて、私の足元へ全力で駆け寄ってきた。


「くぅ〜ん、くぅ〜ん!」(リリア! この人怖いの、助けて!)


私のスカートに顔を埋めて震えるシロちゃん。それを見たアルフレート様は、差し出したままの空っぽの手を見つめ、ガックリと肩を落とした。


「……なぜだ。餌も最高級のものを与え、寝床も整えてやっているのに。なぜ私には、そんな顔しか見せないんだ……」


あまりの落ち込みように、私は思わず吹き出してしまった。


政略結婚の夜にあんなに冷たかった旦那様が、まさかワンちゃん一匹にここまで打ちのめされるなんて。


「旦那様、力みすぎですよ。殺気が出てます。そんなんじゃ、シロちゃんも逃げちゃいますわ」


「……殺気だと? 私はただ、慈しもうと……」


「いいですか? こうやるんです」


私はシロちゃんの横に座り込み、優しく喉元を指先でかいてやった。


一瞬で「ふにゃああ……」と溶けるシロちゃん。


「さあ、旦那様も。今ならシロちゃん、油断してますから。こっちに来てください」


私は、驚いた顔で見つめてくるアルフレート様に向かって、ポンポンと自分の隣を叩いた。


「ほら、旦那様。そんなに固く握らないで。優しく、そっと……こうやるのよ」


私は床に座り込むアルフレート様の横に膝をつき、迷わず彼の手を包み込んだ。


大きな、剣を振るう人の節くれだった手。でも、今はブラシを握りしめたまま微かに震えている。


「なっ……!? リ、リリア、君……」


「いいから、力を抜いて。毛並みに沿って、ゆっくり……そう、そうです」


私の体温が伝わったのか、アルフレート様の顔がみるみるうちに耳の先まで真っ赤に染まっていく。


視線を泳がせ、呼吸まで少し乱れているみたい。


(ふふ、わかるわよ。その気持ち)


私は心の中で深く頷いた。


目の前には、リリア特製ブラッシングでとろけきった、無防備なシロちゃんのふわっふわな毛並み。


(いや、わかるわよ。可愛いもんね。メロメロになるのは当然だもの。あの冷徹な公爵様すら、この「もふもふの暴力」の前では赤面するしかないってわけね!)


「幸せでしょう? 旦那様」


「し……っ、幸せ……? あ、ああ、そう……だな」


アルフレート様は、重なった私の手を見つめたまま、消え入りそうな声で答えた。


声が震えている。感動しすぎて言葉にならないのかしら。


「ええ、ええ。この指の間から溢れる毛の弾力、そしてこの体温! 愛なんてなくても、これがあれば人生バラ色ですわよね!」


私が同意を求めて顔を覗き込むと、アルフレート様は熱に浮かされたような瞳で私を見つめ返した。


「……ああ。そうだな。愛などなくても……いや、君が……」


「シロちゃん、最高ですよね!」


「…………シロ、か」


旦那様は一瞬でスン……と真顔に戻り、深い溜息をついた。


あら、どうしたのかしら。もしかして、触りすぎてシロちゃんが「もう終わり!」って逃げちゃったのが寂しかったのかしら?


「大丈夫ですよ、旦那様。夜はまだ長いですから」


「……リリア。私は、少し疲れた。寝室へ戻らせてもらう……」


肩を落として去っていく旦那様の背中を見送りながら、私は首を傾げた。


もふもふの癒やし効果が強すぎて、逆に疲れちゃったのかしら? 繊細な公爵様だわ。



シロちゃんのブラッシングが一段落し、私は手慣れた手つきでハサミを取り出した。


「さて、次は少し毛先を整えましょうね。シロちゃん、じっとしていて?」


「……それは、何をしているんだ?」


隣で呆然としていたアルフレート様が、不思議そうに私の手元を覗き込んできた。


「トリミングですよ、旦那様。こうして形を整えると、シロちゃんの高貴さがさらに引き立つんです」


チョキ、チョキと軽快な音を立てて毛を切り揃えていくと、シロちゃんは気持ちよさそうに目を細めている。


その様子をじっと見つめていたアルフレート様が、何を思ったのか、少しだけ自分の前髪に手を触れて、小さな声で言った。


「……リリア。もしよければ、私の髪もトリミングしてくれないだろうか?」


私は思わず、ハサミを止めて旦那様を二度見してしまった。


えっ? 今、なんて?


「あなたも……ですか?」


「あ、ああ。最近少し、伸びてきた気がしてな……。君の手つきなら、安心して任せられそうだ」


アルフレート様は、どこか期待に満ちたような、それでいて少し照れたような表情で私を見ている。


普段は冷徹な公爵様が、まるで飼い主に構ってほしい子犬のような顔をして……。


でも。


「ふふっ、旦那様ったら、おかしなことを。冗談はやめてくださいな」


「……冗談?」


「だって旦那様の髪、全然もふもふじゃないんですもの! いりませんよ、そんな必要!」


私はケラケラと笑いながら、きっぱりと断言した。


「私のハサミは、この最高級の弾力と密度を誇る『聖獣様の毛』のためにあるんです。旦那様のサラサラした髪じゃ、切り甲斐がありませんわ。ねー、シロちゃん?」


「くぅ〜ん!」


同意するようにシロちゃんが尻尾を振る。


一方で、アルフレート様は「いらない」と断言されたショックで、魂が抜けたような顔をしていた。


「……そうか。もふもふ、ではないからな……。すまない、変なことを言った」


力なく立ち上がり、フラフラと自室へ戻っていく旦那様の背中。


あら、また疲れちゃったのかしら?


(公爵家のお仕事って、本当に大変なのね。シロちゃんの抜け毛を詰めたクッションでも差し入れしてあげようかしら。きっと癒やされるはずだわ!)


翌日。私は宣言通り、シロちゃんのブラッシングで出た極上の抜け毛を丁寧に集め、シルクの布で包んだ特製クッションを抱えて旦那様の執務室を訪れた。


「旦那様! お疲れのようでしたから、差し入れを持ってきましたわ!」


扉を勢いよく開けると、アルフレート様は期待と不安が入り混じったような、なんとも複雑な顔で私を迎えてくれた。


「……リリアか。それは、君の手作りか?」


「ええ、そうです! 中身は全部、シロちゃんの抜け毛なんです! 最高にもふもふさせたかったので、これでもかってくらい詰め込みましたの!」


私の言葉に、アルフレート様の動きがピタリと止まった。


手にしたクッションを、まるで未知の爆発物でも見るような目で見つめている。


「……中身が、その……シロの、毛?」


「ええ、そうです! 旦那様だって、もっともっともふもふさせたいんですものね!? 私、わかっているんですよ!」

「昨日だって、あんなに切なそうにシロちゃんを見つめていたじゃないですか。本当は、心ゆくまでもふもふに顔を埋めて、その、もふもふの海で溺れたいんですよね!?」


私はギュッと拳を握り、熱弁を振るった。


「恥ずかしがらなくていいんです。人間、誰しももふもふの魔力には抗えませんから! 旦那様の枯渇したもふもふ成分を、私が全力で補給して差し上げますわ!」


「リリア……。私が、君に髪を……いや、私に触れてほしそうにしていたのは、その……もふもふしたかったからだと思っているのか?」


「えっ? 違ったんですか? ああ、そうですよね! 髪だけじゃ足りないですよね! もっと全身で、圧倒的なもふもふ感を味わいたいんですよね!? 私、もっと頑張ってシロちゃんの毛を集めますわ! 旦那様をもふもふで包囲して、世界一幸せな公爵様にして差し上げますから!」


「…………」


アルフレート様は、絶望したようにクッションに顔を埋めた。


ああ、見て。シロちゃんの香りと、私の愛(もふもふ限定)が詰まったクッションに、あんなに深く顔を沈めて……。


「……ああ。確かにこれは、いい……もふもふ、だ……」


「でしょう!? 旦那様の心も、今、もふもふに浄化されてますわ!」


私が満面の笑みで胸を張ると、アルフレート様はクッションに顔を埋めたまま、籠もった声で何かを呟いた。


「……リリア。次は、その……クッション越しではなく、私を、直接……」


「あっ! 旦那様、見てください! 窓の外でシロちゃんがゴロゴロして『追いもふもふ』を待ってますわ! 待っててシロちゃん、今行きますわよー!」


「リ、リリア……待て、行くな……っ!」


旦那様の悲痛な叫びを背中に受けながら、私は弾むような足取りで庭へと飛び出した。


政略結婚で愛はないけれど、今日も我が家は平和でもふもふだわ!


「待っててシロちゃん、今行きますわよー!」


私が庭に駆け出そうとした、その時。


背後から伸びてきた力強い腕に、手首を掴まれた。


「……待てと言っているだろう、リリア」


「ひゃっ!?」


引き寄せられた先には、クッションを投げ捨て、見たこともないほど真剣な眼差しをしたアルフレート様がいた。


その瞳は冷徹な氷ではなく、内側に熱い炎を宿しているようで、私は思わず息を呑む。


「だ、旦那様……? そんなに焦らなくても、シロちゃんは逃げませんわよ?」


「シロの話はやめろ」


低く、響くような声。


彼は私の手首を掴んだまま、ぐい、と自分の方へ引き寄せた。


私たちの距離が、鼻先が触れそうなほどに縮まる。


「いいか、よく聞け。……私が欲しかったのは、シロのブラシではない」


「えっ、あ……。じゃあ、両親が飼ってる聖鳥さんのトリートメント……?」


「それも違う!」


アルフレート様が声を荒らげた。


彼は私の肩に手を置き、逃げ道を塞ぐようにして、真っ直ぐに私の目を見つめた。


「私が……私が髪を触ってくれと言ったのは、その……君に、触れてほしかったからだ。シロを撫でるように、愛おしそうに、私だけを見てほしかったんだ」


「え……?」


頭が真っ白になる。


君に触れてほしかった? 私だけを見てほしかった?

それって、つまり……。


「私が赤くなったのは、もふもふの可愛さに当てられたからではない。君に、不意に手を握られたからだ」


「…………っ!」


「リリア。私は、君という『女性』を求めている。もふもふの仲介などいらない。政略結婚だと言ったが……私は、君のことが――」


一気に突きつけられた「男の人」としての熱い思い。

今まで「シロちゃんのおまけ」くらいにしか思っていなかった旦那様が、急に大きな一人の男性として迫ってくる。


私の心臓が、ブラッシングをしている時よりもずっと激しく、ドクドクと音を立て始めた。


「……あ、あの、旦那様……。でも、私たち、愛はないって……」


「そんなものは、今、私が捨てた」


アルフレート様の顔が、ゆっくりと近づいてくる。


もふもふのクッションは、いつの間にか床に転がっていた。


「……旦那様が、そんな顔で私を見るなんて……反則です……っ」


私の声は、自分でも驚くほど震えていた。


顔が熱い。シロちゃんの温もりに触れている時のような、じんわりとした温かさじゃない。体の芯から沸き上がるような、爆発しそうな熱さ。


(何これ……。もふもふじゃないのに、こんなに胸が苦しいなんて……!)


アルフレート様は、私の答えを聞くと、ふっと目元を和らげた。


その、掠れたような吐息が私の唇をかすめる。


「……反則だろうと何だろうと構わない。君の意識を独占できるなら、私は何でもする」


「……っ」


大きな手が、私の後頭部を優しく引き寄せる。


シロちゃんの毛並みよりもずっと滑らかで、整えられた旦那様の髪が私の指先に触れた。


昨日、「いらない」と切り捨ててしまった、あのサラサラの髪。


(……ああ。もふもふしてなくても、こんなに綺麗で、愛おしい……)


私たちは、政略結婚の夜に誓った。愛はない、と。


でも、そんな契約、最初からなかったみたいに心がざわついている。


「リリア。君の『欲しいものリスト』の、一番上に……私を入れてくれないか?」


「……そんなの、ずるいです。もう、入っちゃってるじゃないですか」


私が顔を真っ赤にして、彼の胸板に額を押し付けると、アルフレート様は嬉しそうに、そして今度こそ「勝ち誇った主」のような顔をして、私を強く抱きしめた。


床に転がったもふもふクッション。


庭で待ちわびているシロちゃん。


ごめんなさい、今だけは、少しだけ待っていて。


だって、今はこの「もふもふじゃない、熱くてドキドキするもの」に、私も溺れていたいから。








「くぅ〜ん!」


シロちゃんの声が聞こえた。














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