笛の音が聞こえる
僕がその少女に出会ったのは四年前、小学校三年の夏だった。夏休みに家族でそろってキャンプに出掛けた時の二日目。あれは確か、夜中の二時頃だったと思う。昼間散々遊んで疲れているはずなのに、寝る直前に聞いた怪談のせいだろう。僕は眠れずにいた。何度か寝袋の中で寝返りを打ったけれど、余計にいらつくだけだったから、テントの外へ出ることにした。
パジャマ代わりにしていた半袖のTシャツとジョギングパンツのままで外に出る。少し肌寒く感じられる山の夜の空気を思い切り吸い込んで空を見上げた。空気が澄んでいるので、星がとてもたくさん見えたことをはっきり覚えている。この日は不思議な程、満月が白く明るかった。
僕はふと、夜の山を散歩してみたくなった。一人でちょっと冒険してみたかったのだ。車が通る道から続いている獣道をどんどん入っていくと、不思議な笛の音が聞こえてきた。今から思えば、少しアンデスの音楽に似ていたような気がする。僕はその音を探してさらに奥へと進んで行った。すると、ふいに木々が途切れ、ススキ野原に出た。
そのススキ野原の真ん中で、月光に照らされながら一人の少女が笛を吹いて舞っていた。不思議な音色と旋律、そして月光の中で舞う彼女の美しさに思わず見とれていた僕は、笛の音が止まったことにも気づかずにぼんやりと突っ立っていた。不意に少女が振り向いた。彼女の顔が光に照らされる。肩の辺りで揃えられた黒髪に白い肌。その当時の僕と同い年ぐらいに見えたその少女の瞳は、金色だった。
「誰、あなた?」
少し幼い声が僕の耳に届いた。咎めるようなその口調に押されて僕は
「槙田…和昭…」
と答えた。
「君は何て言うの?」
「沙姫」
彼女はにっこり笑ってそう名だけ名乗ると、僕の方へ駆けてきた。
「あなた、何してるの?」
「え?…散歩…君は?」
「遊んでたの」
「遊んでた?」
僕は彼女の意外な答えについ聞き返していた。彼女は、逆に聞き返した僕を不思議そうに見つめた。
「そうよ。何かおかしい?」
「だって、何もないじゃないか」
そう。確かに何もなかった。ゲームもマンガも何もない。あるのはただ、彼女が手に持っている笛と辺り一面のまだ青いススキだけだった。僕には、遊べるような物は何一つないように思えた。
「どうして何もないの?ここには私の友達がたくさんいるわ」
「友達?」
僕はもっと不思議に思った。彼女の前にいるのは僕だけだったし、辺りには誰もいない。出会ったばかりの僕を友達だと言ってくれているにしても“たくさん"という言葉がおかしかった。
「うん」
しかし、彼女は実に簡単に肯定してにっこりと微笑んだ。僕は、彼女の可愛い笑顔に赤面しながら、
「だけど誰もいないじゃないか」
と反撃した。
「人はいないわ。けど、木や草はたくさんいるもの」
「木や草?」
「そう。みんな私のお友達。この笛を吹くとね、皆これに合わせて踊るのよ」
「嘘だ、そんなの」
僕はむきになった。心のどこかで、この子ならそんな不思議を起こせるかも知れない、と思いながら。
「嘘じゃないもん。見せてあげようか?」
「うん」
僕の返事を聞くと、彼女はすうっと目を細め唇に笛を押し当てた。その真剣な顔は妙に妖しく見えた。
かるく息を吸って静かに吹き出した。それは、僕が追いかけていたのと同じメロディーだった。何度も同じフレーズが続く曲だったのだが、その一回目が終わろうとした頃、僕はあることに気づいた。
ススキが揺れている。そして木々の葉ずれの音がし始めていた。最初のうち、僕は風が吹いているのだろうと思っていた。しかし風はそよとも吹いていない。
その時、確かに木とススキは踊っていた。彼女の笛の音に誘われて彼らなりに踊っている。楽しそうに。陽気に聞こえる葉ずれの音が木々の笑い声のように思えた。
「本当だったでしょう?」
笛を吹き終えると、彼女は後ろで手を組み、自慢気にそう言うと、ぐいと触れそうなぐらい思い切り近くに顔を寄せ、僕の顔をのぞき込んだ。
「う…うん」
いきなり間近に顔を近づけられた僕はのけぞって返事をした。女の子に急に顔を近づけられて驚いたからだ。彼女はそんな僕を首をかしげて不思議そうに見た。しかし次の瞬間、その顔がふとゆがむと、泣きそうな表情に変わった。
「どうして逃げるの?私の事、嫌い?」
「う、ううん。そんな事ない」
「よかった」
彼女は心底安心した、というような笑顔を見せた。
「私、和昭君のこと好きよ。笛の音、聞こえたんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、もっといい所に連れて行ってあげる」
「ありがとう…ね、沙姫ちゃん」
「沙姫でいい」
「あ…うん。あの沙姫、笛の音、聞こえたんでしょう、ってどういうこと?あの笛って普通聞こえないものなの?」
「うん…。あのね、この笛の音はね、木と風の歌声なの。だから本当に、心から木とか山とかが好きで大事にしてくれる人にしか聞こえないの」
「でも、僕そんなに大事にしてないよ、だってこの前の体育の時草抜いて遊んでたし、お花見に行った時桜の枝折っちゃったし、それに…」
「そんなの大した事じゃないよ。和昭君が抜いた草はきっと他の誰かに摘み取られてしまう自分を知っていただろうし、桜だって自分が綺麗だから折られたんだってわかってるよ。それに完全に死んじゃったわけじゃないんだし」
僕はそう言ってにっこりと笑った彼女を不思議な思いで見つめていた。木や草に感情がある、ということ自体不思議だったし、それを彼女が理解できるということも不思議だった。
「沙姫は桜の気持ちってわかるの?」
「うん。木や草達の悲しみを聞いて笛で慰めてあげるの。それが私の一族の仕事であり、私の遊び」
「一族?」
「そう。私ね、“山の民”と呼ばれる者の一人なの」
「”山の民”?」
「うん」
“山の民”という言葉は、何故か僕の心に引っ掛かりを残した。その言葉は、人外の者の匂いを伴っていた。
僕はふいに思い出していた。沙姫の目が、金色だったことを…。背筋が一瞬、ぞくりとした。
「沙姫は…人間、なの?」
「さあ…」
彼女はそっと微笑んでみせた。それは、これまで彼女が見せていた幼い少女の微笑みではなく、何かもっと年上の女性を感じさせた。外見に似合わない、落ち着いた妖しさだった。
「私は人間なんか大嫌い。特に、今の大人は大嫌い。山が泣いているのに気づかないで。笛の音も聞かないで。自分達のくだらない遊びや目的のために、木を山を殺していく。…昔は皆笛の音を聞いて山を守ってくれていたのに。…今では誰も笛の音を聞かない…聞こうとしない…」
その時、僕の目の前にいたのは幼い少女ではなく、山を治める女神だった。大人の女性のような憂いをたたえ、悲しい目をした童女神。それが、沙姫だった。
いつもの僕なら、ここで逃げ出してもおかしくなかった。二つ年上の兄や父の怪談を信じておびえ、怖くて眠れない夜を数え切れない程経験している僕だったら。それほど沙姫は美しく、恐ろしかった。“僕”というちっぽけな人間には分からない、自然と共に生きていくことを運命づけられた古からの一族。その一族の姫である沙姫はあまりに神秘的に見えた。
しかし、僕は動けなかった。何故動けなかったのか、その理由は今でも分からない。僕が同情するような事ではなかったけれど、同情に似た、何と表現すべきか分からない感情。もしかしたら、この時僕はわずかながら沙姫の心に同調していたのかもしれない。
この時の事で唯一はっきりしているのは、この瞬間、僕は沙姫に恋をした、という事だけだ。そのことも、動けなかった理由の一つかもしれない。
「あれ、どうしたの?そんなぼうっとした顔して」
沙姫はもう僕と同い年ぐらいの少女に戻っていた。少し残念なような気もしたけれど、安心したもの確かだ。
「別に何でもないよ。ね、どこに連れて行ってくれるの?」
「こっち」
そう言うと、沙姫は僕の手を取って走りだした。木々の間をたくみに駆けて行く彼女の姿はやはり、山の女神だった。
「ここ」
立ち止まった彼女の向こうに一面の花畑が広がっていた。太陽ではなく、月の光を浴びて揺れる花は幻想的な美しさだった。そこにはありとあらゆる色の花があるようだった。
「うわあ……」
知らないうちに僕は感嘆の声を上げていた。彼女は僕の声を聞くと得意気に笑った。
「うふふ…綺麗でしょう?」
「うん。すごいねぇ、いろんな花があるや」
「ここはね、私の秘密の場所なの。父様や母様だけじゃない、一族の長老様でさえ知らないの」
「へぇ…」
「だってここは、山が私のために作ってくれた場所なんだもん」
「山が?」
「そう」
僕は、ふうん、とつぶやいて何気なく足元に咲く花を見た。
「沙姫、ここの花全部蕾だね。咲いてる花、ないみたいだよ」
僕がそう言うと、彼女小首を傾げて気取ったポーズを取って
「コホン。それでは和昭君に特別、私めの魔法をお見せいたしましょう」
と言って笛をかまえた。
今度は少し明るく可愛らしい感じの曲だった。僕は沙姫が特別見せてくれるという魔法を、どきどきしながら待っていた。すると、急に花畑のあちこちから光が月に吸い込まれるように昇っていった。光が全ての花から放たれ月に吸い込まれると、花畑に虹が掛かり、花が咲き始めた。
月光でできた虹は、沙姫に似た美しさを持っていた。そして、その虹の下で咲く花は、太陽の下で咲くよりも美しいように思えた。
「どう?」
「本当に魔法だ」
「でしょう?」
得意気に微笑む彼女は無邪気で可愛らしかった。
この後、僕達は沙姫の提案で鬼ごっこを始めた。むせるほど甘い花の香りに包まれて、きゃあきゃあ騒ぎながら、夜の花畑を駆け回った。どれぐらいそうしていたのだろう。疲れた僕は花畑に倒れ込んだ。空を見ると月が西の方に沈みかけていた。
「沙姫、明日も一緒に遊べる?」
僕の隣に彼女が座ってから聞いてみた。
「さあ…和昭君が私の所に迷わず来られた遊べると思う」
「どういうこと?」
「私は同じ所にはいないから。明日もここにいるとは限らないもん」
「他の山に行くの?」
「かもしれないし、ここにいるかもしれない。この笛を吹けるのは私だけだから、あちこちの木を一人で慰めてあげなくちゃいけないの」
「他の人には吹けないの?」
「うん」
「どうして?」
「この笛は山の女王だけが吹くことができる笛だから」
「ひめみこ…って何?」
「じょおうの事」
「ああ…じゃ、沙姫が女王様なの?」
「そう」
「へぇ…偉いんだね」
この時の僕にはこういう言い方しかできなかった。彼女は余程この言葉がおかしかったらしく、少し間をあけてから声を上げて笑い出してしまった。
「あはは…やだ、和昭君ってば。うふふ…」
「ええっ何?僕そんなに変なこと言った?」
「ううん…。あ、夜が明けそう。和昭君、もう戻った方がいいよ。テントまで連れて行ってあげる」
「場所知ってるの?」
「もちろんよ。私はこの山の全てを知ってる。さ、戻ろ」
沙姫は僕の手を取ると、この花畑に連れて来たのと同じように、迷う事なく僕の寝ていたテントの所に導いてくれた。
僕達は、テントの前で向かい合っていた。
「楽しかったよ。また、会いたいな」
「私もよ…和昭」
“君”が取れた、と思った時、僕の胸元に沙姫がいた。そして彼女の柔らかな唇が僕の頬にそっと触れた。
「……沙姫」
「じゃあね。バイバイ」
彼女は軽く手を振って身を翻すと、夜明けの山の中へと帰って行った。僕は彼女の跳ねるように駆ける後ろ姿をぼんやりと見送っていた。
こうして僕の初恋の少女は去って行き、僕はこの後彼女の姿をみることはなかった。月光が似合う幼い山の女神はあの頃よりも少し大人の姿で、今も山々を巡っているのだろう。あの不思議な微笑と笛と共に。それからも毎年、僕の一家はあの山を訪れている。その度に、夜中にテントを抜け出しては山を歩いてみるけれど、やはり彼女に会うことはできない。
しかし、僕は今でも時折あの笛の音を聞く。
はじめまして、霜月です。
これからちょくちょく色々投稿していこうと思っております。
良ければお付き合いの程よろしくお願い致しますm(__)m