一
「さて君は、良い話と悪い話、どちらを先に聞きたい?」
——そう言って不敵に笑うその人は、自分を「神さま」だと名乗った。
◇◇◇
そこは、真っ白な世界だった。
地面も空も白く、見渡す先も白く、何もない世界。
僕は一人でそこに立っていた。
「もし誰も気づかなかったら、そのままにしておこうと思っていたんだ。ほんのわずかな時間だし、魂が体から離れた後、全部正しい輪廻に戻せばいい」
突然すぐそばで聞こえた声に、驚いて尻もちをついてしまった。声のした方向を見上げると、そこには知らない誰かが立っていた。
「やあ、少年。こんにちは。いや、今の時間帯なら『こんばんは』かな?」
しっかり直視したはずなのに、不思議と顔の造形は覚えていない。
ただ薄緑のサラリとした髪色だけは、今も目に焼き付いている。
「あの……あなたは誰ですか?」
身に纏うのは何の飾りもない真っ白なシャツとズボン。その人は尻もちをついている僕へ、笑いながら片手を差し出した。
「肝が据わっているな、少年。さすがだね。立ちなさい」
僕が恐る恐る伸ばした手を掴んだその人は、その細腕ではよりもずっと強い力で僕を引っ張り上げた。
「さて、少年。私が誰かということだが」
僕を立たせたその人は、腕を組むと「うーん……」と少し悩むように唸ったが、開き直ったような表情で言った。
「私は、神だ」
「神……?」
「そう、神だ。君の世界の神ではないけど、本物だぞ」
「……神」
「その顔は信じてないな!? わかるぞ、私もそう言われたら同じ顔をする」
自称「神」と名乗ったその人は、僕の懐疑的な視線をものともせず、同意するように大きく頷いた。
「……神さまが僕に何の用ですか?」
「少年の悩みの答えを持ってきたんだよ。さて君は、良い話と悪い話、どちらを先に聞きたい?」
「神」が不敵に笑ってそう言った時、知らない第三者の声が割り込んだ。
「神。相手はまだ子供です、その聞き方はやめてください」
気付くと、神の側に一人の女性が立っていた。
濃い緑色をした長い髪に、鮮やかな緑色の目。
そして、神が真っ白な服を着ているのに対し、彼女は真っ黒で簡素なワンピースを着ていた。
この白い世界で、唯一と言える鮮やかな色を持つ彼女は、どこか異質に見えた。
「そういえばそうだった」
緑色の目に睨まれた「神」は、悪びれた様子なく肩をすくめた。
「それじゃあ少年、時系列で話すことにしよう。主題は君の大切な幼馴染のお姫さまについて」
神がさらりと言った一言で、僕は思い出す。
僕の大切な幼馴染。
サーシャ。
そうだ、僕は。
サーシャの熱が下がったと聞いたから、お見舞いに行って。
サーリアシャから、気分がすぐれないから帰って欲しいと言われて。
夜、胸に残るモヤモヤとした感覚を抱えながらベッドに入った僕は、気がついたらここにいた。
僕は目の前にいた「神」の服を両手で掴む。
「サーシャは、あれはいったい何なんですか!?」
お前が神だと言うのなら、あのサーリアシャはいったい何なんだ。
「悪いがその前に、こちらからも一つ質問だ」
神は服を掴む僕の両手をそっと持ち、そのまま僕の顔を覗き込むと言った。
「少年、きみはサーリアシャを見てどう思った? 率直に答えよ」
神の顔を見上げる僕の口が、勝手に動く。
——サーシャはあんなふうに笑わない。
——サーシャはあんなふうに話さない。
何より、サーシャは僕を「殿下」と呼ばない。
他の皆がどう思ったのかはわからない。
だけど、僕には彼女がサーシャの皮を被った『怪物』に見えた。
「そうか。それなら、やはり……」
何かを呟きかけた神は僕を見下ろして、とても優しい声で言った。
「今から君にとても辛いことを告げるよ。——あれは少年のお姫さまじゃない。少年のお姫さまは、もう君の世界に存在しない」
『エレンさま』
サーシャの笑顔が浮かんで、消えた。
「正しくは、他の魂と入れ替えられてしまった。少年の世界を作った神によって」
呆然としている僕から少し距離を取った神は、片手をスッと横に向けた。
その手の中に突然。小さな鳥籠のようなものが現れた。
中に入っているのは、黒と灰色が混じったような、ぼんやりとした『何か』だった。
「これは君の世界の神だ。知っているだろう? 主神、女神イェルラーラ。その成れの果てさ」
キーキーと耳障りな音を発して鳥籠が小さく揺れた。
神は嫌そうな顔をして、鳥籠を睨む。
「こちらが呆れるぐらい元気だなあ……今は黙っといてくれる?」
凍り付いたかのように、ぴたりと音と鳥籠の揺れが止まった。
「さて。話の続きだが」
神はブラブラと鳥籠を揺らしながら言った。
「この馬鹿女神が、少年の大切なお姫さまの体に別の魂をぶち込んだんだよ。それがルールに反することだと知っていながらな」
一息ついた神は、僕を見て言った。
「今、お姫さまの体の中にいるのは、別人の魂だ。彼女は自分がサーリアシャに生まれ変わったのだと信じこんでいる」
「どう、して……」
やっと出せた声は掠れていた。
「やっぱり」という感覚と、「どうしてそんなことに」という感覚が混ぜ合わさって、上手く息ができない。
「大丈夫ですか? ゆっくり息を吐いて。そうしたら、ゆっくり息を吸って」
女性がそっと僕を床に座らせ、背中を撫でる。
「神!」
「仕方がないだろう。私にはこれ以上、優しく言う術を知らないよ」
神は少し困ったような顔をして言った。
「すまない、少年。信じたくない話と信じられない話ばかりだろう。でも、君にはこの話を聞く権利がある。だから、ここに呼んだ」
「ここは、世界と世界の狭間です。今回はあなたの夢とこの場所を繋ぎました」
「……サーシャは?」
やっと呼吸ができるようになった僕は、顔を上げて再び神に掴みかかる。
「じゃあサーシャは!? どこにいるんだよ、だいたい何なんだよ、他人の魂が入り込んだって!!」
「落ち着いてください、まずは私たちの話を聞いて」
女性が必死に僕の体を後ろから抑えようとする。
「別に落ち着かなくていいよ。落ち着いても、落ち着かなくても、現状は変わらない」
神が静かに言った。
「少年の大切なお姫さまの魂は、もう少年の世界にいない。こればかりは、少年が信じても信じなくても変わらない」
神を見上げる視界がみるみる水で滲んでいく。
「何で……そんな……そうだ、お前は神なんだろう!? だったら! 返せよ、返せ……、僕のサーシャを、返してよ……」
小さな子供のように床に座り込んで泣く僕に、神と女性は何も言わなかった。
ただ、そっと僕に寄り添うように座った二人は、僕が泣き止むのを、ずっとずっと待っていた。