四
「エレンさま」
崩れていく景色の中で、君が笑っていた。今にも泣きだしそうな顔で、君が笑っていた。
「大好きです、エレンさま」
だから、と君は続けた。
「ずっと待ってるね。エレンさまのこと、ずっとずっと待ってるね」
待って、サーシャ……行かないで。
僕は……僕は、君だから好きになったんだ。
それなのにどうして、君以外の人を幸せにしないといけないんだ!!
伸ばした手は空を掴むばかりで、いつも君に届かない。
◇◇◇
動かない体が情けなくて、僕はベッドの上で一人笑った。
視界に映るのは病室の天井。ほんの少し指先を動かすことは出来るけれど、それも自分で分かるほどに酷く力のいることだった。
——ねえ、サーシャ。僕のたった一人の婚約者。
君に最後に会ってから、もう三十年以上が経った。
ミルクティーに似ていると言ってくれた髪は、灰色に近い茶色に変わってしまったし、記憶の中の君は何も変わらないのに、僕の腕は枯れ木のようになってしまった。
君が消えてしまったあの日から、僕の世界は色褪せたままだ。
ねえ、サーシャ。僕は頑張れただろうか。彼女を幸せにできただろうか。
途中で、手放すことになってしまった彼女は、幸せになっただろうか。
会いたいよ、サーシャ。
一人ぼっちは、もう嫌だ。
涙が目元に溜まり、視界が霞む。最後に泣いたのはいつのことだっただろう。
君がいない時間を一人でがむしゃらに生きた。泣いている暇なんてなかった。
なあ、神さま。そろそろサーシャに会わせてくれてもいいだろう……?
虚ろだった意識が突然、ふっと軽くなった。
まるで、体と意識を繋ぐ細い糸がプチプチと切れていくような感覚に「ああ、これか」と、遠い昔に聞いた話を思い出す。
見えない細い糸がプチリと切れていくたびに、意識が少しずつ体から離れて宙に浮く。
そして、最後に残った一本の糸が切れかけた時、
「やあ、少年」
――とても懐かしい、声がした。
「久しぶりだね。随分と頑張ったみたいじゃないか」
他の音はもう何も聞こえないのに、その声だけは、はっきりと耳に入ってくる。
「さて、君との約束を果たす時が来たようだ」
面白そうに、楽しそうに、告げられた、言葉は。
「——君の絶望と悲しみと苦しみと縋り付いた希望をかてに、この世界のかつての神の名を持って、世界を構築することにしよう……これが、君を見てきた私の答えだ」
いつかのように、くしゃりと頭を撫でられる。
「それまでは、お姫さまと一緒に眠るといいよ」
その言葉を最後に、僕と体を繋いでいた最後の糸が、プチリと切れた。
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アタニア侯爵エルアレン
(クロティルド朝三十七年―七十八年)
賢王と名高いアデルバート二世の実弟。
青年期に問題行動が多く、当時の有力貴族、ウェスター公爵家のサーリアシャと婚約していたが、十八歳で婚約を破棄。それを切っ掛けに王位継承権を剥奪され、臣籍へ降りた。
クロティルド朝五十八年、兄であるアデルバート二世の戴冠後、アタニア侯爵位を得た。その後、心を病み、離宮での隔離生活を送った。アデルバート二世兄弟との仲は良く、体調が良い時は一緒にチェスを楽しんだ。晩年は、かつての婚約者であるサーリアシャへの恋文を綴りながら生涯を終えた。
一部の歴史家は、エルアレンとサーリアシャの婚約破棄は、後述するロンファルティア、フィールディア、オラヴ皇国間の三国貿易協定を成功させるための計画的なものだったのではないかと疑問を抱いている。
~~中略~~
また、エルアレンの幼少期の婚約者であったサーシャリア・ウェスタ―公爵令嬢は、当時の友好国であったオラヴ皇国第三皇子、ルウェリン・ダヴィズと結婚した。しかし、その後、サーリアシャがオラヴ皇国でどういった生活を送ったのかは、公式記録に残っていない。