「幸せになったはずだった」
そう、私は。
幸せになった、はずだった。
乙女ゲームのシナリオから抜け出して、幸せになったはずだったのに。
どうして? どうしてなの。何で、こんなことになっているの。
もしかして、あのゲームには続編があったの?
暗い寝室の大きなベッドの上で、私は夫になった男を見上げて震えていた。
今日はルウェリン皇子との婚礼の日だった。
朝から続いていた式がやっと終わって、侍女たちに会場から連れ出された私は、そのまま浴槽で全身を磨き上げられ、純白のナイトドレスを着させられた。
そして侍女たちから、こちらでお待ちくださいと、夫婦の寝室となる部屋の大きなベッドに案内されて。
この後、ついに初夜なのねと、ドキドキしながら待っていたけど、現れた夫は私と違って婚礼の衣装のままだった。
「サーリアシャ。僕は君に言わないといけないことがあるんだ」
ベッドに座る私を見下ろして、ルウさまはとびきり優しい笑顔で言った。
「——僕が君を愛することはない」
何を言われたのか、最初は分からなかった。
向けられている笑顔は、いつもと変わらないのに、纏う空気だけが別人のようで。
「ルウさま……? どう…いう、こと?」
「そのままの意味に取ってくれて構わないよ、サーリアシャ」
紫の目はよく見ると、鋭い氷のように冷たくて、口元に薄く浮かぶ笑みは、どう見ても嘲笑だった。
どうして、そんな顔をするの。あなたは私をあいしているんじゃなかったの?
『急がせてごめんね。でも、早くサーシャリアをお嫁さんに迎えたくって』
そう言ったのは、あなたでしょう……?
「私のこと大切にするって言うのは、嘘だったの? 私のこと…騙したの?」
「嘘をついても、騙してもない。僕は君を大切にするつもりだし、平穏な暮らしを約束するよ。ああ、でもこの国の『平穏』と、君が思う平穏は違うかもしれないけどね」
ルウェリン皇子は、私から離れた場所にある大きなソファに座って足を組んだ。
「僕はね、正直言って、君が嫌いなんだ」
そのまま、私から目を離さずにルウェリン皇子は言った。
「夢ばかり見て、現実を知ろうとしない。君は短絡的な幸せばかりを選ぼうとする。いくら友人の頼みだからって、僕にも限界がある」
「友、人……?」
「そう。彼に頼まれた。どうか君をあの国から連れ出してくれと。このままだと君が投獄されてしまうからと」
投獄? 何のこと?
私は何もしていない。ヒロインを虐めてもいない。
それでも、強制力で投獄されかけてたって言うの?
私の強張った顔を、ルウェリン皇子は呆れたように見ていた。
「本当にわかっていないんだね…自分がこれまでやってきた事がどれだけ問題なのか」
これ見よがしに、大きくため息をついたルウェリン皇子は口を開いた。
「君、元婚約者の第二王子を無視してたらしいね。王宮で開催される茶会でずっと」
「あれは……!」
第二王子と関わらないための作戦で……。
「知ってる? 婚約者であってもね、王族の言葉を無視すると不敬罪に当たるんだよ」
不敬罪……?
呆然としている私に畳み掛けるようにルウェリン皇子は言う。
「それも、毎回だっけ? いくら婚約者同士の茶会でも、王宮で開催されている以上、主催は王家なんだ。君は王家を侮辱しながら茶会に参加し続けたのさ」
「侮辱なんて、そんな……」
「君がそう思っていなくとも、周囲はそう取っていたようだよ」
楽しげに嗤いながらルウェリン皇子は続けた。
「ただの貴族でしかない君が王族を無視するなんて、王家からすれば最悪だよね。ああ……それに君、王太子に言い寄ったんだって?」
「そ、んなこと、してない……」
「本当に?」
今までの彼はどこに行ったのか。
最早、別人のようなルウェリン皇子に、私の震えが止まらない。
「夜会が開かれる度、王太子に相手役をせがむと聞いたけど。婚約者の第二王子じゃなくて」
王太子はね、随分と迷惑がっていたよと、世間話でもするようにルウェリン皇子は言った。
「何より、王太子の婚約者でフィールディア王国のジョヴァンヌ王女にスープをかけたんだって? 一歩間違えれば大火傷で国際問題。良かったね、首を切られなくて」
——そう。私は、ずっと王太子が好きだった。
どうして私の婚約者は王太子じゃないんだろうとずっと思っていた。
だけど、王太子はすでに国益のために他国の王女と婚約していたから、私が割り込むことはできなかった。
あのスープだって、ほんの少し八つ当たりしたかっただけ。王太子と結婚できるあの王女が羨ましかっただけ。
「君の国では、貴族は学園を卒業すれば、成人と見做されるようだね。学園を卒業するまでは、まだ子供のする事とギリギリ許容されていた。けれど、成人となったら話は別だ。夫となる予定の第二王子には不敬を働き、王太子には色目を使う。そんな婚約者、いらないよねえ」
ルウェリン皇子はソファの手すりに肘を置き、手の甲で頬杖をついた。
「それでも、君の元婚約者は優しい男だった。最後まで君を庇った結果、王族ですら無くなってしまった」
向けられているのは、まるでゴミを見るような目。
「僕との婚約はね、彼から提案されたんだ。このままだと、山盛りの不敬罪で投獄されてしまうであろう、君を助けるために」
私を……助けるため?
「元々は、君の祖国とフィールディア国の貿易協定。王太子の婚約によって結ばれたあの協定に、オラヴ皇国も一口噛ませて貰いたくてね。できれば王家の血を引く相手との婚姻を。難しければ、国内での有力貴族との婚姻を。最初は婚約者がいない令嬢との話が進んでたんだけど、君の元婚約者がね」
『僕の婚約者はいかがでしょう。少し遠いですが、王家の血を引いています』
「聞けば、君は条件にぴったりだった。問題は、第二王子と婚約していることだけ。あの婚約破棄は、この婚姻を進めるために彼が用意した茶番だよ」
それ以外にも事情はあったみたいだけど、そっちはうちの国には関係ないし、とルウェリン皇子は呟く。
「私は……オラヴ皇国に売られたの……?」
呆然として呟くと、ルウェリン皇子が小馬鹿にしたように言った。
「本当に頭の中に花が咲いているんだね。国家間の婚姻なんて政略に決まってるし、そもそも君が自分でこの国に来ることを決めたんだろう、サーリアシャ」
私は涙目で、ルウェリン皇子を睨む。
「あんな場で求婚されたら断れないじゃない!!」
「僕のせいにしないでくれる? あの卒業式の場で、君が自分で決めたんだよ。隣にいた王太子に相談もせずね」
面倒くさそうに、吐き捨てるようにルウェリン皇子は続けた。
「あの場で一番地位が高いのは、次期国王である君の国の王太子だった。いくら、他国の皇子に求婚されたからって、貴族の娘が勝手に頷いて良いものじゃなかったんだよ。一言でも良いから、王太子に確認するべきだった。君はあの瞬間、自分で幸せを捨てたんだ。誰よりも君を守ってくれた男を捨てて、短絡的な幸せを取った」
だって、だって、だって。
ここは乙女ゲームの世界で、第二王子はヒロインと浮気をして、私を断罪するの。
そう決まっていたの。だから、私は……。
「彼は願っていたよ。君が幸せであるようにと、ずっとね」
「彼」が誰かは、聞けなかった。
——きっとそれは、私のかつての。
「……して」
「ん?」
「私を、ロンファルティアへ帰して!!」
私は叫ぶ。
知っていたら。婚約者の私への気持ちを知っていたら、こんな男の手は取らなかった。
「帰して。私を愛していないなら、ロンファルティアへ帰してよ!」
「帰れないよ」
ルウェリン皇子は静かに言った。
「婚礼式は終わった。君はもうオラヴ皇国の人間だ」
「私を愛してないあなたとなんて、一緒にいられないわ!!」
「僕と一緒にいる必要はないよ。君はただ生きているだけで良い。君はうちの国にとっての『金の薔薇』だからね」
「その呼び方はやめて!」
この男はずっと私を金の薔薇と呼ぶ。私はそれに騙された。
「一体何なのよ、金の薔薇って!?」
「言葉の通りだよ」
悪びれた様子もなく男は続けた。
「君は我が国に利潤をもたらす、『金のなる薔薇』だ。今回の三国の貿易協定で、うちの国は中々の利益を得られる予定だ。君をこれから養っていくための経費を差し引いても、十分元が取れる」
貴族なら言葉の裏ぐらい読まなきゃねと言って、ヘラリと笑った男は呆然と座る私を置いて立ち上がった。
「ああ、そうだ。君と同衾する予定はないから、それについては安心して」
「ま、待ってよ!」
引き止めようと伸ばした手は、空気しか掴まなかった。
はじめて少し困ったような顔を見せた男は、扉に手をかけて言った。
「僕たち王族がどうして同じ髪の色、同じ目の色をしているかわかる? 他国の血を入れないからだよ。この目と髪は、オラヴ人の誇りある色。この色を持つことで、王族として認められる。これは国法にも記載されているんだ。君には、関係ないことだけどね」
ゆっくりと開かれていく扉から、廊下の光が差し込んでいく。
「じゃあね、我が国の『金の薔薇』。ここは君専用に作られた宮だ。皇子妃としての予算は十分あるから、宮から出なくても暮らして行ける。ま、他の男の子を妊娠されたら困るから、出入りできる人間は制限させてもらうけど」
——それじゃあ、最後まで、幸せな夢を見て。
はじめて会った時のような柔らかい笑顔を見せた男は、ベッドの上で青ざめる私を一人残して扉を閉めた。