三
《更新再開しました》
25/4/28までにブックマークしていただいた方へ。
EP.1の「再編集につきましてのご連絡(25/4/29)」を追加いたしましたので、ご確認をお願い致します。
「何で紅茶なのよ!?」
「ですが、エルアレン殿下がいらっしゃる日は紅茶にするようにと、お嬢さまが」
「今日はショコラにして! ミルクと砂糖をいっぱい入れたやつ。蜂蜜でもいいわ。前みたいに変な水は入れないでよね」
婚約者と向かい合ってソファに座っていた僕は、使用人に指示を出す彼女を呆然と見つめていた。
「第二王子殿下。本日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「あ、ああ。うん。熱が出たと聞いて……お見舞いに、君の好きな薔薇を用意したんだけど」
「……まあ。綺麗な薔薇ですわね」
僕が持つオレンジ色の薔薇の花束をチラリと見た彼女は、そのまま部屋の隅に立っていたメイドに声をかけた。
「ねえ、そこのあなた。殿下から花束を受け取って。あとで花瓶に飾っといて」
突然指名されたメイドは青ざめた顔をしていたが、僕に近づくと、震える手を伸ばして花束を受け取った。
「お待たせ致しました、お嬢さま。ご所望のショコラでございます」
甘い香りを漂わせるマグカップを、別の使用人がそっとテーブルの上に置いた。
婚約者は目の前のテーブルに並ぶティーセットには目もくれず、嬉しそうにショコラが注がれたマグカップを手に取った。
「これよ、これ!」
そう言って、嬉しそうに口をつける彼女に、僕は戦慄していた。
サーシャはそんなふうに話さない。
サーシャはそんなふうに笑わない。
サーシャは、
——お前は、誰だ。
僕のサーシャを騙る、お前は誰だ。
◇◇◇
「お久しぶりですね、ウェスター公爵」
貴族院専用の会議室。僕の前に座るのは、サーリアシャの父親であるウェスター公爵だ。
公爵を案内した使用人を退室させ、しばらく誰も入室しないように人払いを行った。
こうして公爵と二人きりで話すのは、実に五年ぶりのことだった。
「殿下も。お元気そうで何よりです」
「公爵……僕はもう王族ではありませんよ」
「いいえ、あなたは王族だ。少なくとも、私にとっては」
そう言って疲れたように笑った公爵は、僕がティーカップに注いだ紅茶の香りに目を緩ませた。
「ああ。この香りは、サーシャが好きだった…」
いつもはセスや他の使用人に準備を頼んでいる。けれど今回、僕自身が準備したこの紅茶は、ほのかに花のような香りがする、サーシャが好んで飲んでいた銘柄の一つだ。
公爵もまた、この紅茶の香りを忘れていないようだった。
僕はそっとティーカップを公爵へ差し出した。
ティーカップにじっと向けられた公爵の目は、サーシャと同じ紅茶に似たオレンジ色だ。
「……殿下。数日前、サーリアシャに付けていた家の者から、連絡が来ました。オラヴ皇国のルウェリン第三皇子との婚姻式が終わったと。これであの娘は、オラヴ皇国の民となりました」
公爵は僕が手渡したティーカップを持ったまま、長く息を吐いた。まるで、今までの時間をすべて消し去りたい。そんな息の吐き方だった。
「この方法が最善だったのはわかっていますが……やはり、辛いものですな」
僕が婚約者を失ったあの日、同じように、この人は愛娘を失った。
「あの国で……あの娘が、上手く生きられるとは思えないが」
公爵は言葉を切ると、首を何度か横に振った。
「いや、選んだのは娘だ。あれにとって過去の遺物である我々が言っても仕方ないことですな」
それは、まるで自身に言い聞かせているようだった。
「殿下。サーシャリアの父としても、ウェスター公爵家としても、ご懇情を賜ったこと、感謝してもしきれません。我らウェスター家は未来永劫、殿下に忠誠を誓います」
真摯な顔でそう言ってくれた公爵へ向かって、僕は小さく首を振った。
「そう言ってくださるのであれば、僕ではなく、兄に誓ってくださいませんか」
「……表舞台から去るおつもりですか?」
相変わらず、この人は鋭い。
言い逃れはさせないと言うように見つめてくる公爵の視線から逃げるように、僕は紅茶をひとくち飲んだ。
「僕が行ったことは理由があったにせよ、王家に泥を塗るようなことです。兄は僕の貴族籍を残そうとしていますが……僕が平民となっても、この血を利用しようとする者はいつか現れるでしょう」
僕は少し自嘲を浮かべた。
「女に現を抜かし、王家の醜聞をとなった馬鹿王子。この三年で、王家を利用しようとする者たちをあらかた捕らえることが出来たことは良かった。けれど、僕の存在はいつか兄を困らせることになる。僕はそれを望みません」
「どうして、そこまで……」
「サーシャと約束しました。兄を支える良い弟になると」
一瞬、虚を衝かれたような顔をした公爵は、どこか泣き笑いに見える表情を見せた。
「……うちの娘は、果報者ですなあ」
そう言って、公爵は片手で目頭を押さえた。
「失礼。最近、年を取ったせいか、涙もろくなってしまいましてな」
「……幸せ者なのは僕のほうですよ」
小さく呟く。
公爵に初めて会った時から十一年。口に出せないまま、公爵をもう一人の父と慕ってきた。
『殿下。あなたは、何かをご存知なのですか!?』
この人だけが、サーシャのことを気づいた。
この人だけが、僕と同じ疑問を持った。
だからこうして、僕はまだ正気を保っている。
滲んだ涙を瞬きで押しやった公爵は、ティーカップの紅茶をひとくち飲み、しみじみと言った。
「普段は珈琲ばかりを飲んでいますが、たまには……いや、これは殿下と飲む物ですな。一人で飲むのは、私には……辛い」
きっと、この人とこうして話すのも、これが最後となるだろう。
「……公爵。一つだけ、お願いがあるのです」
「何でしょう」
「僕は、ルウェリン皇子に……いつかサーリアシャの体から魂が離れたら……その時は、体をこの国に帰して頂けるよう頼みました」
公爵が息を呑む。
「それは……」
「書面で交わした取り決めではありません。僕がルウェリン皇子に個人的に頼んだものです」
僕はティーカップをソーサーに置いた。カシャリと、小さな音が会議室に響いた。
「あの国は、死者を火葬にするそうです。たちのぼる煙と共に、魂が天にのぼれるようにと」
ゆらゆらと揺れていたティーカップの水面は、すぐにじっと動かなくなる。
「ルウェリン皇子は、慣習として火葬は行うことになるだろう、けれど骨なら帰すことができると言ってくれました。これは、ただの口約束です。あちらの国が取り計らってくれるかはわかりません。だけど、もし」
必死に抑えているつもりなのに、声が震える。
「もし、サーシャが帰って来たら、その横で眠ることを許してもらえませんか」
僕は公爵に、深く深く頭を下げた。
「……お願いします」
沈黙が会議室を満たす。
しばらくして、公爵の穏やかな声が降って来た。
「顔をお上げください、殿下。どうか、そうして頂けますか。きっと殿下の隣で眠れるのであれば、娘も喜ぶでしょう」
「ありがとう、ございます……」
あいたい。あえない。君はもういない。
公爵は会議室を出る直前、僕を振り返って言った。
「殿下。あなたはあの日、私が娘を完全に失ったと思っておられるでしょう。ですが、私が失ったのは娘だけではありません」
その口元に、消えそうな薄い笑みを浮かべて。
「あの日。あの卒業式の日、私は娘だけでなく、未来の義息子もまた、失ったのです」
——僕もです、公爵。あなたを義父と呼びたかった。
狂わされた歯車は、二度と戻らない。
長くなってしまいました。
ショコラはマリーアントワネットが飲んだらしい「ショコラショー」のレシピを参考にしています。
・チョコレート
・ミルク
・砂糖
・香りづけにラベンダーティ、オレンジフラワー水など