一(追加)
——僕がずっと幼かった頃。思い描く幸せな未来には、いつだって君がいた。
◇◇◇
「エレン、もうすぐ国境に向かう馬車が出るそうだ。見送りは……本当にしなくていいのか?」
あの卒業パーティの日から二ヶ月。
執務の合間を縫って、忙しいはずの兄が僕を訪ねてきた。僕は手にしていた書類を机の上に置いて、兄を出迎えた。
「見送りはしません、兄上。僕は幽閉中の身ですから」
「……そうか」
僕と似たアイスブルーの目に、複雑な感情を浮かべた兄は、セットしているプラチナブラウン色の髪を右手でかき乱した。いつも冷静沈着な兄がその様子を見せるのは家族だけで、心から僕を気遣っているのがわかって少し嬉しくなる。
「せっかくの髪型が台無しですよ、兄上」
「また整えさせるから問題ない」
そう言いつつも兄は右手を頭から下げ、僕専用として用意された執務室の、さほど大きくないソファに座った。
「お疲れのようですね」
「まあな。だがお前が手伝ってくれている分、早く進むようになったよ」
僕が兄の向かい側に座るのを待っていたように、タイミング良く、僕の部下がティーポットとカップが乗った盆を持ってやって来た。
目の前に用意されたティーカップへ注がれたは、赤味がかったオレンジ色の液体。それと一緒に、紅茶の香りがふわりと部屋に広がっていく。
「これでやっと、ジョヴァンナ王女の輿入れができますね」
僕がティーカップを持ち上げながら言うと、兄は何とも言えない顔をした。
「正式な日取りはこれから決定されるが、おそらく予定通り来年の夏には輿入れとなるだろう。……だがな、エレン。俺は今回のことを未だに納得していないぞ。お前があんな娘のために王族から離脱するなんて」
「兄上」
僕はできる限り穏やかな笑顔をイメージして、兄に向って微笑んだ。臣下となったものが、王太子の言葉を遮るのは不敬でしかないが、ここは兄弟として許してもらおう。
「父上や母上とも話しましたでしょう? この案が一番良かったのです」
温かな紅茶を一口飲んだ。この時期の紅茶は渋みが少なくまろやかで、かすかに果物のような香りする。
「王太子である兄上がいるのに、僕に王位を狙うよう言ってくる不届者を一掃できましたし、延期せざるを得なかったジョヴァンヌ王女の輿入れ準備も進む。オラヴ国を含む三国の協力体制も築けました。僕一人の称号剥奪でここまで話が進んだのです、喜ばしいことではありませんか
「しかし…」
「それに、サーリアシャはあのままでは投獄されていました。彼女のためにも、これで良かったのです」
一緒に用意されていた小瓶の中のミルクを、ティーカップの中へ少し落とした。
白い靄が渦を描きながら、赤味ががったオレンジ色を薄茶色へ変えていく。
「ミルクを入れて飲む茶葉ではないのに。お前は相変わらずそうやって飲むのだな」
僕の行動を見ていた兄が、ポツリ言った。
「……サーシャがこうやって飲むのが好きでしたから」
僕の言葉に何も言わず少し俯き、もう一つのティーカップを手に取った。
「——一度、尋ねてみたかったのだか」
短い沈黙の後、兄はやや言いにくそうに僕に尋ねた。
「お前は……自分の立場を捨てても良いぐらいに、あの公爵令嬢を愛してたのか?」
兄の言う『公爵令嬢』が、今日オラヴ国へ旅立つ彼女を指すのなら、
「……さあ、どうでしょう」
僕が彼女を愛したことなど、一度もない。
それでも。
「兄上。愛している、愛していないに関係なく、僕はサーリアシャに幸せでいて欲しいのです。ただ、それだけなのです」
彼女を幸せにするのが、僕のできるたった一つのことだったから。
「あの娘の幸せの代償が、お前が立場を失うことでもか?」
「はい」
兄のティーカップを握る手は小さく震えていた。
ふと、あの卒業パーティの茶番のような婚約破棄の場で、兄の両手が怒りを抑えて震えていたのを思い出す。
僕は兄に向かって今度こそにっこりと、心からの笑顔を向けた。
「ですので、後悔は何一つありません。兄上たちにご迷惑をかけたのは申し訳ないと思っていますが……」
兄はしばらく僕の顔をじっと見ていたが、諦めたように小さく首を横に振ると、一息で紅茶を飲み干した。
目の前にいるのが実の弟とはいえ、王位継承者の無防備なその姿に少し呆れてしまう。
「僕が毒を入れるとは思わないんですか?」
「お前に毒を盛られるなら、それが私の終わりだということだ」
兄は肩をすくめ、空のティーカップをテーブルに戻すと、ソファから立ち上がった。
「お前がウェスター公爵令嬢を見送らないなら、それでいい。邪魔をして悪かったな。俺も仕事に戻るよ」
「兄上は、見送りには?」
「ルウェリン皇子の見送りには、陛下と王妃が行っている。公爵令嬢の見送りに、王太子が行く必要はない」
冷たい声ではっきり言い切った兄は、小さな窓から外を見あげた。王宮の奥にあるこの部屋からは、城下の街並みは見えない。ただ今にも雨が降りそうな、曇った空が映るばかりだ。
「ジョヴァンヌ王女の輿入れの後は、俺の戴冠式だ。その時、お前に侯爵位を与える」
「僕は平民でも構いませんよ」
僕が小さく笑いながら言うと、兄は露骨に顔を顰めた。
「馬鹿なことを。ウェスター公爵令嬢はお前が平民になると思っていたみたいだがな……その方が国の損害だ。本当に、あの娘は……何もわかっていない」
王太子の執務室へ戻って行く兄の背中を見送った後、僕は一人、ティーポットから冷め切った紅茶をカップに注いだ。そして再びミルクを落とす。
ぽちゃんと音を立てて、小瓶の底にあった最後のミルクの一滴が小さな波紋となり、消えた。
『サーシャ、この紅茶はミルクティー用じゃないよ』
『いいの! この味が一番好きなの』
ティーカップを両手で握って、笑っていたサーシャを思い出す。
『やっぱり、エレンさまとのお茶会が一番楽しい!』
「……サーシャ」
——ねえ、サーシャ。一人は寂しいよ。
僕は、壁にかけられた時計を見上げた。
そろそろ、オラヴ国へ向かう馬車が出発する頃だろう。
最後まで、心通わせられなかった元婚約者。彼女は今、笑顔だろうか。
乾杯するようにティーカップを宙に掲げてみる。
「さようなら、サーリアシャ……君の旅路に祝福を。僕はもう、君の夢を守ってあげられない。どうか最後まで、その体から魂が離れるまで、幸せな夢を見て」
そして口に含んだ紅茶は、ミルクが混ざっているのに酷く苦かった。