二
その女神は、退屈していた。
神として生まれたその時から、自らの創る世界を管理し、新たに生まれる命を見守り、体が朽果てた魂を輪廻に返してきた。
繰り返される、代わり映えのない日々。
創り出した世界に変化はあれど、それを眺める女神自身の変化はない。
——つまらないわ。
女神は小さく欠伸をすると、他の世界へ遊びに行くことにした。己の世界の管理を放り出し、ふらふらと動き回ることは、神たちの中でも良しとされない。けれど、自分の世界は、大きなトラブルもなく落ち着いているし、少しぐらい離れても良いだろうと。
女神は、どの神の世界に行こうか少し悩んで、久しぶりに双子の兄が創った世界へ行くことを決めた。
他の神に見つかれば良い顔はされないし、何よりあの名無しの神に捕まると厄介だ。
しかし双子の兄神であれば、少しばかり長居しても黙認してくれるだろう。
女神が創り出した自然を多く残した世界と違って、兄神の世界は高層ビルや橋などの構造物が多い。それでも上手く自然と融合されていて、兄神の世界はなかなかに居心地が良かった。
◇◇◇
その黒髪の少女を見つけたのは偶然だった。 兄神の世界をめぐる中、気まぐれに訪れた東の島国。コンクリートで囲まれた病室の中に、その少女はいた。
黒い髪、痩せ細った体、乾いた唇。点滴の針が刺さっている皮膚は、紫色に変色していた。
プチリ、プチリ。ゆっくりと、黒髪の少女の体と魂を結ぶ糸が切れていく音が聞こえる。それは、神にしか聞こえない音。
——あら、この子。あと少しで死んじゃうのね。
残された時間は僅かなのに、黒髪の少女は手元にある小さな画面を集中して見つめていた。
——何を見ているのかしら。
気になった女神は、黒髪の少女の後ろから画面を覗く。
小さなゲーム画面の中で語られていたのは、架空の恋物語。
ボタンを押すたびに表示される選択肢。それによって少しずつ変わっていくストーリーを、黒髪の少女はずっと見つめていた。
毎日、病室を訪れる誰と話すでもなく。ただ一心不乱に画面を見つめて、物語を進めるためにボタンを押し続ける。
画面の中では黒髪の少女が操るキャラクターが、登場人物から愛を捧げられ、幸せなエンディングを迎えていた。
『物語を 最初から始めますか?』
『YES』
一巡した物語をもう一度始めた黒髪の少女は、今度は別の選択肢を選び、前回とは異なる登場人物と愛を深め始めた。
それを何度も何度も繰り返し、後ろから見ていた女神でさえも繰り返した回数を忘れてしまった頃。
黒髪の少女の容態が急激に悪化した。その頃には、すでにゲーム機のボタンですら、うまく押せなくなっていた。
周囲を走り回る大人たちを他所に、ベッドに横たわったままの黒髪の少女が、ポツリと呟いたのが聞こえた。
「私も……こんな世界で生きたかった」
女神はパチリと瞬きをする。
——見つけたわ。丁度良い暇つぶし。
女神は微笑むと、ベッドの上で暗い目をした黒髪の少女に囁く。
——私が、あなたの願いを叶えましょう。
ブチリ、と女神は黒髪の少女の体と魂を繋ぐ糸を引きちぎった。強制的に体から離され、悶えながらも本能に従って輪廻に戻ろうとする魂を、女神は素手で掴んだ。
——さて、この子の魂を入れる器は私の世界にあるかしら?
女神は片目を閉じて、暫く放置していた自らの世界に意識を向ける。
——あら、丁度良いのがあるじゃない。
脳裏に浮かんだのは、女神の世界にある小さな国で、高熱を出して寝込んでいる十一歳の子供。その子供の体と魂を結ぶ糸は、高熱の影響で細く伸び切っており、今にも切れてしまいそうだ。
女神は黒髪の少女の魂を掴んだまま、自らの世界へ舞い戻った。そしてそのまま、黒髪の少女の器となる子供の元へ向かう。
黒髪の少女がプレイしていたゲームのストーリーは、平民として育てられた貴族令嬢のヒロインが複数の高位貴族、誰か一人と恋に落ちるというもの。
——でもゲームの通りに、ヒロインとして生まれ変わるなんてつまらないでしょう?
——どうせなら、新しい展開を見せてほしいわ。
女神が訪れたのは、月明りが差し込む子供部屋。巨大なベッドの真ん中では、金髪の少女が顔を赤くして息苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
——王子の婚約者だなんて、なんて都合が良いのかしら。
ヒロインの相手役の一人は、婚約者がいる第一王子だった。器となる金髪の少女の婚約者は第二王子だけれど、そこは少し記憶を操作すれば問題ない。
女神は金髪の少女の体と魂を繋ぐ糸を、黒髪の少女の時と同じように引きちぎった。黒髪の少女と違うのは、金髪の少女がまだ死ぬ運命でないこと。完全な死を迎える前に、体から魂が離れた場合は、体から魂を繋ぎとめるための糸が再生される。そのタイミングで、黒髪の少女の魂を体と繋がっている糸へ結び付ければ……。
——ほら、新しい人生の始まりよ。
そして最後に、黒髪の少女の記憶を差し替える。
自分が金髪の少女であると思い込むように、この世界を自分が熱中してプレイしていたゲームの世界であると認識するように。
——あなたの役は、登場人物の婚約者よ。最後にヒロインに恋をした登場人物によって、婚約破棄されてしまうけれど。
——あなたの願いを叶えてあげたのだから、どうか私を楽しませてね。
女神は笑みを浮かべて、ベッドの上で穏やかに眠っている少女の頭を優しく撫でた。
——そうそう。婚約者の第二王子や、他の人間の記憶も弄らなくっちゃ。それに、この魂はどうしようかしら。
女神は戻る体を失くし、ふよふよと漂う金髪の少女の魂を見つめて考えた。
——こっちの魂も別の体に入れてしまうのが良いかもしれないわね。王族の婚約者として大切にされていた子供が、明日から浮浪者の子供になっているなんてどうかしら。
暇つぶしには面白そうだと、女神がこれから行うことに胸を弾ませた時。背後に誰かが立っているのに気づいた。
振り返ろうとした瞬間。
襲い掛かって来たのは、神である自分が恐怖で動けなくなるほどの威圧。
これは。この感覚は。
「おい、クソ女神」
背後から聞こえてきたその声は。
「なあ、お前。何をやってんだ?」
数多いる同胞の中で、最も聞きたくない神の声だった。