「僕の新たな婚約者は君だ!」と私に言ったあなたはどこの誰ですか?
「ただ今をもって、君とは婚約破棄させていただく!」
どこか遠くで誰かが何か叫んでいる。だが、ノイアとは一切関係のないことだ。びっしりと敷き詰められた文字を指で辿りながら、頭に浮かんだ考えをぶつぶつと口に出す。
「……水栓から出る水量を変更するには、やっぱり魔材を変えなきゃ駄目……? いやでも、コンロやオーブンは同じ魔材でも火力調整できるんだから、水だってできなきゃおかしい……。魔道具そのものの大きさを変えてみる? 確か風の魔道具で、装置そのものを巨大化することで広範囲への影響を実現した奴があったはず、えっと資料……」
「ほらよ、これだろ」
「これだこれ! そうだ、集音具! 百八十年前か……。水栓で試した実験結果とかないのかな、発明場所は……」
「パン、口に入れるぞ」
「あー。へっ、はふへいはひょ、んぐ、発明場所この学園じゃん! 絶対どこかに研究資料残ってる!」
「おら、スープ」
突然目の前に現れたスプーンが邪魔だったので、とりあえず口に咥える。ついでに流れ込んできた何かを飲み込んでから、手元の本のページを猛然と捲っていると。
「この、ノイアを僕の新たな婚約者とする!」
名前を呼ばれたことで、一気に現実に引き戻された。
広い広い食堂の、一角。というか、一番隅の席。ノイアの目の前には、乱雑に積まれた大量の資料と参考文献、走り書きの計算式と絵で埋まった紙の束、多分昼食であろうスープとパンとサラダ。
それから、研究に熱中するノイアを、甲斐甲斐しく世話してくれていたであろう幼馴染のハイト。
ついでに、こちらを芝居がかった仕草で指さす見知らぬ男。
「……は?」
地を這うようなおどろおどろしい声を上げたのは、スプーンを差し出した体勢のまま固まっていたハイトで。
「えっと、あなた誰?」
見知らぬ男に向かって正直に尋ねたのは、事態をさっぱり把握できないノイアだった。
男が目も口も大きく開いて絶句する。食堂の空気は綺麗にしらけた。
周囲からの冷たい目が気になったのだろうか。男はおろおろと周囲を見渡した後、ノイアと同じテーブルについていたハイトに向かって怒鳴った。
「誰だ貴様は!」
「だからお前こそ誰だよ」
即座にハイトの突っ込みが飛んだ。
――そこには、すべての知識がある。
ノイアたちが通うエンティア学園は、大陸に唯一存在する高等教育機関、兼、研究施設だ。国境も、身分も関係なく、ただ己の極めたいものを極められる場所。実力さえあれば誰でも入れるのが、この学園だった。
大陸にある三つの大国と、東の海に浮かぶ諸島。そのいずれにも属さない独立機関。大陸の中央に位置し、三国と国境を接する巨大な学園都市を形成している。
「叡智を求めよ」。これがエンティア学園における絶対の校則だ。
ノイアたちは火の国チリターナからこの学園にやって来た。金属を扱う冶金や、製造、加工などがチリターナの主な産業だ。家事、彫金、細工、何かを作り出すのはすべて、火の精霊から加護を受けた人間なのだ。
火の加護を持つ人間として、ノイアも例に漏れず手先が器用だ。国では魔道具作成の技術者として働いていたが、新しい魔道具を発明したことをきっかけに、研究の道に進むことにした。
魔道具を作ること、新しい機能を考えること。ノイアは自分の作業場に籠っている時間が好きだ。それ以外の事象に煩わされたくない。ずっと魔道具と向き合っていたい。
だから、訳の分からぬ男に関わっている余裕などない。
「なんだったの、あいつ」
資料庫で目録を見ながら、ノイアは首を捻った。使用している机がすぐに散らかってしまうのは、ノイアの悪癖だった。
食堂で喚いていた男は、結局あの後、周囲の目に耐えられなくなったのか喚きながらどこかへ走り去った。
巻き込まれただけのノイアとハイトだったが、やはり好奇心に満ちた視線を向けられるのが嫌で、早々に食事を終えて資料室に逃げてきたのだ。
「名前は知らねえが、やたら体を鍛えてたから風の国出身だろ」
「武力帝国の? それにしては勇猛さに欠けてた気がするけど」
「全員が全員、精霊の加護を存分に受けられるわけじゃない。それはどの国でも同じだろ」
ノイアが選んで書き出した資料を、ハイトが書架を巡って集めてくる。その合間に交わされる会話は、惰性で伸び続ける世間話の一部でしかない。
「誰もがお前みたいに、天性の才能ってやつを貰えるわけじゃないさ」
「私のは、ただの血筋だけどね」
渡された資料をぱらぱらとめくって、内容を確認する。今の研究とはあまり関係がなさそうだったので、脇に避けて置いた。
「でも、婚約がどうのとか言ってたじゃん? 貴族くらいなんじゃないの、大仰にそんな話するの」
「そうだな」
「貴族って、簡単に婚約者を変えられるの?」
「無理」
短く吐き捨てたハイトの声に、怒りと軽蔑が存分に込められていたので、ノイアはこれ以上話を掘り下げることを辞めた。
机に広げた目録に、再び視線を向ける。顔の横に落ちてきた黒い髪を払いのけると、すぐにハイトがノイアの頭に触れた。
「髪、解けそうだな」
黒い髪と瞳は、チリターナではありふれた色だ。ハイトもそうだ。
隣に立つ彼の目を見つめて、ノイアは口を開いた。
「なおして、ハイト」
「誰もいないし、下ろしててもいいんじゃねえの?」
「嫌だー」
「……まあ、いいけど」
髪を梳く手つきは、口調に似合わず丁寧で優しい。緩んでいた髪留めを外して、「持ってろ」と渡される。
赤と青の装飾を施したこの髪留めも、ノイアが自分で作ったものだ。
「……ねえ、ハイト」
「ん?」
「私って結婚できるのかなあ?」
「それを俺に聞くなよ……」
できたぞ、と肩を叩かれて、後ろ手に髪を触る。綺麗に一つに纏めて、結い上げてあった。
「ありがと。いつもごめんね」
「お前がやると何故かぐちゃぐちゃになるからな……。なんでだ?」
ハイトが首を傾げたその時だった。
「すみません、今お時間よろしいでしょうか?」
ノイアたちしかいなかった資料室に、静かに入室してきた人物がいた。ふわふわとした長い茶髪の女性だ。
素朴ながらも質の良いドレスを身に纏った彼女は、凛とした表情で腰を落として礼をした。
「先ほどは申し訳ございませんでした。わたし、あの馬鹿の婚約者で、エスメラルダ・グラシエンと申します。こちらの事情に巻き込んでしまったお詫びと……、頼み事が、ございまして」
ノイアとハイトは顔を見合わせた。
他に話を聞かれたくないということで、ノイアの研究室に移動することとなった。
一定以上の成績を上げた者は、希望すれば私室のついた研究室を貰うことができる。希望者の大半は、加工や実験を行いたい火の国出身者だ。
扉を閉めてしまえば音が外に漏れないので、密談をするには最適だった。
壁の本棚にも机にも、書物や資料、紙の束が溢れている。その上に、加工された金属片や木材などが散らばり、作業台にはいくつもの工具が出しっぱなしになっている。人が通るための動線はハイトによって確保されているが、それ以外は盗人に荒らされたのと大差ない有様だ。整っているのは、魔材を収めているガラス棚だけだ。
二つしかない椅子の片方をエスメラルダに勧めると、興味深そうに研究室を見渡しながら腰を下ろした。もう片方にはノイアが座り、そのすぐ隣でハイトが腕を組む。目つきが鋭いから威圧感があるのに、エスメラルダは特に気にした様子もない。
「まずは、もう一度。大変申し訳ございませんでした。あの馬鹿……、イディオは、勉強はできるのですがそれ以外が本当に、もう、馬鹿でどうしようもなくて」
「それはもういい。まずは頼み事とやらを聞かせてもらおうか」
頭を下げるエスメラルダを制して、ハイトがぶっきらぼうに言う。
エスメラルダはノイアたちを等分に見比べて、頷いた。
「イディオとの婚約を、本当に解消したいのです。わたしには非の無い形で」
「俺たちにそれを頼む理由は」
「イディオは権力に弱いから」
話はハイトに任せようと思っていたノイアだったが、その言葉には反応せざるを得なかった。
ぶらつかせていた足を揃えて居住まいを正し、正面からエスメラルダを見る。
視線を合わせたエスメラルダは、気品のある所作に似合わぬ勝気な笑みを浮かべて見せた。
「この世界でも数少ない、精霊の血を引く尊いお方。ノイア様、あなたは〈精霊の子〉なのでしょう?」
「……なんでそう思うの?」
「これでも貴族の端くれ。あなた方を見ていれば分かります。……イディオは気づいていないようですけど。それに、いくら秘されているとはいえ、精霊に関する情報は他国といえど伝わってきますよ」
黙り込んだノイアに向かって、エスメラルダは歌うように告げる。
「火の血を引く天才魔道具技師。チリターナ王国で現在最も火に愛されている、〈精霊の子〉……。髪と目の色は、その髪留めで変えておられるのでしょうか」
何も答えないノイアを、ハイトが心配そうにちらりと見下ろした。
――かつて、この世界には精霊がいた。
神話の時代、世界を創った女神が愛でたという、自然そのものの化身。彼らはずっとずっと昔にこの地上を離れ、精霊だけの楽園へと去った。
人間に残されたのは、土地に宿った精霊の加護と、貸し与えられた魔法の力。
そして、脈々と受け継がれる精霊の血筋だった。
どの国でも、〈精霊の子〉は重んじられる。政治には関われないが、国王ですら〈精霊の子〉には敬意を払う。生活を支える精霊の加護を、目に見える形で示すことができるからだ。創世の神話を体現する存在だ、とまで言う者もいる。
当事者からしてみれば、そんなものはクソくらえだ。
「……私が〈精霊の子〉であろうと、なかろうと。あなたの婚約には何も関係がないよね?」
ノイアの声が、意図せず低くなる。
「あなたに手を貸して、私たちに何か利があるの? 私は研究のためにこの学園に来た。その時間を使うほどの価値が、あなたにある?」
あからさまに機嫌が悪いことを見せつけても、エスメラルダの涼し気な表情は変わらない。
「もちろん、相応のお礼は用意させていただきます。そうですね……。向こう一年、研究に使用される魔材を提供しましょう。学園では用意できない、希少な品もありますよ」
「……本気で言ってる? 学園で用意できない魔材なんて、金貨を何百枚も積むような奴でしょ」
「わたしの家は傭兵ギルドの運営に携わっているのです。討伐された魔物の魔材は、傭兵ギルドから商人ギルドに卸しますから。少々便宜を図るくらいなら簡単ですよ」
機嫌の悪さはどこへやら、ノイアは真剣に考え込んだ。
研究に必要なものは、学園がすべて用意してくれる。だが、当然それが難しいものもある。魔道具の研究をしているノイアにとって、希少な魔材を提供してもらえるというのは、この上なく魅力的な提案だった。
まだ見ぬ研究素材に意識を飛ばしかけたノイアに代わって、ハイトが再び会話を繋げてくれる。
「つまり、婚約の解消はあんた一人の意思じゃなく、家全体の意向ってことか?」
「はい」
「そのために、ノイアを利用したい?」
「言い方は悪いですが、その通りです」
頷いたエスメラルダは、「それに」と微笑んだ。
「わたしの申し出がなくとも、あの馬鹿イディオはあなた方に付きまとうでしょう。どうせ巻き込まれるなら、わたしと手を組んだ方が遥かに良いのでは?」
意識を引き戻したノイアと、思いっきり顔をしかめたハイトは同時に呻いた。
昼のような騒動に巻き込まれるのは御免だ。できることなら、静かに、目立たず、ただ研究に没頭していたい。
ノイアのその望みを見透かしたように、エスメラルダは言葉を付け足す。
「手を組むとは言っても、お二人は特になさらなくても結構です。これまで通り、研究をなさっていてください。ただ、ちょっとした噂を流すことをお許しくださいませ」
含みのある笑顔が気にはなったものの、結局ノイアは彼女の申し出を了承した。放置して後から大事になっても困る。それなら、いつも通り過ごしているだけで対処をしてくれるというエスメラルダの案に乗るのが、面倒が少なくて良いだろうと考えたからだ。
――彼女の作戦を聞いた直後に、「やっぱ無理!」とごねたが受け入れられることはなかった。
食堂の隅、いつも使用しているテーブルで、ノイアは広げた本に顔を突っ込んでいた。
ここ数日、周囲の学生から視線を向けられることが増えた。分かっている。エスメラルダが流している噂のせいだ。
微妙、生暖かい、どこか微笑ましい、そんな視線。
ノイアとハイトが恋仲だという噂を信じた学生たちのものだ。
お陰で、自分の研究室以外ではおちおち本も読めやしない。
「お二人は普段通りに生活してください。それが作戦ですから」と言われているのだが、今の状況では難しいものがある。
エスメラルダが考えた作戦というのが、こうだ。
『イディオの有責で婚約を解消するには、今日の騒ぎだけでは不十分です。普通の貴族家ならば問題にするでしょうが、あれの生家であるトント家は、子供が多いせいで放任主義なのです。確実にあの馬鹿だけに責を被せるため、婚約者以外の女性に横恋慕し、その恋人を出し抜き、陥れようとした、という状況にしたいのです。単なる遊びではなく、イディオが本気なのだと思わせるために。ああ、実際にお二人が恋仲かどうかは問いません。事実とはでっちあげるものですから』
そこまでしてもトント家が出て来なければ、ノイアの地位を利用して引きずり出したいということだった。
そして、そうやって話し合いの場についたとき、ノイアがエスメラルダを敵視していないことが重要なのだと言う。
貴族って面倒くさい。それがノイアの感想だった。
「おい、ノイア。口開けろ」
一方ハイトはといえば、あまりにも変わらなかった。いつでも研究のことを考えているノイアのために、身だしなみを整え、大量の本と資料を運び、食事を介助し、広い学園の中を手を引いて歩く。
同じ年ごろの女の子たちよりも、色恋に関しては鈍いノイアだが。この状況になってようやく気が付いた。
いつも通りに過ごしてくれと言われる訳だ。普通の恋人よりも、たぶんずっと、距離が近い。
生暖かい視線を向けられている理由も分かった。「やっぱり恋人同士だったんだ、あの二人」の視線だ。
(いや。いやいや)
気づいてしまったら、意識せずにはいられない。
ずっと一緒に育って来た幼馴染なのだ。彼が隣にいることが当たり前だった。魔道具制作に関すること以外は疎かになるノイアを、呆れた顔のハイトが世話してくれるのが日常だった。
その関係性に、『幼馴染』以外の名前を付けることはできない。だが、ハイトが隣にいない人生など、ノイアにとってはありえない。
だから、冷やかし混じりの視線を向けられる今の状況は、居心地の悪さと、ほんの僅かな不愉快さがあった。
「ノイア? 昼飯食わねえと午後からもたないぞ」
いつものようにパンを食べさせようと、差し出されたハイトの手を、上から掴む。
「……自分で食べる」
「は?」
一口大に千切られ、皿に並べてあるパンを手元に引き寄せた。
ハイトが目を見開いて、ノイアとパンを見比べる。
「え、は……、ノイア? どうした? 自分で飯を食うとか……、何年ぶりだ?」
「そこまでびっくりしなくてもいいでしょ。……本に集中できないだけ」
そう言うと、ハイトの表情が驚きから心配へと変化した。
「具合が悪いのか? 熱でもあるんじゃ……」
額に彼の手が伸びてくる。
いつものこと。いつものことだ。
ノイアが体調を崩せば、最初に気付くのはハイトなのだ。だから、こんなやりとりは何度もやってきた。
――気づけば、その手を払い除けていた。
「……大丈夫だから」
音を立てて凍り付いたハイトをその場に残し、ノイアは本を抱えて立ち上がった。
「先に戻ってる」
振り向かず、顔を俯かせて周囲も見ずに、足早に食堂を後にした。
(ああ、もう。最悪だ)
研究室に逃げ込んだノイアは、ありったけの資料を作業机の上に積み上げた。
とにかく、何かに集中して先程の失態を忘れたかった。
バサバサと紙の塔を築いていると、ノックの音がした。
「……」
ハイトはノックをしない。エスメラルダなら、もっとお淑やかな叩き方をする。拳を何度も振り下ろしたような、あんな乱暴な音を出す人間は、ノイアの知り合いにはいない。
ノイアは扉に鍵がかかっているのを確認し、作業机の横にぶら下げた魔道具を手にした。コップを逆さにしたような形状で、風の魔材である羽が巻き付けてある。離れた人間と会話をすることのできる、通信具と呼ばれる魔道具だ。
「誰?」
コップの内側に向かって声を出すと、戸惑ったような声が返って来た。なんとなく、記憶の縁に引っかかる。
『こ、これか? ……オホン。僕だ。イディオ・トントだ。この扉を開けろ』
「は? 嫌だけど」
人の名前などほとんど覚えないノイアだが、その名は流石にまだ覚えていた。エスメラルダの婚約者、食堂で突然ノイアを新しい婚約者として指名した男だ。
面識などないはずのに、何故ノイアを選んだのか。手近なところにいた女がノイアだったのだろうか。
とりとめもない思考を、通信具から聞こえるイディオの声が遮る。
『言ったはずだ。お前は僕の、新しい婚約者だ。拒否権はない。ここを開けろ』
横暴さが貴族の特徴でないことは知っている。だが、庶民が想像するような「お貴族様」は、きっとこんな感じだろうと思った。
『あの男と食堂で喧嘩していただろう。薄汚い貧乏人よりも、僕の方が素晴らしいと気づいたはずだ』
貴族といえど、その資質は個人に因るものだ。同じ風の帝国貴族でも、エスメラルダとイディオではあまりに格が違う。
エスメラルダのことを特別気に入っているわけではないが、凛とした佇まいからは確かな矜持が感じられた。こんな、見た目だけで人の価値を定めるような真似は、決してしないだろう。
ノイアはため息をつき、通信具を少しだけ遠ざけた。
『僕のような高貴な人間に選ばれたんだ。光栄だろう?』
「いや全然。どちらかといえば迷惑」
通信具の向こうが、ふっつりと無言になった。何故だか、口を大きく開けてパクパクさせている間抜けな顔が思い浮かんだ。
だって、迷惑以外の何物でもないだろう。そのせいでノイアは、いらぬ心労を抱える羽目になったのだから。
この傲慢さ、遠くから見ている分には笑えるが、正面からぶつけられれば鬱陶しい。
(そりゃ、エスメラルダも嫌がるわけだ)
がちゃんっ、とドアノブが鳴って、ノイアは肩を跳ねさせた。
『くだらない装飾品を作るしか能の無い庶民が、この僕を舐めすぎじゃあないか? この程度の扉、壊すのなんて簡単だ』
扉が、みしり、と音を立てる。
通信具を握ったまま、ノイアは急いで扉に駆け寄った。通信具だけではなく、扉一枚隔てた向こう側からもイディオの声が聞こえる。
『身分を弁えない礼儀知らずに、立場の違いってやつを叩き込んでやるよ!』
ドアノブがもぎ取られる前に、扉上部から垂れた紐を力いっぱい引っ張った。
『イディオ!? ここで一体何を、』
エスメラルダの声が割り込んできたのと同時。
ドドドドドドドドド。
大量の水が降り注ぐ音が響いた。
『ぐぶっ』
あと、人が押し潰されたような呻き声も。
「……」
『……』
しばしの沈黙と水音の後、エスメラルダが言った。
『ノイア様、いろいろとお聞きしたいことがございます』
水音に負けないよう、声を張り上げていた。
イディオは水の勢いに負けて、気絶していたらしい。エスメラルダが人を呼んで、どこかへ運ばせてくれた。
水浸しになった廊下の掃除も人に任せて、ようやくエスメラルダを研究室に招き入れることができた。
「あの水はなんですか?」
「侵入者撃退用の魔道具。私とハイトが持ってる鍵以外の方法で扉を開けたら発動するの。手動でも発動可能。学園に許可はもらってるよ」
「なるほど。ですが、ノイア様に何もなくて本当に良かったです。イディオがあなた様を好いているとは思っていなかったので、この行動は予想外でした。申し訳ありません」
丁寧な仕草で頭を下げたエスメラルダに、ノイアは緩く首を振った。
本来は護衛でもあるハイトを、食堂に置いてきたのはノイア自身だ。妙なことに巻き込まれているのだから、すべてをエスメラルダに丸投げにするのではなく、自分でも警戒をしておくべきだった。
とはいえ、ノイアだって聞きたいことはある。
「あいつ、なんで私を次の婚約者に選んだの? 確かに、私のことが好きだとは到底思えない感じだったけど」
「そこが、わたしにもいまいちよく分からないのです。あの馬鹿は、平民に近づくことすら嫌がるのに」
「この学園に向いて無さすぎるでしょ」
ノイアの言葉に、エスメラルダは深くため息をついた。
「ノイア様をただの平民だと思っているのなら、イディオはそもそも婚約者に選ばない。かといって、素性を知っていた所でイディオが結婚できるようなお方ではない。〈精霊の子〉との結婚は、政治権力と結びつかないように厳しい条件が課せられるから」
風のアリアネス帝国は、その辺りが特に厳しかったはずだ。強さを至上とする風の祝福と、王侯貴族との権力が結びついた時。何が起こるかは内乱の歴史が証明しているからだ。
その上、ノイアは火の加護を強く受ける魔道具技師。それでなくとも魔道具技師は希少なのだ。他国の貴族に嫁ぐなど、許されるはずがない。
「ともかく、それは置いておきます。もう一つ、お聞きしたいのはハイト様のことです」
突然飛び出した幼馴染の名前に、ノイアの顔が強張った。隠し事は得意じゃない。否、細工以外のことはすべて、得意じゃない。
「ノイア様の機嫌を損ねてしまった、と真っ青になって、研究棟の入り口をうろうろしておられました。なのでわたしが代わりに探しに来たのです」
「あー……、うん。ちょっと喧嘩……、じゃないな。私が八つ当たりしちゃった。謝りに行かないと……」
資料を積み上げた作業机に体を預けて、胸の前で両手の指をこすり合わせる。
あれが、ただの八つ当たりだと。ノイアにはちゃんと分かっていた。
周囲で囁かれる噂、向けられる好奇に満ちた視線。それらに耐えられなかった。だからハイトを拒絶した。
その理由だって、ちゃんと自覚しているのだ。
「……どうやら、わたしが引っ掻き回したようですね」
なにやら訳知り顔で頷くエスメラルダ。
「心から謝罪いたします。わたしの都合で、ノイア様の平穏を乱してしまいました」
「……気にしなくていいよ。どうせ、学園を卒業したら向き合わなきゃいけない問題だったんだから」
そう。ただ今回は、予期しない方向から突き付けられただけ。それで、動揺しただけ。
ハイトとの関係を、考え直す時が来たのだと。
「ハイトは、私の幼馴染で、お世話係で、護衛。……永遠にこのままでいられるわけがない。ハイトだって、いつか別の女性と結婚するんだから。私みたいなのがずっとぶら下がってるわけにはいかないの」
「ノイア様……」
魔道具に関すること以外は、何もできない。食事の用意も、部屋の片付けも、簡単な身支度ですら、ノイアにはできない。
彼から離れるべきなのだ。これ以上、重荷になってしまう前に。
「そのお話、ハイト様にはしましたの?」
「するわけないよ。屁理屈こねて反対するに決まってるもん」
だからずっと、心の底に抱え込んでいる。
「でもノイア様だって、あのお方と離れるのは本意ではないのでしょう? だから卒業までだなんて言って、結論を先延ばしにされているのでは?」
「……」
思わず睨みつけると、「あら、可愛らしいお顔」と笑われた。
「お話しなさった方がよろしいわ。知り合ったばかりのわたしから見ても、お二人はお互いを大切に思いやっているように見えます。それが、本音を伝えなかったばっかりにすれ違ってしまうなんて、悲しいことです」
そんなに簡単なことじゃない。
そう思うけれど、エスメラルダの表情があまりにも純粋だったから、ノイアは黙ったままでいた。
ハイトとの関係がぎくしゃくし始めてから、一週間が経った。
彼がいなければノイアの生活は成り立たない。会話はぎこちないが、以前とほとんど変わらない日常に戻っていた。
そして、エスメラルダからは婚約解消を正式に申し込んだという連絡が来た。予想通り、イディオの生家であるトント家は交渉の場に出ることを渋っているらしい。となると、イディオが巻き込んだ相手が〈精霊の子〉であると、秘密裏に伝えることになる。ノイアに不利益が向かないようにすると、エスメラルダは固く約束してくれた。
「ノイア様のお陰で、無事に婚約解消が叶いそうです」と、実に晴れやかな笑顔を浮かべていた。
あとは、流した噂が風化するのを待つだけだ。最近は向けられる視線も減ってきている。この調子なら、また元のように研究に没頭する日々に戻れるだろう。
――ハイトとは、あの話をしていない。
エスメラルダの言うことは正論だけれど、風の国出身の彼女のような勇気など、ノイアには無いのだ。
学園内で、ハイトと別行動をとることはほとんどない。その数少ない例外が、寝泊まりしている女子寮だ。
学生たちが暮らす寮は、性別によって建物を分けられている。そのため、ハイトはノイアの部屋までは入ってくることができない。
寝るときにしか使わない部屋なので、彼がいなくても特に支障はない。最近では、ノイアの数少ない落ち着ける場所になっていた。
夜。寮の部屋に戻り、明かりもつけず、ベッドに体を投げ出して、大きくため息をついた。目元を腕で覆い、別れる間際に見たハイトの目を記憶から追い出そうと、無駄な努力を試みる。
何かを言いたそうに、ともすれば縋るように、こちらを見ていた。
(あんな顔、しないでほしい)
どうすればいいか、分からなくなるから。
苦い思いをきつく拳に握りしめた、その時だった。
すぐ傍の窓が割れる音。それから、頬に走った微かな痛み。
慌てて体を起こそうとしたノイアだったが、それは叶わなかった。
腹部に重い痛みが落ちる。
「あぐっ」
殴られた、と気づいたのは、半分消化された夕飯を口から吐き出した後だった。
涙で滲む視界に、イディオの歪んだ顔が映る。
ノイアの上に体を乗り上げて、ぎらぎらと血走った目でこちらを見下ろしていた。
「貴様、エスメラルダに何を吹き込んだ……!」
「な、にが」
「しらばっくれるな! 彼女が僕を捨てるなんてありえない! それなのに婚約を解消するだなんて……、貴様の差し金だろう! エスメラルダは僕に泣いて縋ってくるはずだったのに!」
自分から婚約破棄などと騒いでおいて、何を言っているんだ。
そんなノイアの言葉は、再び腹に振り下ろされた拳によって打ち消された。
「ぅあ゛ッ」
酸味と苦味の入り混じったものが、喉にこみ上げる。
火の加護を持つノイアは、冶金や細工に関しての才能は随一だ。だが、武勇を誇る風の加護持ちに対して、力で対抗する術など、何一つない。
「成績が良いだけの平民など、希少な魔道具技師でなければ僕の目に留まることも無かったというのに! 絶対に許さないからな……!」
イディオが喚き散らしている。それを、ノイアはぼんやりと聞いていた。
(なんだ、魔道具目当てか)
薄れていく意識の中で、思い出したのはハイトの顔だった。
縋るような、目をしていた。
目が覚めた時、ノイアは自分の部屋ではない場所にいた。
明かりはなく真っ暗で、猿轡を噛まされているので呪文を唱えて火をつけることもできない。辛うじて分かるのは、固く冷たい石の床に直接転がされているということだけ。
細かい砂埃が、頬の切り傷に擦れてひりひりする。吐瀉物の味を吸った猿轡が、苦くて不味い。
ふーふーと息をしながら、少しだけ頭を持ち上げる。
腕は後ろ手に縛られ、足首の辺りにも拘束されている感触があった。縄抜けなどできないし、拘束を引きちぎるような膂力も当然ない。
ノイアにできることは、何もなかった。
(……そんなの、今更だけど)
魔道具を作る以外に、才能などない。〈精霊の子〉で、素晴らしい作品を作ることができるから、ちやほやされている。
ただそれだけの女なのだ。
(ここ、どこだ)
感傷に浸っていても仕方がない。もう少しだけ頭を動かすと、上の方に窓が見えた。
光が入って来ないということは、まだ夜だ。部屋でイディオに襲われてから、そんなに時間は経っていないらしい。丸一日過ぎているのでなければ、だが。
長くとも数時間程度しか経っていないと仮定するなら、場所はエンティア学園のどこかだろう。巨大な学園都市を形成するほどの規模なのだ。勉学に関係の無い店や施設だってたくさんある。人一人、隠す場所などいくらでもあるのだ。
となると。ノイアが攫われたことに誰かが気づいたとしても、見つけてもらえる可能性は低い。
(イディオの奴、どうするつもり?)
ノイアを攫ったところで、エスメラルダとの婚約が元に戻ることはない。むしろ、犯罪者として捕まる未来しかないのに。
それとも、ただの腹いせか。ノイアのせいでエスメラルダにフラれたと勘違いしていた。
(……ハイト)
どんな目に合わされるのか。必死に思考を逸らそうとしても、どうしたって恐怖が拭えない。
頬が痛む。喉が熱い。
どうしてこんなことになったのだろう。
(ハイト)
何の前触れもなく、扉が開く音がした。
ハッとして音がした方を見る。淡いカンテラの光が揺れる。
浮かび上がったのは待ち望んだ人ではなく、醜く歪んだイディオ・トントの顔だった。
「なんだ、起きていたのか」
返事はできない。猿轡などなくとも、きっと声は出なかっただろう。
「エスメラルダと君がくだらないことを考えるからだよ。だがまあ、いいさ。彼女が君を特別視しているなら、人質にして婚約解消を撤回させればいいだけの話だから」
小さな輪を描く光の中で、イディオはわざとらしく肩をすくませた。
「けれど、理解できないな。たかが平民一匹、死んだところで特に何もないだろうに」
ああ。そういうことか。
イディオは、貴族でない者を人間として認識していないのだ。だから、何をやったところで罪にならないと思っている。
つまり、今のノイアに、命の保証は、ない。
(お願い)
足を縮ませて、自由の利かない体でイディオからできるだけ遠ざかろうとする。
そんなノイアの微かな抵抗も、イディオにとってはどうでもいいようだった。カンテラを床に置き、まじまじと顔を覗き込んでくる。
「髪も肌も手入れされているのに、装飾品も衣装もボロばかり。君が貴族だったら、愛妾にしてあげてもよかったかな」
まだ解いていなかった髪飾りを引っ張られる。ノイアが作った、変色の魔道具。
ぶちぶちと髪を数本引きちぎりながら、強引に髪飾りが外された。
「へえ、これも魔道具なのか。やっぱり手元に魔道具技師がいると便利そうだ。火の国以外で魔道具技師を見ることは、なかなか無いからね……」
(助けて)
次は何をされるのだろう。分からない。怖い。
面倒をかけてはいけないと思って、いつかは離れることになると考えて。
それでも、最初に助けを求めてしまう人は、いつだって決まっていた。
(助けて、ハイト……!)
子供の頃から変わらない、ノイアの初恋の人。
「ノイア!!!」
心の叫びに答えるように、力強い声がノイアの名前を呼んでくれた。
「は? なに、」
イディオが驚いて振り返る。その顔面に襲い掛かるように、壁の一角が爆発した。
「ぎゃっ!」
眩しい光が差し込んでくる。たくさんの灯りを背にして、ハイトが息を切らして立っていた。
その手には、学園から許可が貰えなかった防犯用魔道具の一つ、爆発する火の魔道具が握られている。
「ノイア、無事か!?」
ハイトは床に転がったノイアを見て、血の気の引いた顔で息を呑んだ。
「イディオ・トント、貴様……!」
「お前は、いつもこいつと一緒にいる男……!」
ハイトの名前すら知らないのだろう、イディオは瓦礫を浴びた顔を押さえながら、怨嗟の呻きを上げた。
「お前のような虫けらが、この僕に、逆らうなんて……!」
イディオが拳を振り上げるのをみて、ノイアは反射的に身をすくませた。ハイトだって、別に戦いが得意なわけじゃない。あの拳で殴られたら、きっと、無事では済まない。
猛獣のように咆哮しながら、イディオがとびかかる。ハイトは魔道具を握りしめたまま身構えて――、すっと後ろに体を引いた。
ハイトと入れ替わるようにして、前に出たのはエスメラルダだった。
「ハッ」
気合の声と共に、身を沈めた体勢から強烈な掌底が繰り出される。もろに胴体に入った。
イディオ自身が突っ込んだ勢いも相まって、相当な一撃だったらしい。体を折り曲げて倒れ込んだイディオは、その場で血の混じった吐瀉物を撒き散らした。
「え、エスメラルダ、なぜ……」
「馬鹿の考えることは分かりませんが、所詮馬鹿だから詰めが甘い。まさかノイア様を襲撃するなんて思いませんでした。ですが、使いもしない地下研究室の使用申請を犯行の一日前に出すなんて、ここが拠点ですよと知らせているようなものでしょう」
エスメラルダは鼻を鳴らして、イディオを見下ろした。そして、その体を足蹴にして部屋の隅に追いやる。
「ノイア!」
その脇を抜けて、ハイトが駆け寄って来た。
頬の傷を見て目を瞠り、猿轡を解いた下に嘔吐の跡を見つけて、ぎりっと歯を食い縛る。
「ごめん、ごめんノイア……! 俺がちゃんと守らないといけなかったのにっ」
「ハイト、」
声が枯れている。
ハイトは手足の拘束も解いて、優しく抱き起してくれた。ゆっくりと背中を撫でられて、体の奥で何かが緩んだ。
ぼたぼたと涙が落ちていく。ハイトの体にしがみつくようにして、肩を震わせて泣いた。
もう、大丈夫だ。だって、ハイトが傍にいてくれるのだから。
「あいつに何をされた? 怪我は……?」
頬を撫でるハイトの手も震えている。
「おなか……、いたい」
「おなか? ……見てもいいか?」
頷くと、そうっと遠慮がちに服をめくられた。そして、すぐに戻される。
「医者に診てもらおう。今すぐに」
ノイアを横抱きにして、ハイトが勢いよく立ち上がった。
部屋の隅でイディオを縛り上げていたエスメラルダが、不安そうに眉を寄せてこちらを見る。
「そんなに酷い怪我を?」
「……治療費はトント家とグラシエン家に請求させてもらう。ノイアは我が国の宝だ。家名を売りに出しても払ってもらうからな」
「もちろんです。国で一番の、いえ、世界一の医者をつけて差し上げてください。金も物資も、ありったけを用意いたします。……何よりも尊い〈精霊の子〉を、傷つけてしまったのですもの」
縛られたイディオが、芋虫のように体をくねらせて顔を上げた。ノイアが見ていない一瞬の間に、エスメラルダが叩きのめしていたらしい。顔の右半分が真っ赤に腫れていた。
「〈精霊の子〉!? 馬鹿な、そんなことがあるわけ……」
変色の魔道具である髪飾りを外したノイアを、イディオは初めて明かりの下で見た。
炎を写した真っ赤な髪と、光の加減で白と黒が移り変わる瞳を。
「う、嘘だ……」
絶句するイディオの頭を、エスメラルダが踏みつける。ピンヒールが刺さって痛そうだった。
「婚約解消どころじゃなくなったわね、イディオ。わたしもあなたも、きっと貴族の身分を剥奪されるわ。相手がノイア様じゃなければ、まだ罰は軽かったでしょうに」
「そ、そんな、わけが……。だって僕だぞ!? トント家はアリアネス帝国でも特に古い名門だ! 貴族じゃなくなるなんて、そんな、ありえない!」
「〈精霊の子〉に手を出すとは、そういうことでしょう」
「だとしても、高貴な僕のすることが罪に問われることが、そもそもおかしいんだ! 誰にだって間違いはあるだろう!?」
呆れたように息をついたエスメラルダが、こちらを振り向いた。まっすぐな目が、ノイア――ではなくハイトを見る。
「わたしの言葉では理解できないようですから、ベンハイト様からお願いしても?」
めんどくさそうな顔をしたハイトが、冷たい目でイディオを一瞥した。
「……チリターナ王国第四王子、ベンハイトが宣言する。我が国の〈精霊の子〉ノイアに対する誘拐・暴行の罪で、帝国に貴様の極刑を求めることとする。さあ、これでいいだろ。俺はノイアを連れて行かないと」
「ええ。ノイア様、また後ほど謝罪に伺います。まずは十分にお休みになってください」
そう言って頭を下げたエスメラルダは、声もなく叫んでいるイディオの腹を、今度は爪先で強く踏みつけていた。
地下研究室から出て、見慣れた研究棟の廊下を進む。あちこちに明かりが入って、学園の教師や使用人が走り回っていた。きっと、ハイトとエスメラルダが大騒ぎしてノイアを探してくれたのだろう。
ハイトの腕に抱かれて揺られながら、ノイアはその光景をぼうっと見ていた。
足早に、けれどノイアの負担にはならないように。ハイトは唇を引き結んで歩いていく。
「ハイト……」
聞きたいことはいっぱいあった。どうして誘拐されたことに気付いたのか、とか、どうやってイディオが犯人だと見抜いたのか、とか。
だが、口から飛び出したのはまったく別の疑問だった。
「エスメラルダに、自分が王子だって話したの?」
「今聞くことがそれかよ」
ギリギリと、今にも千切れそうなほどに張りつめていたハイトの顔が、ふっと緩んだ。
「言ってねぇ。あいつのことだから、最初から見抜いてたんだろ」
「そっか……。言ってないなら、よかった」
なんだよ、とハイトが笑う。
「まだ国出る前のこと気にしてんのか? 王子が世話係なんかやるべきじゃないって、馬鹿大臣どもの言葉」
「ううん、そうじゃなくって、」
こうして揺られていると、だんだん眠くなってくる。
安心できる場所で、好きな人がいてくれて、危険なことはもう何もない。傷の痛みも、心の涙も忘れられる。
「私とハイトだけの、秘密だなって……、思ってたから……」
別の女の子に、話したんじゃなくてよかった。
最後の言葉が声になっていたかどうかは、眠りに落ちる直前に見た、真っ赤な顔のハイトだけが知っていれば、それでいい。
「で、結局どうなったの?」
事件からひと月が経ち、学園都市内にある病院に入院させられていたノイアは、何百回目かの質問をハイトに投げつけた。ベッドに悠々と足を伸ばし、サイドテーブルにはうず高く本が積まれている。
過保護になったハイトは、あれ以来ノイアの傍を離れることを極度に嫌がった。有り余る資金に物を言わせ、風呂とトイレが併設された最上級の病室をずっと独占している。
あの時の傷など、次の日に治癒魔法で綺麗に治ったというのに。
女子寮に帰れば、ハイトの目が届かなくなる。確かにそれは、ノイアにとってもまだ癒えぬ恐怖だった。だから、一つの部屋で、何不自由なく生活できている今の状態は、安心といえば安心だ。研究に必要な資料は持ち込んでいるし。
だが、これは軟禁ではないか? と問われれば、否定できない辺りがちょっとまずい気がする。あと、あんまり嫌だと思っていない辺りも。
先週からようやく面会を許可されたエスメラルダが、盛大に呆れ返っていた。
「どうなったって、何が」
ノイアのためにリンゴを飾り切りにしていたハイトが、ぶっきらぼうに言葉を返してくる。そのガニ股の鶴は一体どこをどうやったら作れるのだろう。
「そろそろ教えてよ。事件の顛末はどうなったの?」
ノイアは、ハイトの手で病院に運び込まれてから、一切の情報を与えられていない。唯一、エスメラルダが何の罰も受けなかったことだけは本人から聞いた。
「ノイアたちとエスメラルダは、対等な協力関係にあった」。ノイアがそう主張したからだ。
エスメラルダの作戦に乗ろうと、乗るまいと、イディオはどうせ勝手な逆恨みをノイアに向けて来ただろう。あの二人の婚約は、イディオが食堂で騒ぎを起こした時点で終わっていたのだから。
彼女に悪意がないことなど、ノイアもハイトも分かっている。エスメラルダ自身の目的にも、協力者に対しても誠実だった。そういうところを、ノイアは存外好んでいる。
「昨日エスメラルダが来てくれた時、事後処理が全部終わったって言ってた。もうそろそろ、教えてくれてもいいんじゃないの?」
「……仕方ねぇな」
ハイトの顔には、でかでかと「面会許可するんじゃなかった」と書いてある。王子の癖に、あまり表情を取り繕わないのが彼の常だった。
「そんなに言い渋ること? 話すことなんて、あのお馬鹿さんの処遇くらいじゃないの?」
「だってお前、『〈精霊の子〉だから』って理由で特別扱いされるの、嫌いだろ」
思わず閉口した。
そう言われるということは、イディオは特別な処遇になったということなのだろう。
「……イディオ・トントは、風の国に戻って軍所属の『囮兵』になった」
「おとりへい?」
聞いたことのない単語に、首を傾げる。
「魔物を討伐する時なんかに、囮として魔物の前を逃げ回るだけの役目をこなす兵士らしい」
随分と風の国らしい説明が返って来た。
「それが、罰なの?」
「武器も防具も持たずに放り出されるから殉職率も高いし、何より戦うことを禁じられているから、武勇の加護持ちとしてはとびきりの屈辱なんだとさ。戦うことを許されず、ただ逃げ回って死んでいくだけの存在になれ、と」
ノイアの立場で考えると、作品を作る事すら許されないということだろうか。考えただけでぞっとする。
最大級の屈辱と共に死を与える。確かにこれは、特別な罰だ。
「私が、〈精霊の子〉だったから?」
「まあ、そうだ。風の教会が突然介入してきて、もってかれた」
ハイトは「極刑を求める」と宣言していた。あの場の勢いのようなものだったはずだが、本当に実現してしまった。
自分に危害を加えた相手とはいえ、それが理由で破滅の道を辿ったと聞けば、後味が悪い。罰を軽くしてほしい訳ではないけれど、なんとなく拭いきれない汚れがこびりついたような心持ちになる。
「そんな顔する必要ねえよ。トント家はほかにも色々とやらかしてるんだ。そのせいで家門自体が取り潰しになるらしくて、家族全員が似たり寄ったりの罰を受けてる。今回の事件だけが原因ってわけじゃない」
吐き捨てるようにそう言って、ハイトは大きく手を叩いた。
「はい、この話は終わり。ノイアはあいつなんて忘れて、未来のことを考えればいい」
もうこれ以上、彼は何も教えてくれないだろう。諦めて、彼が出した話題に乗っかった。
「この先って? まさかずっと入院するわけじゃないでしょ?」
「今回の件で教会から情報が入ったんだが、どうやら〈精霊の子〉を狙う犯罪組織があるらしい。イディオも後ろでその組織が唆してた。……つまり、ノイアが素性を隠してこの学園にいるって情報が、漏れてるって事だ」
息を呑んだ。
〈精霊の子〉だという理由で狙われるのは、別に初めてのことではない。大抵は、魔道具制作の技術を欲した輩の仕業だった。
けれど、イディオを後ろで操っていたその組織は、ノイアの技術目当てなどではないだろう。
「……風の国では、〈精霊の子〉の夫婦が殺されてる。強さを誇りとする風の加護を持つ夫婦が、だ。ノイアも狙われていると判明した以上、これまでみたいに普通の人間として過ごさせる訳にはいかない」
これは王家の決定だ、というハイトの声が、どこか遠くに聞こえた。
ノイアの我が儘で、この学園には素性を隠して入った。昔から隣にいたハイトが、その我が儘につきあって一緒に来てくれた。
誰にも邪魔されない、誰も色眼鏡で見ない、ただ好きなことに没頭していられる時間が、もうすぐ終わってしまう。
ただの女の子として、ハイトの隣にいられる時間が。
「……そっか。仕方ないね」
別に、〈精霊の子〉として生まれたことを厭っている訳ではない。この身に流れる精霊の血は、ノイアにとって間違いなく誇りだ。国の宝と呼ばれるほどに、魔道具制作の腕を磨いたのも、ただそれが好きだったから。
ただ、昔から。
ハイトとは違うこの色だけが、ノイアの胸にちくちくと刺さっていた。
〈精霊の子〉は、王侯貴族との結婚を禁じられている。この初恋は、始まった時には既に終わっていた。
どれだけ目を逸らしても、現実と向き合わねばならない時は来るのだ。
「ノイアには悪いと思ってる。でも、もう一人では自由に行動させられない」
「……うん」
「だから、俺と暮らそうか」
いつかはこうなると分かっていた。だって、ハイトは王子だ。ノイアと結婚する事なんてできな――。
「は!? ハイトと暮らす!?」
「学園都市内に、少ないけど寮以外の住宅もあるんだ。家族がいる学生のための家なんだけど、そこを借りることになった。周囲に護衛も配置したいから、立ち退き交渉に時間がかかったんだ。ずっと病院暮らしで悪かったな」
「ちょ、ちょっと待って!? それがどうしてハイトと一緒に住むことになってるの!?」
あまりにも話が急転回したから付いていけない。一体何がどうなってそんなことになった。
ハイトと、暮らす。ハイトと暮らす!?
「? だって俺がいないと、まともに生活できないだろ」
「心底不思議そうな顔しないでよ! 否定できないけど!」
でも、わざわざ同じ家に住む必要は無いはずだ。まったく無いはずだ。
チリターナの王家は、本当にこの決定を下したのだろうか。何かの間違いではないだろうか。
ハイトはわざとらしく息を吐き出して、膝に頬杖をついた。
「そんなに拒否しなくてもいいだろ」
「だって、どう考えてもおかしいでしょ!? 普通王子は、その辺の女の子と一緒に暮らしたりしないの!」
「ノイアはその辺の女じゃねぇだろ」
「〈精霊の子〉だけど貴族じゃないし、第一私とハイトは結婚もできないじゃない!」
なんだ、そんなことかよ。ハイトが薄く笑う。
「俺は卒業して国に戻ったら、王子の身分は返上する。ちょうど成人だし、国の要職は兄上たちで埋まってるし。ノイアほどじゃないけど、魔道具技師として食うに困らないくらいの腕はある」
「……な、何言ってるの?」
胸がどきどきと脈打つ。それを振り払うように、冷たい声を返した。
だって、そうでもしなければ、期待してしまうから。期待した先で、裏切られた時が怖い。
そんなノイアの心を見透かすように、ハイトはまっすぐに視線を突き刺してきた。
「俺は、お前以外の奴と結婚する気はないぞ。ノイア」
ずっと、それがノイアの心に影を落としていた。
生まれた場所や、与えられた才能を恨んだことなど一度もない。どれもノイアにとって大切なものだ。
けれど、それらの「特別」と引き換えにするには、ハイトの存在はあまりにも大きすぎた。
ずっと一緒にいたかった。それが許されないことなのだとしても。
だから。
「ノイアの隣にいられないなら、身分なんてクソくらえだ。地位も名誉も欲しくない。これまではこの身分があったからお前の幼馴染でいられたけど、邪魔になるなら捨てる」
「そんな簡単に……、捨てられるものじゃないでしょ」
「父上たちは許してくださった。だから一緒に住むって話が出たんだ。俺が何も考えてないと思うなよ」
伸びてきたハイトの手が、遠慮がちにノイアの頬に触れた。腕を辿って視線を上げると、ハイトの耳が真っ赤に染まっている。
「……ふふ」
「なんだよ」
「私たち、ずっと一緒にいるのに、言葉が足りないよねえ」
頬に添えられたハイトの手を上から握って、ノイアも笑った。
「昔から、ハイトのことが好きだった。私と結婚してくれる?」
「喜んで。……俺も、お前のことが好きだ」
照れくさそうに、少しだけ小さい声で囁かれたその言葉を、ノイアは一生忘れないだろう。
「とりあえず、今回みたいなことが起こらないように、俺ももっと鍛える。ちゃんと守るからな」
「鍛えるって、どうやって?」
「……エスメラルダがお前の護衛と、俺の武術指南を務めるって満面の笑みで申し出てきた……」
「……が、がんばれ?」
ここまでお読みいただきありがとうございました!
面白いと思っていただければ、感想などいただけると作者が飛んで喜びます!
長編の「時戻りのアネモネは、風の精霊と愛を知る」の方も、同一世界でのお話となっていますので、よろしければお読みください!