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Purple Cloud  作者: 大黒 天(Takashi Oguro)
1/2

本編

「Purple Cloud」


音羽 裕(Yutaka Otowa)



 とある日曜日の夕方、そろそろ犬の散歩の時間だ。窓の外は春風が吹いていて、まだ暖かい。俺は愛犬ブライアントを連れて、すぐさま家の外へと飛び出した。


 俺の名前は村上徹むらかみ とおる。この春に文科系の大学に入ったばかりの1年生だ。入学したとは言っても、まだ講義は始まっていないし、バイトも始めていない。平日はガイダンスとかで学校に出て行くけど、休日は暇をもてあましているところだ。

昼間から家でダラダラとテレビを見てたり漫画を読んでたりすると、

「あんた、ちょっとは運動したらどう!」

 と、いつものごとく母さんにどやされる。で、いつのまにか俺の休日の日課に、犬の散歩が追加された。まあ、俺は犬好きだし、別に構わないんだけど。


 俺の家は町外れの川沿いに立ち並ぶ住宅街の一角にある。俺とブライアントの散歩は、川の堤防を上って桜並木の間を通り、川辺にある芝生の丘まで行くのが決まりになっている。

 我が家の愛犬ブライアントは、ヨークシャーテリアのオス12歳。すこし歩き方はよろよろしてきたけど、まだまだ元気だ。ブライアントって名前は、俺の父さんが昔好きだった外国人の野球選手からとった名前だそうだ。なんでも凄いホームランバッターだったらしいけど、こんな小さいなりをしてるブライアントを見ると、完全に名前負けしてるように思う。

 なんて俺が考えてるのを悟ったのか、ブライアントは立ち止まると、俺の顔をじっと見上げる。俺はブライアントの頭をそっと撫でてから、首輪の紐を軽く引いた。


 緩い坂道を登りきって、俺とブライアントは堤防へと上る階段にたどり着いた。

 階段はところどころ段差のコンクリートが磨り減っている。ブライアントは磨り減ったり欠けたりした部分を避けながら、よちよちと階段を一段ずつ上っていく。段に足を掛け、小さい体を目一杯に伸ばして上っていく姿は、なんだか愛らしく見えるもんだ。

 しばらくして俺とブライアントは、堤防の上まで登り切った。その先には、古びたアスファルトの堤防道路が、西の方角へと続いている。早速ブライアントは、その方向へと足を向けた。俺は紐を少し引きながら、ブライアントの後を付いていった。

 互いに歩調を合わせながら、俺とブライアントは堤防の上をゆっくりと歩く。左右の斜面に立つ桜並木の花は既に散り、枝には若葉が生い茂っている。

地面に舞い落ちる桜の花びら、そしてそれと入れ替わるように枝の上で息吹を上げる若葉を見て、一抹の寂しさにかられるのはきっと、俺だけじゃないはずだ。



 延々と続く堤防道路を歩き続け、俺とブライアントは川辺の丘まで辿り着いた。ブライアントはゆっくりと丘の上まで歩き、そのまま芝生の中に座り込んだ。

 俺も続いて丘の斜面に腰を下ろした。するとブライアントは俺の許へ歩み寄り、ペロペロと顔を舐める。俺はブライアントを両手で抱き上げ、膝の上に乗せた。ふわりとした、ブライアントの毛の感触が手に残る。俺はブライアントを寝かせて、背中を何度も撫でた。


 気が付けば、日はもう西に傾き始めている。空はうす曇で、だんだんとオレンジがかってきた。俺はボーッとしながら、暮れていく日を見つめていた。

 と、その時。


「おーい。村上じゃねえか? おーい!」


 丘を沿うように続く堤防道路から、聞き慣れた声が流れてきた。自転車を漕ぐ音と共に、その声は徐々に近づいてくる。

「益田! お前、なんでこんなところ走ってるんだ?」

 声の主はすぐに分かった。益田祐二ますだ ゆうじ。俺が高校3年生の時にクラスメートだった奴だ。俺はすぐさま立ち上がり、丘の下の堤防を走る益田に手を振った。

「自動車学校の帰りだよ。ここが家への近道だからな」

 益田は自転車を降りると、丘の斜面に無造作に倒した。そして、丘を一気に駆け上ってくる。その足音に、俺の膝でくつろいでいたブライアントが目を覚ました。


 ワンッ! ワンワンワンワンッ! 


「おおっと、元気な犬だなー」

 ブライアントは大きく吼えながら、益田に向かって身構えた。益田はブライアントの前に立って屈み、手を出そうとする。

「気をつけろよ……小さいけど気が強い犬なんだ」

「へぇー。名前何て言うんだ?」

「……ブライアント」

「アッハッハッ……凄い名前だな」

 俺の答えを聞くなり益田は大笑いして、吼え続けるブライアントをじっと見つめた。益田はかなりの野球好きで、特にプロ野球に関しては相当詳しい。ブライアントの名前の由来なんかすぐに分かったんだろう。

 益田は膝に付いた土を払うと、俺の隣に座った。するとブライアントはすぐに吼えるのを止めて、また芝生の中に座り込んだ。

「益田、短大は忙しそうか?」

「そうだなー。講義とか、かなり詰まりそうだしな。忙しくなるとは思うけど」

 益田は苦笑いしながら、俺の顔を見た。さすがに四大に進んだ俺とは違って、短大を選んだ益田は忙しそうだ。その上、自動車学校にも通ってるなんて……特に目的も無くのんびりしてる自分が、なんだか悪い気がした。

「村上は大学でも柔道、続けるのか?」

「うーん、どうしようかな……」

「なんだよ、お前らしくねえな。あれだけ柔道一筋でやってきたのによ」

 そう言いながら益田は笑う。たまらず俺は頭を掻いた。

 確かに俺は高校時代、柔道にひたすら打ち込んでいた。練習時間が過ぎてもまだやっていて、用務員に「もう帰れ!」と怒鳴られるまで練習してたっけ。大して実力とか才能があるわけじゃなかったけど、とにかく強くなりたかった。理由は今となっては、よく分からないけれど。


 それからしばらく、無言の時間が続いた。日は刻々と暮れてゆく。ブライアントも芝生の上で眠ったまま、鳴きもしないし動きやしない。

 2、3分間が空いた頃だろうか、益田がようやく口を開いた。


「そういえばさお前……中村さんとは今、どうなんだ?」


 な、何っ!

 不意打ちをかけるような益田の言葉に、俺は一瞬取り乱してしまった。

「べっ別に……何も、ないけどさ」

「ふーん。でも好きだったんだろ? 中村さんのこと」

「う、うるせーよ」

 益田の追求に、俺の顔は自然と熱くなってきた。してやったりといった顔で、益田は俺の顔をまじまじと見つめてくる。

 確かに奴の言うとおり、俺は同じクラスの中村琴美なかむら ことみの事が好きだった。好きだったっていうか……あんまり話した事はなかったけど、俺のほうが一方的に憧れてたっていうか。

 中村さんはクラスでもそんなに目立つ存在じゃなかった。男子とあまり接することもなく、いつも女子3人くらいで固まってしゃべってるタイプの子だった。無論俺も、必要があれば話をするくらいで、彼女とまともにしゃべったことなんてあまりなかった。

 けれど中村さんは、いつも優しい口調で俺に接してくれた。たぶん俺にだけじゃなくて、誰にでもそうなんだろう。たとえ授業の話とか、受験の話とかでも、彼女は親身になって俺に話しかけてくれた。

 とびきり可愛い子ってわけでもなかったけど、俺にとっては中村さんが今まで出会った中で最高の女の子だった。彼女がだんだん自分の中で大きな存在になっていくのを、俺はいつしか感じていた。

 けれど、その想いは伝えられないまま、俺は卒業式の日を迎えてしまった。

「なあ、村上。卒業式の後さ、お前、中村さんとなにか話してたろ?」

「ん……んんっ」

 ここぞとばかりに、益田は更に詮索してくる。言葉にならない声が俺の口から漏れた。

「なに話してたんだよ。教えろよー」

 陽気な声でそう言いながら益田は、俺の腕を肘で小突いた。本当に迷惑な奴だ。

「ま、まず俺がさ『お互い無事に進学できてよかったね』って」

「そしたら?」

「『そうだよね。村上君、勉強に柔道に頑張ってたからねー。卒業おめでとう!』って」

「んで?」

「『中村さんも、卒業おめでとう!』って」

「……そんだけ?」

 怪訝そうな顔で益田が俺を見つめる。これはかなりばつが悪い。しょうがない、全部話してしまおうか。


「俺『また……会えたらいいね』って言ったんだ」

「ほう! それでそれで?」

 前のめりになって、益田は俺の顔に近づいた。俺は思わず、顔を横に背けた。

「そしたら中村さん『そうだね……大学は別々になっちゃうけど、ほら、同窓会とかあるしね。また会えるよ』って」

「ふーん、で?」

「『うん、そうだね』としか言えなかったんだ、俺」

「ハッハッ……そうか。まあ、お前らしいや」

 俺はもう益田の顔をまともに見ることが出来なかった。なんだか自分自身が情けなくて。

中村さんのことが好きだって伝えるチャンスは十分あったはずなのに、その勇気が俺にはなかった。俺は……弱い男だ。

「んで、その後は何もなかったのか」

「お互い『じゃあね』で、それっきりだな」

「お前なぁ……せめて番号とアドレスくらい交換しとけよな」

「それじゃ、『あなたのこと気になってます』って見え見えじゃないかよ。照れくさくてさ……」

「ハッハッハッ……やっぱり村上は奥手だなぁ」

 カラカラと益田は俺の言葉を笑い飛ばした。奥手で悪かったな、ふん。


 俺は大きく息をついて、ふと空を見上げた。そして視線を、西日のほうに傾けてみる。


「うわぁ……きれいだなぁ」


 俺は思わず、そうつぶやいていた。

いつしか夕日はオレンジ色から、淡い紫色に変わっていたからだ。今にも沈みそうな太陽には薄い雲がかかっていて、赤みがかった紫に染まっている。

俺はこの幻想的な紫色の雲が大好きだ。この雲を見ると、美しく彩られた世界に自分自身が溶け込んでいけるような、そんな気持ちよさを感じるからだ。

今まで何度かこんな夕焼けは見たことがあるけれど、今日はとびきり綺麗に見える。さっきまで益田の言葉と自分の情けなさに落ち込んでいた気持ちが、だんだんと晴れてきた。

「なあ、村上。なんだか気味悪い色の夕焼けだな。なんか、世界の終わりって感じでさ」

 少し顔をしかめて、益田はそうつぶやいた。なるほど、同じ景色を見ても、奴はそう感じるわけだ。感じ方は人それぞれだ。

 俺は素早くポケットから携帯を取り出して、カメラのレンズを西の方角に向けた。液晶の画面を見つめながら、ピントを合わせる。

「おい、そんなに焦って写真取ることないだろ」

「知らないのかよ? この雲が綺麗な紫色に染まってる時間って、ほんの僅かしかないんだぜ」

「……ふーん」

 首を軽く振りながら益田はそっけない返事を返す。

「この限られた時間が勝負だからな。同じ景色を撮ろうったって、チャンスは二度とないぜ」

言いながら俺は空に向けて、何度もシャッターを切った。二度とはないこの景色を、留めておくために。


 ひとしきり夕焼けを撮り終わった後、俺は携帯をポケットにしまった。雲はもう紫から深い青色に変わり、辺りは徐々に闇に包まれ始めた。

「本当だ……あっという間に空の色、変わっちまったな」

「だから言っただろ。ほんの僅かな時だって」

 神妙な面持ちで益田は、ずっと空を見上げていた。俺はさっきまで隣で寝ていたブライアントが気になって、視線を横に移した。ブライアントはいつの間にか起きていて、ぬいぐるみの様にちょこんと座っている。俺はそんなブライアントの頭を何度も撫でた。


「あのさ……さっきの話に戻すけどよ」

 空を見上げたまま、益田はそうつぶやいた。

「村上は今、中村さんのことどう思ってる? 今、現在の話だぞ?」

 淡々とした口調で益田は続けた。抑揚はないけれど、厳しい口調だ。

「卒業式の後『じゃあね』で別れてさ。それで区切りはついたのか?」

 その言葉に、俺はしばらく考え込んだ。気持ちの区切りなんて……ついてるはずがない。

一時は忘れていた恋心が、今になって一気に噴き出した。なんか、心の中が焼け付くようだ。頭はくらくらと揺れる。

「あれだけ……想ってたんだぞ? 簡単に気持ちなんて、消えるわけねえよ」

 ぶっきらぼうな言葉だったけど、俺は益田に向かってそう答えた。

 俺は本気で中村さんのことが好きだった。ていうか、今でも好きな気持ちに変わりはない。彼女のことを想っている時間は、本当に幸せな気持ちでいっぱいだ。それだけははっきり言える。

 俺はじっと益田の顔を見据えた。いつも飄々としている益田の顔も、今は真剣だ。

「だったら、話は簡単じゃねえか」

 にやりと笑いながら、益田は膝を大きく伸ばした。そして、俺の顔をじっと見る。

「この際だ。思い切って中村さんに告っちまったらどうだ?」

「な、なっ?」

 おいおい、いきなり何を言い出すんだこいつは!

 笑みを浮かべたまま、益田は俺をじっと見ている。激しく動転している俺の心を見透かすかのように。たまらず俺は益田の顔から目を逸らした。

「さっきお前が言っただろ? 『チャンスは二度とない』って」

 その言葉に、俺は心を弾丸で撃ち抜かれた様な思いがした。

 さっき俺が紫色の雲を撮ってた時に、口にした言葉だ。『同じ景色を撮ろうったって、チャンスは二度とない』って。まさかそっくりそのまま、その言葉を益田から返されるとは思ってもみなかった。

「今がお前にとっての、最後のチャンスじゃないのか? 今、その想いを伝えなきゃ、完全にタイミングを失っちまうぜ。自分でチャンスを潰しちまうのか?」

 確かに、益田の言う通りだ。まだ中村さんへの想いはこの胸の中にある。今まで心に秘めてきた、この気持ちが続いている限りは、まだ終わりじゃないんだ。

 天から射す紫色の光は……まだ消えていないはずだ。あとは俺にシャッターを切る勇気があるか、ただそれだけだ。

「まだチャンスがあるなら……俺、可能性に賭けてみようかな」

「よく言った! それでこそ男だぜ!」

 益田は言いながら、俺の肩をパンと叩いた。

「あとよ、もたもたしてると、中村さんにも言い寄ってくる奴が現れるかもしれないからな。男は決断の早さが命だぜ」

 そういうと益田は、すくっと立ち上がって俺のほうを向いた。そしてにっこりと笑う。知らないうちに俺の顔にも笑みが浮かんでいた。

「おうっ! ありがとう!」

 感謝の気持ちもこめて、俺は益田に答え返した。


 ワンッ! ワンワンワン! ワンッ!


「おおっと……どうも俺は犬には好かれないみたいだな」

 益田が立ち上がったのにびっくりしたのか、ブライアントがけたたましく吼え始めた。益田はつぶやきながら苦笑いをする。俺はブライアントを繋いでいる紐を軽く引いた。

「もう暗くなってきたしな……そろそろ帰るぜ。それじゃ、あとはうまくやれよ!」

「分かってる。それと、帰る途中に堤防から転げ落ちるんじゃねえぞ。街灯、暗いしな」

「ハッハッハッ、心配ありがとよ。じゃあな、村上!」

 そういうと益田は、丘を走りながら下っていった。斜面に倒してあった自転車を起こし、益田はゆっくりと漕ぎながら堤防道路を東へと去っていく。その姿が夕闇に隠れて見えなくなるまで、俺は丘の上からずっと見ていた。



 それからしばらく、俺は川辺をずっと見つめていた。この時間だからか、川原にはもう誰もいない。向こう岸に見える住宅街にも、だんだんと灯りがともり始めた。

 この胸は、言いようのない幸福感で一杯だった。紫の雲を見れたことだけじゃない。益田が俺に、一欠けらの勇気を与えてくれたこと。それだけで俺の心はすっきりと晴れ渡った。本当に清々しい気持ちだ。

 そういえば、中村さんの番号もアドレスも分からないんだよな。気恥ずかしいけど、彼女に手紙でも送ってみるか。なんとかしてこの想いを伝えなくちゃ、男が廃るってもんだ。


 あたりはたちまち暗くなり、少し肌寒くなってきた。ブライアントが俺の足元に擦り寄って、潤んだ目で見上げてくる。早く家に帰りたいという合図だ。

「待たせてごめんな、ブライアント。そろそろ帰ろうか」

 俺は立ち上がってジーンズに付いた土を払い、紐を引いて歩き出した。丘の下に立つ桜の木々の葉が、風で揺れたのが微かに見えた。


 この心に根付いた想いと勇気は、紫色の雲と共にある。

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