「私たち、結婚しました(嘘)」
「ねぇ、修哉。あんた、いつになったら結婚するの?」
とある休日。珍しく実家に帰った俺・秋月修哉は、母さんから「嫁はまだか?」と尋ねられる。
「ただいま」と言って実家の敷居を跨げば、「おかえり」と同時に返ってくるのがこれだ。25歳を過ぎてからというもの、母さんは会う度に結婚の催促をしてくる。
「結婚どころか、彼女すらいないっての。まだ27なんだし、もうちょっと独身を満喫させてよ」
「まだ27じゃなくて、もう27なのよ。……母さんと父さんなんて、20の頃にはもうあんたを育ててたっていうのに」
「デキ婚&駆け落ちカップルを基準にするなよ……」
それも親の反対を押し切っての駆け落ちだったらしい。
結果うちの両親は、30年近く経つ今でも祖父母から勘当されている。俺は両親と険悪になるのはごめんなんだよ。
「結婚願望がないわけじゃないさ。だけど結婚すれば、当然自分の時間が減るわけだろ? 子供が出来れば、余計に」
「まぁ、それが家族を持つってことだからね。結婚とは謂わば契約。契約には責任が付きものよ」
「早い内に結婚するのが悪いとは言わないけど……別にいくつになっても、遅いなんてことないんじゃないか? 少なくとも俺は、今を楽しみたいと思っている」
結婚をしたいから、恋愛をするわけじゃない。恋愛の末この人と一緒になりたいと思うから、結婚するのだ。
結婚は契約だ。だから自分の時間を費やしても良いと思える相手じゃないと、結婚したいと思わない。
残念なことに今の俺には、そう思える女性が近くにいなかった。
俺の考え方を聞いた母さんは、「そう……」と寂しそうに呟く。
母さんにも母さんなりの考えがあるのだろう。
だけど俺の人生だ。俺の考えを、尊重して欲しい。
「実はあんたに言ってなかったことがあるんだけど……母さんにはね、夢があるの」
「何だ? 魔法少女になりたいのか?」
「んなわけないでしょ。私の夢、それは……ひ孫を愛でることよ!」
「……は?」
予想だにしない夢の内容に、俺は思わず素っ頓狂な声で返す。
「更に欲を言えば、玄孫に看取られながら大往生したい! だからあんたには、一刻も早く子供をこしらえて貰わないと困るのよ!」
玄孫って……一体何歳まで生きるつもりだよ? 魔法少女にはなれないけど、魔女くらいにならなりそうだ。割とマジで。
「というわけで、とっとと嫁と孫を見つけなさい! そして連れて来なさい! きちんと子供を作ってこないと、今後我が家の敷居は跨がせないからね!」
デキ婚推奨とか、どんな母親だよ……。
◇
実家に泊まると一晩中お見合い写真を見せられそうなので、俺は終電に合わせて自宅に帰ることにした。
「それじゃあ、修哉! 良い報告を楽しみにしているからね!」
……わかったよ。今度は昇進した時に帰ってくるとするよ。
結婚相手を見つけるより、遥かに現実的だ。
終電近い時間だということもあり、夜道は人通りが少なかった。
だからこそ、数少ない通行人には自然と目が向くわけで。
横断歩道の前で信号が青に変わるのを待っていると、すぐ隣で20歳くらいの男が仕事帰りの女性を口説いていた。
「ねぇねぇ、お姉さん。どうせ家に帰るだけなんでしょ? 予定がないんなら、朝まで俺と一緒に飲もうよ。奢るからさ」
「……」
随分古風なナンパだこと。そして女性の方は、見事に無視していた。まるで男の存在に気付いていないみたいだ。
「そうやって冷たい態度を取られると、余計に燃えてくるんだよね」
反応しないのを良いことに、ナンパ男は女性に触れようとする。
話しかけられるくらいなら無視を決め込めたものの、流石に触れられるのには抵抗があったのだろう。女性は「やめて下さい」と、とうとうナンパ男に拒絶を返した。
「やっぱり、見えてんじゃん」
「……っ」
一度応えてしまった以上、もう無視という手段は取れない。
さて、彼女はどうやってこの窮地を乗り切るのだろうか?
他人事のように(実際他人事なのだが)女性を見ていると、うっかり彼女にそのことを気付かれてしまった。
俺と彼女の目が合う。……どうしよう。助けた方が良いのかな?
しかしそんな悩みなど、抱くだけ無駄だった。なぜなら――俺は問答無用で、彼らのやり取りに巻き込まれることになる。
ニヤリと、俺を見た女性は笑みを浮かべる。
そして何を考えたのか、彼女は俺のうでにしがみついてきた。
「私、この人と婚約してるんで!」
『はい!?』
ナンパ男だけでなく、当然俺も声を出して驚く。
婚約者って、何のこと!? 俺たちバリバリの初対面なんですけど!
◇
俺という婚約者(偽物)を巻き込むことでナンパ男を撃退した女性は、俺の腕から離れる。
それから深々と頭を下げて、謝罪をした。
「いきなり婚約者呼ばわりしてすみません。あぁでもしないと、あのナンパ男は諦めないと思ったので」
「別に迷惑はかけられてないし、構わないけど……よく見知らぬ男を婚約者役にしようなんて思い付いたな」
「立ってる者は、徹夜明けのサラリーマンでも使え。母からそう教わったもので」
「まさしく悪魔の所業だな。お前の母親って、パワハラ上司なの?」
「いいえ、専業主婦です。もしくは父の飼い主です」
……あぁ、成る程。
こき使われる徹夜明けのサラリーマンとは、彼女の父親のことか。くわばらくわばら。
ナンパ男の去って行った方向を見ながら、俺は呟く。
「あぁいうのって、よくいるのか?」
「まぁ、週一くらいの頻度で出没しますね。こう見えて、私ってモテるんですよ」
謙遜しているが、彼女の容姿は非常に整っている。週一でナンパに合うのも頷けた。
「秋月修哉だ」
名乗りながら、俺は手を差し出す。
しかし彼女はその手を握り返すことをせず、俺の顔をジーッと凝視し続けていた。
「……え? ナンパですか?」
「違う。ただの自己紹介だ」
「そういうことなら。私は夏河未玖です」
彼女――夏河さんは、ようやく俺の手を握り返した。
「女の子に好かれたいと思ったことは確かにあるけれど、モテすぎるっていうのも困りものなんだな」
「秋月さんは、モテないんですか? カッコ良いですし、女の子が放っておかないと思うんですが?」
「気遣いどうも。生憎生まれてこの方告白された経験なんてありません。……そのせいで母親から「まだ結婚しないのか」って再三言われているんだけど」
「お互いに苦労していますね」
「端的に言えば、そういうことだ」
俺は夏河さんから手を離そうとする。しかし夏河さんの方が俺の手を離してくれなかった。
「夏河さん?」
「一つ提案があるのですが……結婚しませんか?」
「結婚!?」
「はい。実は私も、さっきのようなナンパが多くて困っていまして。結婚相手でもいれば、今後良いナンパ避けになると思うんです」
つまり俺は母さんの追及から逃れるために、夏河さんはしつこいナンパを回避するために偽装の結婚をしようということか。
「本当の結婚じゃないので、別に愛して貰う必要はありません。これでの生活の一部に、互いの存在が含まれる。その程度に考えて下さい」
「対外的には結婚夫婦でも、実態は独身時代となんら変わらない。……良いじゃないか」
当面独身生活を謳歌したい俺にとって、願ってもない提案だった。
「それでは契約成立ということで」
「……あぁ」
そう、結婚は契約だ。
その契約を、俺たちは互いに都合の良い形で結ぶことが出来た。
その日俺たちは、母さんを含めて方々に連絡をした。「私たち、結婚しました」、と。
◇
電撃結婚を報告した直後は、「おめでとう」の電話が鳴り止まなかった。
母さんなんかは泣いて喜んでいた。「次は孫ね」の一言は余計だったけど。
入籍後、カモフラージュも兼ねて俺たちは一緒に住むことにした。
それまでのワンルームアパートでは手狭なので、2DKの部屋に引っ越す。因みに寝室は別々だ。
高価ではないけれど、互いに指輪を交換した。これは、夏河さんの発案だ。
左手薬指に指輪をはめていれば、誰から見ても既婚者だとわかる。お陰で週一の頻度であったナンパがなくなったとか。
兎にも角にも、俺たちはこの結婚(嘘)によって互いの悩みを解消し、それでいて今までと然程変わらない生活を送っているわけだから、非常に充実した日々を満喫していた。
いくら束縛しない結婚生活だとしても、ある程度共有しなければならない部分が出てくる。
例えば朝食。それぞれ別の時間に別のものを食べるというのは無駄が多いので、俺たちは一緒に取ることにしている。
例えばテレビ視聴。一応それぞれの部屋にテレビはあるのだが、観たい番組が一致した場合は、リビングの大画面で視聴することにしている。どうせ同じ番組を観るのなら、2人で観た方が楽しいに決まってる。
同居生活のメリットを存分に活かし、デメリットは徹底的に回避する。夏河さんとの結婚は、最高と言っても過言じゃなかった。
結婚して2ヶ月ほどが経過したある日、俺は午後休を取っていたので、14時頃には既に帰宅していた。
ふと窓の外を見ると、予報外れの雨が降り始めていた。
慌てて洗濯物を取り込みながら、俺は思う。
夏河さん、傘持っているのかな、と。
夏河さんの職場は、徒歩圏内にある。それでも20分近くかかるので、傘なしで歩くとなるとびしょ濡れになってしまうわけで。
……よし、迎えに行くとするか。
俺は就業時間に合わせて、傘を夏河さん用に傘を1本余分に持ち、家を出た。
夏河さんの職場に着いた。
彼女は残業をしているらしく、俺は建物の外で30分ほど待つ。
ようやく夏河さんが出てくると、案の定彼女は傘を持っていなかった。
「秋月くん? もしかして、迎えに来てくれたんですか?」
「まぁな。……ほい」
俺は持ってきた傘を夏河さんに手渡す。
「ありがとうございます。秋月くんは、本当に優しいですね」
「一応、夫だからな」
「夫」。自分で口にしたというのに、その単語が妙にこそばゆく思えて。
それはまだ結婚して間もないからだろうか? それとも――
◇
俺たちの関係性に変化が起きたのは、結婚して半年が経った時期だった。
「秋月くん、話があります」
深妙な顔つきで、俺は夏河さんに呼ばれる。
ダイニングテーブルに、夏河さんに対面する形で腰掛けると……彼女から差し出されたのは、結婚指輪だった。
「これは、どういう……?」
「ごめんなさい。もう今のような偽りの結婚生活を、送ることは出来ないんです」
「……本当に好きな人が出来たのか?」
「……はい」
夏河さんはゆっくり頷く。
……そうか。そうなのか。
元々俺はナンパ避けとして、夫役に選ばれたに過ぎない。彼女に本当に好きな人が出来たのなら、お役御免だ。
夏河さんの気持ちを尊重しよう。
俺もまた指輪をはずそうとしたのだが……無意識のうちに、その手が止まってしまった。
その瞬間、今更ながら自分の気持ちに気がつく。
俺は夏河さんとの結婚生活が楽しかった。この生活をずっと続けていきたいと思っている。それってつまり……俺は彼女のことを好きってことなんじゃないか。
だけど夏河さんへの好意に気付いたからって、どうすることも出来ない。俺は恋をすると同時に、失恋したのだ。
「今まで本当にありがとう。本当に好きな人と、幸せになれると良いな」
母さんには、「俺が原因で離婚した」と言っておこう。それくらい、格好つけさせて欲しい。
しかし……夏河さんの返答は、予想外のものだった。
「幸せになれるかどうかは、秋月くん次第ですね」
「……何で俺? 関係なくない?」
「関係大ありです。というか、当事者です。だって私の好きな人って――秋月くんなんですから」
……嘘だろ。
要するに夏河さんは、俺への好意を自覚してしまったから、今までのような偽りの結婚生活は送れないと言っているのか? 今度は本当の夫婦として過ごしていきたいと言っているのか?
……なんだよ、それ。俺のショック、返してくれよ。
まぁそのわかりにくい告白のお陰で、俺も自分の気持ちに気付けたわけだけど。
「……で、返事は?」
「そんなの、「イエス」に決まってるだろ」
今度は打算なんかじゃない。どんなに自分にデメリットが生じたって、彼女を幸せにしてみせる。
そんな誓いを立てながら、俺は彼女に――未玖に再び結婚指輪をはめる。
「私たち、結婚しました」。今度はもう、嘘なんかじゃない。俺たちは胸を張って、そう言うことが出来るだろう。