丁寧ーイルカより
音波高校1-A組、入鹿池舞流は精神的にまいっていた。
彼は毎朝6時ぴったりに起き、夜10時にはきっちり寝る。物心ついたころから一度も乱れたことのない生活リズムだった。
入鹿池は子供のころから『きちんとした生活』『丁寧な暮らし』を心がけていた。
小学校に入学して以来学校を休んだことは一度もない。家に帰ると毎日決まった時間に勉学し、掃除をして部屋を清潔に保ち、健康的な食生活を心がけている。常に自ら率先して規則正しい生活をしていた。
そんな暮しのおかげで常に成績優秀。中学では水泳部に入り県内代表選手として全国大会にも出場した。
入鹿池舞流はとにかく真面目できちんとした人間だった。
少なくとも音波高校に入学するまでは。
それは入学初日の事。入鹿池舞流は生まれて初めて遅刻しかけた。原因は謎の『声』。登校中いきなり謎の声が頭に響くという超常現象に見舞われたのだ。それは音ではなく『声』だった。何を言っているかはわからないが確かに声だと認識できた。
入学式の最中もちょくちょく声が聞こえ、声がするたびにドキドキして、心臓がきゅっと締め付けられるような気持ちになった。
気が散って仕方がない。
校長先生の長話も最初から最後まで一字一句きちんと聞いて、丁寧に入学式を終えたいのに。
しかも謎の声は教室にちかづくにつれ段々と大きくなった。
謎の声と胸の高鳴り。オカルトの類いを一切信用していない上に恋もしたことのない彼は謎の声と胸の高鳴りを環境の変化によるストレスでの幻聴及び不整脈と判断した。
気持ちを整えて、教室に入らなくては…!入学式も終わったしもうチャイムなりそうなのに教室に入れないなんて由々しき事態だ。
初日から遅刻とか全然丁寧じゃないし、そんなのだらしない。あってはならない事態だ。
このままでは15年間貫いてきた俺の『きちんとした生活』『丁寧な暮らし』が崩壊してしまうではないか!一度でもリズムが乱れるとその後はなし崩しに『雑でだらしない生活』に堕ちていく。ほんの些細な『まあいいや』の精神、気の緩みが堕落した生活への第一歩だと知っているのだ。世の中の大人たちはだいたいこのパターンでだらしない生活に足を突っ込んでいくと本で読んだ。
特に体調が悪いわけでもないのに胸がドキドキする、緊張する、なんてフワフワした理由で時間通りに教室に入れず遅刻なんて乱れの極み…!自堕落な生活への第一歩…!なんとかせねば!
入鹿池はものすごい気合いを入れてなんとか教室に足を踏み入れた。席に着き、先生の話を聞き、丁寧な自己紹介をするつもりだった。
しかしそこで思わぬ事態が発生した。首席で入学してきた幸森閥斗が自ら自己紹介を名乗り出た。
そして彼の声を聞いた瞬間、入鹿池は自分を悩ませた謎の声の正体を突き止めた。
間違いない、この不可解な声を出しているのは幸森閥斗だ。
奴は俺と同類…人外の一族だ。
入鹿池には親にも話したことがない秘密がある。幼い頃、唐突に祖父からが実は入鹿池家はイルカの一族なんだと話された。
ずっと冗談だと思ったが10歳の時に海水浴をしている最中に突然下半身がイルカになり、背中にヒレが生えたことで入鹿池は自分の正体を知った。
隔世遺伝のようなものらしく、父も母もイルカ人間にはならないのが祖父と舞流はイルカ人間になる体質だったらしい。
祖父曰くこの世には入鹿池家のような人外の姿に変身する者がけっこういるとの事だった。
幸森閥斗、きっと奴はそれだ。奴が人外の一族だとすればこの謎の声も説明がつく。同類の俺に普通の人間には聞こえない声で話しかけているのだろう。
おのれ幸森…何が目的かは知らんが俺の生活を乱したすとは。この状況をどうにか打開しなくては…。
そういえば奴が自己紹介を終えた時、無言で立ち上がった生徒がいたが彼も俺の同類なのだろうか?
無害そうな人物だったが…。小江神という名前だったろうか?
入鹿池は席に戻った幸森をみた。奴は隣の席の小江神と何やら仲良さげに話していた。
その様子をみてなぜか心がキュッとなった。それに一番驚いたのは入鹿池自身だった。
今日名前を知ったばかりの人に対してなぜこんな感情を抱くのだ?俺はどうしてしまったのだ?
俺の『丁寧な暮らし』『きちんとした生活』はどうなってしまうのだ…!?
入鹿池舞流にいきなり訪れた予想外の生活の乱れ。これがまだほんの序章であることを、彼はまだ知らない。




