10:『あいうえお異世界恋愛』
作者:砂臥 環 様 の作品『台詞deドレミの歌』
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に影響を受けて書いた作品。
「愛しているよ」
いつもそう囁いてくれていた婚約者は忽然と姿を消した。
嘘だと思いたかった、信じたくなどなかった。
永遠にも感じられる彼のいなくなった日々を、一生分の涙を流したのではと思うほど泣いて過ごした。
「お前の新しい婚約者が西の辺境伯に決まった」
家族揃っての朝食の席でお父様から告げられた決定事項に、眩暈と吐き気がしてそれ以上食事が喉を通らなくなった。
「今日の午後、急なことだが辺境伯がうちを訪ねてくださるから、くれぐれも失礼の無いように、しっかりご挨拶するように」
(雲隠れしたい)
決定した事柄を覆すのは容易ではないから、この身が消えてしまえばよいのにと非現実的なことを考えた。
(この身が消える……まるで、いなくなってしまった婚約者のようだわ)
囁いてくれていた愛の言葉は全て嘘だったのか。
幸せにすると話してくれた、かつての婚約者の顔や声を思い出す。
澄んだ瞳、厳めしい眉間のシワとは対照的な可愛らしいえくぼ、ビブラートが効いたみたいに耳に心地よく残る声。
成人するまではキスも何もしないと宣言され、定期的なお茶会や観劇などで一緒に過ごしたり出掛けたりはしていたけれど、体に触れるのは最低限、エスコートのみで男女的なスキンシップは言葉通り何も無かった。
それでも、愛の言葉は毎回こちらが恥ずかしくなるくらい沢山囁いてくれて、また、折々には贈り物も欠かさずしてくれる人だった。
多分あれは上辺だけの言葉で、贈り物も形式的なものだったのだろう。
ちくりと心が痛み、また、朝食も昼食もろくに食べられなかったので、空っぽの胃が酸で溶けるようにお腹もちくちくと痛かった。
付き合っていた人でもいたのだろうか。
手と手を取り合い、今もその女性と愛の逃避行を続けているのだろうか。
時計に目を遣り針の位置を確認すると、辺境伯が来るという時間に迫りつつあった。
涙は一滴も出なかったが、自分の情けなさに、惨めさに、泣きたい気持ちになった。
逃げる勇気など無い自分は、新しい婚約者にこのままあともう少しで引き合わされる。
ぬかるんだ泥水に足を取られたように、どろどろと濁ったものが足の裏から染み込んできて、全身がずんと重くなったように感じた。
(眠ってしまいたい)
残りの時間、新しい婚約者が邸に来るまで、もう何も考えずに済むように。
(はぁ)
ひりつく心は溜め息をしても誤魔化すことはできず、手に持った本のページもまるで進まず、けれど時計の針はカチ、コチ、カチと進んでいく。
不意に部屋の扉がノックされ、メイドではなくお父様の声がした。
「辺境伯がお越しなったから直ぐに来るように」
本に栞を挟む。
マリーゴールドの押し花の栞は前の婚約者から贈られたものだった。
(見納めかしらね、もう捨てなくちゃ)
無理に笑顔を作ってみるが、ちゃんと笑えている気がしない。
メイドを呼んで髪をさっと直してもらい、新しい婚約者の待つ応接室に向かった。
(もう、なるようにしかなかないのだから)
やけくそな気持ちになりながら、貴族の家に生まれた娘の仕事なのだと自分に言い聞かせ、深呼吸で心を落ち着けながら扉をノックし、部屋へと入った。
ゆったりとソファーに腰掛けていた新しい婚約者は柔らかな笑顔を私に向け、さっと立ち上がった。
「良かった、ずっと元気が無いのだと貴女のお父上から聞いていたから、とても心配していたんだ」
私の右手をそっと手に取ってふわりと包み、優しく唇を落とす仕草をする辺境伯を見て、心がぽわんと温かくなって、ぷつりと緊張の糸は切れ、枯れたはずの涙が自然と頬を伝った。
(……を、この方を、この方の言葉を、私は信じても……よい?)
んっほん、と咳払いして凛々しい表情になり、でもすぐに、とても愛しいものを見るような優しい目をして、愛しているのだと、妻に迎えたいのだと言い、辺境伯はもう一度私の手に、今度は唇を落とした。




