4.侯爵令嬢の誤解
「それで……スカラッティ伯爵令息とデル・テスタ男爵令嬢との婚約は円満に解消されましたの?」
セレーネが優雅にカップを持ち上げた。彼女の好きな茶葉を用意させたからそれだけでも喜んでくれるといい。
セレーネの所作にうっとりと見惚れながら、ベネディクト王子は会話を続ける。
「ちゃんと陛下にお願いして彼らの縁組は解消させたよ。業務提携はそのままに、慰謝料もきちんと払わせた。アーロンの個人資産から支払われたはずだ」
正確には、アーロンが学園を卒業したら相続するはずだった彼の祖父からの個人信託が、そのままデル・テスタ男爵令嬢の信託口座に移動したと聞いた。祖父から孫への遺産。スカラッティ伯爵家、総資産の1/4に当たると聞いたが、それはバカ息子の尻ぬぐい料だ。伯爵家の今後の発展に期待しよう。
あの時、彼の側にいた金髪の女生徒は同学年の子爵令嬢。確かに見事なボディラインを所持する女性だったが、あのようにこども相手に辛辣な態度をとる人間は苦手だと、王子は思う。
「なるほど。……その、伸びしろの大きいデル・テスタ男爵令嬢を、わたくしが教育すればよろしいのですね?」
「ん?」
「大丈夫ですわ。殿下がお気に召すよう、その令嬢に教育を施しますし、そのように無邪気な令嬢ならばわたくしも仲良くできるでしょう」
?????
セレーネは王立学園を首席で卒業するほどの才媛だ。だが侯爵令嬢である彼女が、一介の男爵令嬢の家庭教師をする意味が分からない。
それに『殿下がお気に召すよう』と言った。それもあの完璧な笑顔と共に。
(僕の気に入りだと思っている?)
確かに、伸びしろだらけの男爵令嬢は愛らしい見た目をしていたが、彼女は。
「殿下。わたくし、心の狭い女ではございません。側室のひとりやふたり、みごと御してご覧にいれますわ」
「……は?」
衝☆撃☆的☆事☆実!!!!!!!
ベネディクト王子の脳内で、ちいさな自分が巨大ハリセンにひっぱたかれる妄想が展開された。
恋した女性に!
笑って側室を容認するといわれた!
この国は一夫一婦制の国ではあるが、ベネディクトは王族で、王族は側室を持つことを容認されている。だがそれは国王本人もしくは王太子に世継ぎがいない場合だ。結婚後、3年経過してもこどもの誕生が見込めないような状態で、初めて持ち上がる話だ。
まだ婚約状態で出される話題ではない。しかも自分は第二王子だ。本来なら側室制度の対象外だ。
つまり!
……つまり、彼女は自分を恋愛相手だと認識していない。
あくまでも、政略結婚の相手として接している。
だからこそ、側室も許容範囲にあると正々堂々言ってのけた。
「あぁ……そう、いう……」
いろいろなことが王子の脳内を駆け巡った。
(痛い。胸が痛い)
セレーネの瞳の色に合わせたアクセサリーを吟味したこと。
外商を呼び、彼女に気に入られるようなドレスをあれこれ相談したこと。
王妃の庭園にだけ栽培される花を摘んだこと。(勿論、許可を得て)
(全部、独り善がりな行動で、僕の気持ちを伝えきれていなかったわけか)
愕然とするというのか、力が抜けるというべきか。脱力するという方が近いのか、はたまた泣きたくなるというべきか。
どれも当てはまり、そのどれもが当てはまらない。
(めまいがする……)
日頃、恋する相手を前にしても理性を総動員させ、涼しい顔を維持してきた過去の自分を褒めようと王子は思った。
大丈夫、ショックを受けている情けない自分を晒していないはず。
だが、取り敢えず釈明はすべきだろう。
グスタフの為はもちろん、自分の名誉の為に。
「君が、デル・テスタ男爵令嬢と個人的に仲良くするのは一向に構わないよ。ただ、誤解は解かせてくれ。彼女は僕の側室になる予定などない。何故なら、そこにいるグスタフの恋人だからね」
「――え?」
ちゃんと平気な顔を作れているだろうか。
笑えているだろうか。
王子の視界の中、自分の手が微かに震えている。それを隠す為に両手を組んだ。彼は自分の指先が急激に冷たくなったのを自覚した。
「食堂の一件には続きがあってね」
声は震えていないだろうか。
内心の動揺が現れてはいないだろうか。
危惧しながらも、細心の注意を払い会話を続けた。セレーネの瞳を正面から見詰める勇気が持てなくて、目の前に並べられた茶器の模様をぼんやりと眺めながら。
学園の裏庭でデル・テスタ男爵令嬢を見つけたこと。
その時、彼の護衛であるグスタフ・アラルコンが王子を放置してまで令嬢を慰めたこと。
彼らはその後、めでたく恋人同士になったこと。
今も扉の前に立つ優秀なグスタフは、無表情で護衛としての任務を続けていた。勝手に部下の恋愛事情を話題にして済まないと思いつつ、この誤解は早々に解かなければならないのだ。グスタフのことだから、察してくれるだろう。釈明を続ける。
グスタフ本人の耳にも届いているだろうに平然としている彼は、もしかしたら意識を遠い処へ飛ばし、無になることで羞恥から逃れているのかもしれない。
「だからね、セレーネ。デル・テスタ男爵令嬢は、あそこにいるグスタフが自分で見初めて気に入った娘だ。僕は臣下の恋人を取り上げるようなヒドイ男に見えるのかい?」
(肯定されたら一晩は泣き明かそう)
そう思いながら、彼は落としていた目線を上げて自分の婚約者を見た。
(……え?)
そこにいたセレーネ・ポルフィリオは、初めてみる表情をしていた。
いつもの彼女は、すべての令嬢の鑑と呼ばれる女性。王太子妃になっても遜色ないと噂される才媛。
だが、今彼の目の前にいるセレーネは。
頬を真っ赤に染めて、困惑した顔。
「申し訳、ありませんでした……詮無きことを……わたくしの、勇み足……早とちりでございました……」
いつもの超然と微笑む令嬢の鑑はそこにはいなかった。
狼狽え動揺し、頬を染め、謝罪する姿。こんなに当惑を全面に押し出した姿を初めてみた。
まるで、普通の少女のような。
「ねぇ、セレーネ。僕は、ヒドイ男かな」
「いいえ! そのようなことありませんわ!」
重ねて問えば即座に否定されたので、王子は内心ホッとした。
「酷い、というなら先程お話に聞いたスカラッティ伯爵子息の態度でございましょう! 婚約者相手に当然やるべき義務も果たさず、礼儀も弁えず突然の婚約破棄宣言など、その最たるものですわ。殿下はいつも誠実に接してくださっていますもの、殿下をヒドイなどと思いません」
確かに『誠実に接して』いた。それは認められていた。
王子はセレーネの毅然とした態度とことばに安堵する自分を感じた。
(でも義務だって思われていたのかな)
義務などではなく、思いっきり我を通した結果なのだが。その辺りを彼女はきちんと認識してくれているだろうか。
「でも、婚約者相手に側室をねだるような男だと思ったんでしょ?」
「そ、それは……!」
そう問えば、再び狼狽えるセレーネ。なんだか初めてみる彼女の姿に王子はふと笑いがこみ上げる。
「ごめんね。僕の話し方が悪かったせいだね」
(へんな誤解させちゃうなんてなぁ……僕もまだまだだね)
「婚約者に……僕の方から望んだ許嫁に、そんな誤解をさせてしまうなんて、僕の不徳だ、申し訳ない」
(大丈夫。嫌われていないなら、大丈夫。好いて貰えるようまた努力しよう)
片思い歴ももう11年だ。いい加減報われてもいいだろうとは思うが、相手の気持ちを無理に変えることなど神でない限り不可能だ。彼自身が自分の気持ちを捨てられないのと同様に。
「……殿下。いま、なんと仰いましたか?」
セレーネが呆然、といった体で彼にきいた。
「“僕の不徳だ、申し訳ない”?」
「その前ですっ」
(その前?)
「“誤解させてごめんね”?」
「いえ、そうでなくっ! ……わたくしの聞き間違いでないなら、“僕の方から望んだ”と、仰いましたか?」
「あぁ、うん。言ったね。“僕の方から望んだ許嫁”って」
そう言ったとき、セレーネはそれこそその大きな瞳が零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「うそっ!」
(え?)
「嘘ですっ、嘘ですわっ! だって、国王陛下からの特別なご命令だと伺いましたわっ」
「なにが?」
「わたくしたちの縁組が、ですっ! 国王陛下からの特命があり纏められた縁談だと伺っておりますっ」
「そうだね。僕が両親に頼み込んだから纏まった縁組だね」
「……え?」
「え?」