3.恋に落ちる瞬間に立ち会えても自分の恋はままならない
ベネディクト王子は王宮育ちで下々の暮らしに疎いという自覚があった。のちのち兄の治世になったとき彼を支えるため、第二王子である自分がすべきことはなにか。
統治すべき人々の意識を認識しておけば、兄の役に立てるのではないか。
そう考え、お忍びで頻繁に下町に降りて民の生活をつぶさにその目にしてきた。
だがそんな彼でも壁と喧嘩する少女など初めてお目にかかった。
ましてや貴族令嬢が。
おおかたの貴族子息は初めてお目にかかる物件だろう。どう扱っていいのか分からない。
慰めるべきかその前にあの愚行を止めるのが先かと二の足を踏んでいたら、彼の背後の影が動いた。
王子の専属護衛、グスタフ・アラルコン。
王子の5歳上で逞しい体躯に際立った剣術の腕前が認められた彼は、その体躯に反し、いつもは驚くほど自身の気配を消している。そのグスタフが、王子より前に出て(というか、護衛対象を放置して?)壁と喧嘩する風変りな令嬢の背後に立った。
「おい」
「ひゃあっ!」
ぶっきらぼうな声でそう呼びかけられたルチア嬢は飛び上がって驚いた。飛び上がって驚く人間を王子は初めて見た。
振り返ったルチア嬢は、背後に立った人間が自分よりもかなり大柄なことに再度驚いたようだった。恐々と見上げ、だいぶ顎を上にしながらグスタフを見上げた。
グスタフはそっとルチア嬢のちいさな手をとった。拳には血が付いている。
「こんな怪我したら痛くて当然だ。泣け」
(え。なに言ってるの、キミ)
王子が唖然とする前で、ルチア嬢の瞳がじわじわと涙を溜め始めた。
(痛いからじゃなくて、グスタフが睨んだから怯えたせいじゃないの?)
グスタフは普段無口で表情を変えず、しかも常に眉間に皺をよせて周囲を睥睨している。どちらかといえば強面の彼は目の前に立つだけで相当な威圧を与えるだろう。
特に女性には。
案の定、ルチア嬢の瞳からぽろりぽろりと涙が零れた。
(キミ、強面で有名だから、女子に怖がられるって前に言ってたじゃん)
王子は内心ハラハラしながら、この身長差のあるふたりを見守った。
「あんな男のせいで涙なんか見せない。君は誇り高い人だ。ただ、手が痛いから。それだけだ」
「!!……あ゛い゛……ずびばぜん゛……」
(あれ?)
静かに涙を流す少女。
その頭をそっと撫でている王子の護衛。
(あれれ?)
なぜか王子の周囲は、否、訂正。王子の前にいた高低差のある男女ふたりの周囲は、甘い雰囲気に包まれていた。
「泣きたいときは思いっきり泣け。そのほうがスッキリする」
グスタフがそう言うと、とうとうルチア嬢が声をあげて泣き始めた。グスタフの胸に(腹の方が近いか?)顔を埋めて。グスタフはその肩を、そして頭を優しく撫でている。
(ほほぅ)
呆れた気分で溜息をつけば、気配を察知したグスタフが顔だけ王子を振り返った。そして、いかにも今我に返った、気まずい、どうしよう俺は護衛の任を放棄しているヤバイまずい、という表情で王子を見る。どうやら自分の行動にやっと気がついたらしい。
無意識で行動していたとは恐れ入る。
(先に校舎に戻るよ)
口の動きだけで護衛にそう伝えたあと、ベネディクト王子は笑顔で手を振ってその場を離れた。
(ひとつ貸しだぞ?)
ふと振り返って見たそこの風景は、はらはらと花が舞い散る中、じっと佇む男の胸に顔を埋めている少女の図。
……絵になる。
グスタフは信用のおける男だ。
そんな彼が思わずひとりの女生徒のもとへ赴いた訳は。
恐らく、見ていられなかったのだろう。ルチア嬢があまりにも痛々しくて。あんなに小柄で可憐で愛らしいという形容詞がぴったりな少女が、自分の涙を自分で誤魔化している事実に。
その行動は騎士としての矜持なのか、男としての本能なのか。
とはいえ、職務放棄には違いない。
(ルチア嬢とグスタフの仲があの後どうなったのか、黙秘権を行使するならペナルティとして減俸しよう。僕に話し、なおかつ彼らの仲が進展するなら減俸扱いは止めにしよう。うん、そうしよう)
信用ならんと見限った学友と、信用の置ける王子の護衛。
さて、どちらに肩入れしようか。
比べるまでもなく、即急にアーロンとルチア嬢の婚約話を白紙にしようとベネディクト王子は思った。
(ふむ。もしかして僕は自分の護衛が恋に落ちる瞬間に立ち会ったということなのかな?)
◇
「……まぁ……あの学生食堂で、そのような騒ぎが」
セレーネが自身の卒業した学園の模様を聞き、目を丸くする。
ベネディクト王子は、学生食堂で見た一件を自分の婚約者とのお茶会で話題にした。
本日は週に一度の婚約者とのお茶会。
許嫁だった侯爵令嬢セレーネ・ポルフィリオは王宮で王子妃教育を受けたあと、こうして王子とのお茶会で親睦を深める時間をとっているのだが。
彼は自分の婚約者とどう付き合ったらいいのか、距離感に迷っていた。
もっと打ち解けた関係になりたい。正直なところ、せめて愛称で呼び合うような、目と目が合えば微笑み合うような、そんな関係――恐らく世間様がいうところの恋人関係――になりたいが、どうしたらいいのかわからない。
あの馬鹿アーロンと違い、ベネディクト王子はきちんと週に一度のお茶会に彼女を招いている。今日もそうだ。
その度に小さな花束を手渡していた。
誕生日や年始め、新しい社交シーズンが始まる度に欠かさず贈り物をした。
彼女の瞳の色にあわせた最新流行のドレスだったり、隣国から仕入れた宝石を使ったアクセサリーだったり。
王子自身の誕生日にも彼女に贈り物をした。
自分の瞳の色のアクセサリーを贈り、『これを身に付けて是非僕の生誕パーティーに来てくれ』とメッセージカードを添えた。
やるべきことはやっていると自負している。
セレーネ・ポルフィリオ嬢は王子の婚約者として『完璧』な令嬢だった。
何をしても、何を贈っても、どんなに美辞麗句を飾り褒め称えても、いつも同じ笑顔で対応される。
内心を隠した外交用の完璧な微笑みを。
一分の隙も無く完璧で、だからこそどこか他人行儀な態度。
その笑みで対応される度に、ベネディクト王子は途方に暮れる。
自分が無理矢理彼女を許嫁に指名した過去を思い出すから。
◇
あれはベネディクト王子が7歳のとき。
その日、3歳上の兄、第一王子が婚約者を選定する為、こどもだけのお茶会が開かれていた。
婚約者だけでなく未来の側近も選ばれる為、年の近い国内貴族のこどもたちが男女ともに大勢集められ、盛大に催されたお茶会だった。
ふらりとその場に紛れ込んだベネディクト王子は、そこで未来の自分の伴侶はこの子しかいない! と、ひとりの令嬢に白羽の矢を立てた。
それがポルフィリオ侯爵令嬢、セレーネ・ポルフィリオ。
温かみのあるミルクティー色の髪に翠色の瞳。垂れ目の二重が可愛かった。左目の下の泣き黒子がとても色っぽくて、子ども心にドキドキした。彼女に手を引かれ、一緒にお菓子を食べて笑い合った。
ひとつ年上の彼女を気に入り、両親にどうしてもとお願いして我を通した。
そう、『我を通した』のだ。
第一王子の婚約者候補として集められた令嬢を、むりやり第二王子の許嫁に指名してしまったのだ。
◇
そんな経緯で許嫁に、婚約者になってしまったセレーネにベネディクトは少しだけ後ろめたい気持ちを持っていた。
(セレーネは、もしかしたら兄上の妃に、王太子妃になりたかったのかもしれない)
なぜなら彼女は完璧なのだ。
去年、王立学園を首席で卒業した。本当はいまさら王子妃教育なんて必要がないほど、教養も品位も振る舞いも、すべてにおいて完璧な令嬢。それがセレーネ・ポルフィリオ嬢。すべての令嬢の鑑と呼ばれる女性。王太子妃になっても遜色ないと噂される令嬢。
彼女が非の打ち所のない令嬢である分、ベネディクト王子にとっては付け入る隙が無いというか、何をしても何を言っても他人行儀で『完璧な』対応をされしまうことに戸惑いを覚える。
(もう少し、こう……打ち解けた関係になれないだろうか)
王子は彼女を『セレーネ』と呼ぶが、セレーネは彼を『殿下』と呼ぶ。愛称で呼んで貰いたいが、それが無理ならせめて名前を呼んで貰いたい。再三再四、お願いしているのだが、その時は『ベネディクトさま』と呼んでも、次に会う機会にはすぐ『殿下』呼びに戻ってしまう。
それがとても寂しい。
先日、アーロンと対峙したピンクブロンドのルチア嬢はにっこり笑顔で溜めに溜め込んだ不満を彼にぶつけていた。贈り物なし、エスコートなし、交流なし。確かにそんな薄情な婚約者などお断りだろう。
(だが僕はそれらをちゃんとクリアしてるぞ?)
コマメに贈り物もしてるし、手紙のやり取りだってしている。
お茶会をすっぽかすような鬼の所業もしたことないし、夜会には率先してエスコートしてるし、その度にドレスやお飾りを贈っている。褒め言葉だって忘れていない。
(せめてちょっとでも手応えが欲しいというか。義務感みたいなものを払拭できればなぁ)
幼き日のお茶会で見初めたセレーネの笑顔は、今、彼女が顔に貼り付けた静かな微笑みとは違っていた。せめて、あの日の笑みをもう一度見たい。
好かれているのか、嫌われているのかも分からない。
(婚約者なのに片思いって、なかなかキツイよな)
※許嫁と婚約者。どちらも「今後、結婚を予定している相手」という意味合いですが、許嫁の方が『親が決めた』感が強いようです。
よくある異世界での『婚約者』は『許嫁』という言い方の方が正しいかなぁと思ったりしてます。
拙作では『幼い頃、親の意向で決めた結婚相手』を許嫁、婚約調印式をした後(王子が12歳の時以降)は『婚約者』という名称にしたいとは思いますが、その時々のニュアンスで混在しています。