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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

マンホール事変

作者: らいパン粉

 街の至る所にある、マンホール。

 雨の日も晴れの日も、アスファルトに溶け込んで存在感はなく。

 人々は気づかず、ただそれの上を通り過ぎてゆく……。

 下水道へ行き来することが可能な縦孔。

 しかし、忘れ去られた廃虚のように静かに佇むそれは、この街の子ども達にとってはそうではなかった。

 ただの穴であるマンホールは、子ども達の豊かな想像力によって、魔の力を放つ悪魔の穴と化す。

 やれ悪魔が潜むだの、やれ殺人鬼のねぐらであるだの、マンホールに蓋がしてあるのは悪魔を封印するためだの。

 年端も行かぬ少年少女達が、益体の無い妄想を口々に言い合い議論する。

 もちろん、それらは単なる妄想なので証拠なんぞあるはずもなく。

 そのため、議論はいつも平行線のままで、都市伝説として昇華され広まることすらない。

 脆い幻想のまま、とある街のとある教室内にその幻想は揺蕩っていた。


 ♢


 タッタッタ……と薄暗い夜を駆け抜ける足音1つ。


「やべー、早く帰らないとお父さん帰ってくる」


 少年Aはそう独り言を呟きながら、学校へと続く1本道を走っていた。

 シン……と夜の張りつめた空気。

 少年A以外は誰もいない孤独の空間。

 電灯の光で照らされた1本道だけが、そこにあった。

 それ以外は全て暗黒に包まれている。

 それほどまでに、どっぷり夜に浸かっていた。

 道は砂利で覆われており、少年Aが足を動かすたび、砂ぼこりが宙を舞う。

 舞った砂ぼこりは電灯の光で乱反射し、霧のように幻想的な情景を浮かび上がらせたが、走ることに夢中な少年Aは気が付かない。


 なぜ、こんな暗くなってしまうぐらい遅い時間に学校へと向かっているのか。

 それは、授業終わりの放課後のことであった。


 ♢


 ――夕暮れ時。

 教室から差す黄金色とカアカアとうるさいカラスの鳴き声とが、授業の終わりを告げる。

 しかし、数人の子ども達は帰るのが億劫なほど、熱中していた。


 ――何に?


 それは、あのアスファルトの地面に佇むマンホールについての議論だった。

 少年Aと他、数人。

 夕焼けを背に1つの机の周りを囲み、それぞれの意見を主張する。

 ここの教室ではもう見慣れた光景。

 この中で少年Aは、《マンホール地獄入り口説》の提唱者だった。

 少年Aは主張する。

 マンホールは地獄へと繋がっている。すなわち、地獄の入り口である。

 地獄から鬼が出てこないように。人が地獄へ落ちぬように。

 蓋がしてあるのだという。

 しかし、この説はあまり支持されることはなかった。

 それは、あまりにも非現実的だったからだ。

 ちなみに、最も有力なのが《マンホール殺人鬼ねぐら説》。だそうだ。

 子ども達の議論はいつにもなく熱中した。

 子どもというのは自分の考えだけが絶対に正しいと思い込む傾向がある。

 だから、議論は一向に収束する気配は無く、今日もセンセイに「早く帰りなさい」と叱られ、渋々中断するのだった。

 そうして、帰る準備をする時もなお、少年Aは自らの主張を続けていた。

 

 思えば、これがよくなかった。

 

 自らの主張の正しさを説明するのに必死で、宿題を机の中に置き去りにしたまま、軽いランドセルをしょって校門を潜り抜けてしまったのだ。

 そうしてそのまま、砂利道に転がる小石を蹴っ飛ばすのに夢中になりながら、進んだ。

 地面に顔を向け、気に入った小石を蹴っ飛ばしながら歩いていく。

 しばらく進んでいくと、カコンと小石がナニカに当たって跳ね返った。

 見上げると、白で塗られた壁があった。

 少年Aはしばらく考えた後、思い出す。


「ああ、そうだ家に着いたんだ」


 小石を蹴るので夢中になっていた少年Aの意識は、ようやく表層へと浮かびあがり今の状況を思い出すことが出来た。

 家に帰った後のことを何となく想像する。

 靴をちゃんとそろえて脱いで、手もちゃんと洗って。

 そうしないと、お父さんに怒られるから。

 お父さんはまだ帰ってきてないと思うけど、お母さんが絶対知らせるに決まっている。

 また、言うことを聞かなかったんだ、と。

 そう言うんだ。

 それから、今日の宿題を……。


 ♢


 ……とまあそういうわけで、少年Aは慌てて宿題を取りに学校へと戻っている最中なのだった。

 少年Aは既に学校の門へとたどり着いていた。

 門越しに校舎の様子を伺う。

 校舎の灯りは完全に消えていた。

 職員室がある辺りも、真っ暗だから、本当に誰もいないのだろう。

 当然、門扉は閉まっている。

 夜はナニカ恐ろしいものが学校に現れるのではないか。

 廊下をナニカが徘徊している。

 門が閉じているのはソレが外に出ないようにしているのでは。

 一瞬、そんな思考が脳裏をよぎり、少年Aは身震いした。

 門は少年Aよりも遥かに高く、よじ登れそうもなかった。

 だが、少年Aは宿題を諦めなかった。


 ――ちっとも怖くない。

 ――この身震いは気のせいだ。居るなら居るで好都合。

 ――その正体、白日のもとに晒してやる。


 少年Aは決意を固め、ぐっと拳に力を入れた。


 少年Aには門を破る算段があった。

 よく見ると、その門の横にはインターホンがあった。

 インターホンには呼び出しボタンと1から9の数字のボタンがついている。

 少年Aはインターホンへと近づくと、記憶の中にある数字の羅列を思い出しながら、数字ボタンを一つずつ押していく。

 最後に呼び出しボタンを押すと電子音が鳴り、門は鈍い音を立てて横へ移動し始める。

 少年Aは少し驚いた顔をしながらも、辺りを見回して誰もいないことを確認し、学校へと足を踏み入れた。


「まさか、本当に開くなんて。"とねり"の奴……」


 ”とねり”とはあだ名だ。

 とねりは少年Aと同じ教室の生徒で、少年Aの親友で、そして《マンホール地獄入り口説》のライバルであった。

 とねりは裏表の激しい奴で、表向きは、センセイやコウチョウの言うことをよく聞き、色んな手伝いを進んでやる優等生だ。

 そうやっていつも、偉い人達の側にいて雑用を手伝うので、みんなから《とねり(舎人)》と呼ばれるようになった。

 しかし、裏の顔はスパイだった。

 とねりはチョコレートが大好きだ。

 チョコレートをとねりに渡すと、お礼に偉い人達からかき集めた学校の裏情報を教えてくれるのだ。

 ある日、唐突にとねりは少年Aの耳元に顔を近づけて、こう言った。


 『門を開ける方法を教えてやる』と。

 (その時、とねりはチョコレートが食べたかったのだろう)


 難なく学校への侵入に成功し、玄関口までやってきた。

 辺りは本当に暗くて、足元すらよく見えない。

 すのこの段差で躓くが、何とか体勢を戻す。


「っとと。流石にこの暗さじゃ無理か」


 そう言って少年Aは玄関口の横へ移動すると、手探りで何かを探し始めた。

 記憶が正しければ、確かこの辺にあるはず。

 手が、いくつも並んでいる冷たい鉄でできた靴箱入れに触れる。

 所々錆びているのか、ザラザラしていて嫌な感触だった。

 そのままぐっと背伸びしながら、手を上に滑らせて靴箱入れの上部の板へと伸ばす。


「あった」


 少年Aの手が靴箱入れの上にある何かに触れる。

 取っ手を握り、引き寄せて取っ手の上部についてあるボタンを押す。

 途端、少年Aの顔が暗闇の中に白く浮かび上がった。

 水筒よりも一回り半径の大きい懐中電灯だ。

 もしもの時の避難用に置いてあったそれは、少年Aの宿題を取り返すという目的のためにすっかり落ちぶれてしまった。

 しかし、当の懐中電灯はそんなこともつゆ知らず、煌々と光輝いた。

 ようやく、明かりを手に入れた少年Aは律儀に上履きに履き替えてから、廊下へ向けて進んでいった。

 普段は騒がしい廊下も、今は自分の足音しか聞こえない。

 固い床を踏みしめる度に、反響する音。

 少年Aはその音に少しだけ安堵していた。

 聴こえるのは自分の足音だけだったから。

 ここには自分以外、何もいないと感じることが出来る。

 それでも、廊下の奥の方は懐中電灯の光も届かず、奈落の底のように暗かった。


「よし」


 少年Aは少し震えた声で呟いて恐怖を振り払うかのように廊下を駆け出す。

 ここには、


『廊下を走ってはいけません』


 なんて言う人はいない。

 いくつもの教室を風のように通り過ぎ、冷えた夜の空気が耳元で唸りを上げる。

 窓からは、向かいの校舎が幽霊のように佇んでいるのが見える。

 廊下の突き当りが、懐中電灯で徐々に照らされて奈落の底が見えてくる。

 突き当りを右に進み、少年Aの宿題が眠っている教室へ向かう。

 目の前には教室のドア。

 幸いにもドアは簡単に開いた。ドアを開け放つ。

 踏みしめるたび、木の床がギシギシと音を立てる。

 躓いてしまわないように、ぶつかってしまわないように、机や壁に手を触れながら、目的へと進む。

 きっと机の中に宿題が眠っているはずだ。

 ガサゴソと机の中をあさり、手が何かの紙に触れた感じがした。


「あった」


 暗くて見えないけど、きっとこれが宿題のはず。

 そう判断し、少年Aは急いでそれを右手で取り出すとその時だった。

 懐中電灯が激しく明滅する。

 驚いて、反射的に懐中電灯を持っていた左手を大きく動かすと、影がまるで生き物のように蠢く。

 少年Aは声にならない悲鳴を上げ、そこら中の机や椅子にぶつかりながらも、教室を飛び出す。

 そのまま一目散に来た道を戻る。全速力で。

 少年Aの体を突き動かしていたのは、恐怖だった。

 "行きはよいよい帰りは怖い"

 そんな言葉すら、いよいよ少年Aの頭をよぎったのだ。

 背後から無数の手が伸びる。


「マッテ……タスケテ……」


 耳元で女の死者の声が響いた気がした。

 手の1つが少年Aのうなじを撫でる。

 ぞくっと背筋が凍り、全身の筋肉が強張る。

 窓から見える向かいの校舎がこちらをゆっくりと追いかけているような気がする。

 何人もの足音がする。何もいないなんて嘘だった。

 無我夢中で走る。横の教室から伸びてきた手に捉えられてしまわないように。


 ♢


 今、少年Aは肩で息をしながら玄関口に立っていた。

 足もちゃんと2本ある。五体満足で逃げ延びることが出来た。

 ほっと胸を撫で下ろしながら、呼吸を整える。

 辺りを見回す。

 何の変哲もない夜の玄関口。

 風が強くなったのか、冷たい風がうなじを冷やしてくる。

 懐中電灯は今も明滅していた。


「なんだ」


 冷静に考えればわかることだった。

 懐中電灯が急に明滅しだしたのは、単に電球の寿命が近づいていたから。

 教室の影が蠢くのは、光の当たる方向が変われば当たり前。

 無数の手が追ってきているのは妄想で、死者の声は耳元で風を切る音。


「全部、自分の妄想だ。これは」


 まだ、心臓がバクバクしている。

 さっさと帰ろう。そう思って少年が足を踏み出した時だった。

 違和感。

 来た時と何かが違う……。

 少年Aは心臓に手を当てながら、静かに神経を集中させる。

 音だ、音が違う。

 動きを止めて、耳を澄ませる。

 ラジオのノイズのような音が微かに聴こえる。

 この玄関口は、進むと左と右に廊下が分かれ、各教室へと繋がる構造になっている。

 少年Aが走ってきた廊下はその片側だ。

 しかし、音はそのどちらの廊下から聴こえてくるものでもなかった。


「校庭に何かあるのか?」


 少年Aは振り返る。

 実は、玄関口を左右どちらにも曲がらずに、そのまま真っ直ぐ進むと校庭に繋がるのだ。

 昼休憩時には、沢山の子ども達がこの玄関口にごった返して、校庭へと飛び出していく。

 少年Aもその飛び出していく子どもの1人だった。

 先ほどの恐怖はどこへやら、少年Aは元気に校庭へと飛び出した。

 校庭へ出た少年Aは好奇心で目を光らせながら、少し低い姿勢になり、まるで今からお金持ちの家に忍び込んで強盗をします、といった風に、そろりそろりと音の方へ進む。


 ♢


 少年Aは校舎の隅にやってきていた。

 目の前には、蓋が開け放たれたマンホールがひっそりと、陰気そうに佇んでいる。

 音の正体はマンホール内で流れる水流の音だった。

 少年Aは少し肩を落とした。


「もう、帰らなきゃ」


 しかし、ふと脳裏に良からぬ考えがよぎる。


 ――このまま帰ってもいいのか? 

 ――今ならマンホールの中に入れるんだぜ。


 少年Aはしばらく悩んだが、結局は、マンホールの方へと近づいて行った。

 少年Aが提唱する《マンホール地獄入り口説》。

 それを証明したいという欲求。

 地獄の何かさえ持ち帰ることが出来れば、きっと信じてもらえる、自慢できる。

 それに、この新発見は親にもきっと褒められるに違いない。

 そうすれば、きっとお父さんにも怒られないかもしれない。

 そう思いこんだのだ。

 このマンホールの穴から湧き出す魔の力が、少年Aの判断力をかき乱したのかもしれない。

 恐る恐る、ぽっかりと開いた穴を覗き込む。

 何も見えない。どこまでも暗闇が続いている。

 手に持っていた懐中電灯で、中を照らしてみる。

 それでも、奥の方は見えなかったが、手前に梯子があるのがわかった。


「ここからじゃ、何もわからない」


 少年Aはごくりと唾を飲み、決心する。

 懐中電灯の紐を腕に通して落ちないようにし、宿題を片手で持ったまま、マンホールに対して後ろ向きになり、片足を梯子の1段目にのせる。

 そうして、2段、3段と梯子を降りてゆく。

 そして、少年Aは地獄の窯へと消えた。

 地上にはもう、少年Aの姿はどこにも居ない。


 幻想は少年Aの想像力という魔力を得て実体化する……。


 ♢


 トンと、足が固いコンクリートの床に触れる。


「よっと」


 予想よりも早く床についてしまい、崩れてしまった姿勢を整える。

 辺りを照らすと、長い通路のトンネルがあった。

 通路の真ん中には大きな溝があり、音の正体だと思われる水が流れている。

 少年Aには何故ここで水が流れているのかわからなかった。

 だから自分の想像で補う。

 今までそうして来たように。


「もしかして、これ三途の川に繋がってるのかな」


 ――三途の川を渡り切ってしまったら戻れない。

 ――けれど、渡り切らなければきっと大丈夫だ。

 ――そう、少し見に行くだけだ。


 こうして、少年Aのトンネルの探検が始まる。

 水流が流れている方へと、懐中電灯で注意深く足元を確認しながら進む。

 そうしないと、溝に落ちて流されてしまいそうだったからだ。

 通路の幅のほとんどが水が流れる溝に占有されており、人が歩けそう部分はほんの少しだけだった。


「あっ!」


 なんとなく上げてみた声が反響する。


「電車の下を通るトンネルみたいだ」


 面白くなって、何度も声を反響させながら奥へと進んでいると、びゅうと突然音が鳴り、生臭い風が少年Aの首筋を撫で、ガタンと上の方から大きな音が鳴る。

 突然の出来事に少年Aはびっくりして、尻もちを付く。


「うわ!」


 驚いて上げた声が、先ほどよりも大きく反響する。

 まるで、空間の密閉度が高まったかのようだった。


 ――危なかった。

 ――あと少し、尻もちを付く向きがずれていたら、水の中に落ちてしまう所だった。


 少年Aは怖くなって、急いで立ち上がると来た道を戻り、梯子を登り始めた。

 けれども、いくら登っても登っても校庭には着かない。

 不思議に思って少年Aは上を見上げてみると、ひたすらに暗闇が続いている。

 懐中電灯の光を向けると、遥か彼方まで梯子が続いていた。


「なんだよこれ」


 少年Aは一度引き返そうと、足元を見る。

 そこには、闇に蠢く黄色く輝く二つの光が、あった。

 それはグルル……と低い唸り声を上げたかと思うと、梯子を登り始める。

 つまり、少年Aの方へと向かっていた。

 少年Aはすぐに分かった。

 それに捕まれば取り返しのつかないことになる、と。

 少年Aはわけもわからず、がむしゃらに梯子を登る。

 行けども行けども先は見えなかったが、先へ進むしかなかった。

 だが、正体不明の怪物の唸り声は一向に鳴りやまない。

 必死に登る。登り続ける。

 途中、懐中電灯の紐が切れ、奈落へと落ちていった。

 もう何も見えなくなって、進んでいるのかどうかさえもわからない。

 それでもあれ捕まるわけには行かない。

 しかし少年Aの体力は確実に限界へと近づいていた。

 息も絶え絶えになって、服は汗でびっしょりと濡れ、全身が痛む。

 そして、次の段に手を掴もうとした、その時だった。

 少年Aは汗のせいか、手を滑らしてしまったのだ。

 ふわっと、嫌な浮遊感と共に落ちる。

 幸いにも、落ちている途中で梯子を掴みなおすことに成功する。

 ――のだが、すぐ下に爛爛と目を輝かせた怪物が居た。

 怪物は不規則に並んだ鋭利な牙を覗かせながら、嫌らしい笑みを浮かべると、少年Aの片足を鱗で覆われた大きな腕で掴んだ。

 少年Aは絶望と共に叫び声を上げ、必死に足をばたつかせる。

 足はがっちりと掴まれていて全く抜け出せる気配は無かった。


「助けてください!助けてください!」


 泣きそうな顔になりながら、必死に怪物に向かって少年は懇願する。

 だが、怪物はその様子を見て、嘲笑うかのように唸り声を上げるだけだった。

 どれだけ駄々をこねても、もう少年Aの運命は決まってしまっていた。


 ギリリと、怪物の指が少年の足に食い込む。

 万力のような力で締め付けられた激痛で、少年Aは鼻水と涙でまみれたみっともない顔をしながら、悲鳴を反響させる。

 そして紙粘土を握ったかのように、足は呆気なく握りつぶされた。

 ぐにゃりと、少年Aの身体から力が抜ける。

 口からは泡を吹き、目は虚ろ。

 少年Aはあまりの激痛に完全に意識を失っていた。

 握りつぶされた右足は奈落の彼方へ落ち、ぐしゃぐしゃになった切断面から滴り落ちる血液が、怪物の顔を赤くデコレーションしていった。

 ついでと言わんばかりか、怪物はもう一方の足も握りつぶして運びやすいサイズにしてから、少年Aを口で加えて奈落の底へと持ち去っていった。


 ♢


 そこは悪臭漂う腐肉が幾千も捨てられた阿鼻叫喚の地下空間だった。

 蛍光灯が辺りを照らしており、その中心に、足を切断された少年Aが仰向けで置かれている。

 ピクリと、少年Aの身体が痙攣したかと思うと、その瞼がゆっくりと開かれた。

 少年Aは不幸なことに意識を取り戻してしまっていた。


「うぐ……」


 激痛で顔を歪ませる。

 何故か服は全て脱がされており、激痛があった下半身へと目を向けると、両方の太ももは途中までしか無く、その先はぐちゃぐちゃになった切断面が見えた。

 切断面からはおぞましい程の血液が流れ出ており、少年Aはだんだん気が遠くなるのを感じる。

 早く病院に行かなきゃ、と少年Aは必死の思いで体をもぞもぞと動かし始める。

 腐肉が堆積してできた地面からは、黄色や緑の液体でぬかるんでおり、少年Aが体を動かす度に、その肌を汚く濡らしていく。

 全身を汚物で塗れさせながらもうつ伏せの姿勢になることに成功した少年Aは、両手で這うようにその場から移動を始める。

 腐肉でできたぬかるみはそれなりに深く、少年Aが前に進むごとに顔へ付着する。

 ひと際深いぬかるみにハマり、少年Aの顔面が完全に汚物に沈んだ。

 両手で掻き分け何とか這い出ることが出来た少年Aだったが、鼻の中にまで入り込んでしまった汚物の激臭に、気持ちが悪くなり、胃の内容物が逆流する。


「おえぇぇぇ……!」


 びしゃびしゃと腐肉で塗れた顔に吐瀉物がかかるが、それでも少年Aは諦めることなく無心で前へと進む。

 その出血ではもう助かることはないだろうに。

 しかし、出血死ならまだ幸運な方だったかもしれない。

 少年Aが進んでいると、蛍光灯の光を遮って大きな影が落ちた。

 少年Aの頭上からはグルル……と低い唸り声。

 どこかへ行っていた怪物が戻ってきたのだ。


 それに気が付いた瞬間、少年Aは血相を変えて駄々をこね始める。


「やだ!やだ!」


 抵抗もむなしく怪物は少年Aの手を乱暴に掴んで裏返す。

 意識を取り戻した時と同じように、少年Aの背中がひんやりとした腐肉のぬかるみでひたされる。


「ひっ……!」


 少年Aと怪物の目が合う。

 蛍光灯の光によって怪物の姿が少年Aの網膜に鮮明に映し出される。

 怪物の全身は藍色の鱗で覆われており、そこから覗く二つの悪意に輝く目玉。

 鈍く光る不規則に並んだ牙を生やした口からはポタポタと涎を滴らせ、先ほどの腐臭をより濃縮したかのような悪臭を放っていた。

 怪物は少年Aの両腕を押さえつけ、無防備になったお腹に顔を近づけて、その柔らかい皮膚を舐め始める。


「何をして……るん……だ」


 少年Aは力なく言葉を発する。

 出血により意識は朦朧とし、抵抗する元気も無い少年Aは、自分のお腹が怪物の汚らしい舌で犯されていくのを見ることしかできない。

 一通り、お腹を汚し終わった怪物は、何の前動作も無く、牙をその柔肌に突き立てた。

 その行為で少年Aにも怪物が何をしようとしているか理解したらしい。

 もう、少年Aに声を上げる気も起らず、焦点の合わない瞳でボロボロと涙を流しながら最後の時を待つ。

 皮膚が怪物に食い破られる。

 臓物が血液と共に飛び出し、ちゅるちゅると、まるで麺でも啜るように内容物を食していく。

 ぽっかりとお腹に穴が開けられた少年の死体は腐肉の山の上に投げ捨てられた。


 ♢


 少年Aの行方不明騒動から、一週間後。

 下水道の点検を行っていた作業員の「蓋を開けていたマンホールが何故か閉じていた」という証言によって、下水道の探索が行われた。

 最初に見つかったのは、マンホールを降りてすぐの所に落ちていた、割れた懐中電灯。

 懐中電灯と付近の地面には、正体不明の緑色の液体が付着しており、液体はトンネルの通路の奥へと続いていた。

 下水道の奥からは、少年Aのものと思われる小さな遺体が溝の引っかかっているのが発見された。

 恐らく、ここまで流されてきたのだろう。

 死因はおそらく溺死。

 右手には何故か学級新聞がくしゃくしゃに握りしめられていたという。

 その事件が発覚した後、とある教室内でマンホールについて話す者は、もういなかった。

 放課後、センセイが「早く帰りなさい」と言うことも無くなった。

 少年少女達は下水道に居る"ナニカ"を恐れている。

 果たして、少年Aを襲ったのは悪魔か、殺人鬼か。

 それとも……。

 机の中で少年の帰りを待っている宿題の紙切れ。

 今日もマンホールはひっそりとそこに佇む。

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