5. 天色の名前は
そんなこんなで、互いにシナから仕事を貰ってから早くも数日が経った。湊は出て行くそぶりも見せなければ、むしろビルに帰ってくる俺を「おかえり」と出迎えるくらいだった。その間何をしているのかと不思議に思っていたが、部屋の隅のダンボールの中身が徐々に増えていくのを見る限り、内職の仕事を進めているのだろう。……中身の完成品は正直言ってヘタクソだ。このまま納品しても大丈夫なのか? 本人は満足げに作っているけどよ。
そして湊は自分の能力をいいことに、俺に蹴られようが何をされようが変わらずの態度で接してきた。リアさんもしかして朝弱い? 夜型生活直した方がいいよ、とか。ご飯とかもちゃんと食べてないでしょー、あー待ってそれ美味しそう私にもちょうだい、とか。何だこいつと引く程度にはかなり話しかけてくる。その度にうるせえ、てめえには関係ねえだろ、と返していた。本当によく喋る奴だ。
俺と彼女は共同生活、とも言えない、歪な関係が出来上がってきていた。
とある夜のこと。俺はソファの上に寝転がって、湊は床に座り込んで、内職の仕事を続けていた。
時々「あ、こことここをくっつけるのね」「……あれ。何か予想してたのと全然違う」とかなんとか聞こえるから、やはり彼女は手先が不器用なのかもしれないと思い始めたところだった。
「リアさん」
不意に名前を呼ばれて俺はそっちの方を向く。資材と格闘しながら湊は言った。
「リアさんさ、私のことあんまり好きじゃないよね。なのに追い出さないのは多分何かしようとしてるんだと私は思ってるんだけど」
こちらを見ずに手元だけを見て彼女は続ける。
「私一方的にお願いしてるだけだし、もし、リアさんが私の側に置いて欲しいって願いに頷いてくれるんならね。私リアさんの言うこと全部聞くよ。今の私にできるのってそのくらいしかないしね」
うまく出来た、と呟いて資材から手を離した湊。
交換条件かよ。考えたかもしれねえが――。
「んな条件付けて俺が頷くとでも思ってんのか?」
「正直NO。んーでも気の少しは向いてくれるかなって期待してる」
「淡い期待だな」
馬鹿らしい。俺は再び目を閉じて足を組み直す。
「てめえにやることなんぞ、きっと研究施設でやることと同じだぞ」
「薬入れるとか? 実験道具、にはしないでしょ」
「塩酸ぶちまけてやろうか」
「それは前やられたよ」
経験した、という予想外の彼女の言葉に、開きかけた口は自然と閉じる。
俺が思う以上に、こいつはいろいろとやられたことがあるのかもしれない。
「……だから大抵のことは怖くない」
どこか悲しげに笑う湊。俺はしばらく彼女を見た後、立ち上がって彼女の側に寄る。
「それ、マジで言ってんのか」
「うん」
「へぇ?」
恐怖という感情が人から消えることは無い。何があっても心の奥に恐怖は存在するものなんだよ。大抵のことは怖くない? ……よく言うぜ。
キョトンとして頷く彼女に、俺はニヤリと笑った。すると湊は軽い調子で言う。
「試してみる? あ、でも待って痛いのは心の準備が」
「安心しろよ。痛くねえから」
痛くはな。
影から引っ張り出したカードとナイフを持つと、湊の隣に膝をつく。そして片手でナイフを掴みなおし、まず自分の腕にそれを走らせた。
「えっ!?」
素っ頓狂な声を上げる湊。
数秒後には俺の腕から赤い血が流れ出した。つー、と腕を伝って赤い雫が床に落ちる。
「リッ、リアさん……っ!?」
突然の俺の行動に湊は目を白黒させる。こいつ反応はすげえ面白いんだよな。
彼女は俺の腕を取ろうしたのか手を伸ばしてきた。その手を逆に俺は掴み取って引き寄せる。互いの顔の距離が一気に縮んで――青い目がこちらを見た。驚きと困惑の混じった青だった。それでもその青は美しく、綺麗な色だった。水の様に澄んだ色だった。
そんな綺麗な色は、かき混ぜてぐちゃぐちゃにしてやりたい。何の色か判断がつかなくなるくらいに。この手で、俺の手で、目の前の少女の色を乱してやりたい。
「ち、血が出てるよリアさん」
「うるせえ、知ってんだよそんなこと」
「あと顔近いよ」
「それも知ってんだよ。黙れよ」
「え、あ、えっと――」
彼女はあたふたして、一瞬こちらから目を離す。それを見逃さなかった。
「……どんな顔でてめえは苦しむんだろうなぁ」
「え?」
呟いた俺の言葉で再びこちらに視線を戻した湊に、俺は自分の唇と相手の唇を重ねた。
「んっ――!?」
驚きからの彼女の声が漏れる。カードを持つもう片方の手を彼女の頭に回し、深く口づけを交わしてから顔を離した。
「え……? り、あさん……?」
顔を真っ赤にさせた湊は、何が起こったのか分からないのか、目を丸くさせてこちらを見る。
片方の手は彼女に触れたままだった。カードもその手に持ったまま。
「しばらく「貰う」ぜ」
一言、彼女の目を見て呟いた。すると一瞬の間の後に湊は耳を押さえてその場にうずくまった。直後に小さな背中は震え始め、荒く息を吐く音がこちらの耳に入ってくる。
「あ……っ、や、やだ、やだやだやだぁっ!!」
泣き出してしまいそうな声で湊は叫ぶ。俺は腕から溢れ出し続ける血をそのままに、その様子を見て笑う。――成功だ。
「や、だ、やだよぉう……!! やめて、やめてぇっ!!」
こちらの存在を完全に忘れているように、彼女は壊れたように悲痛な声を上げていく。
――奪ったのは、聴覚と視覚だった。
――与えたのは、彼女を傷付ける言葉を放つ幻聴と、ただただ黒い闇の幻覚だった。
精神的な苦痛を与えるカードの効果だった。自分の傷も、さっきのキスも。発動条件を満たすためにやったことだった。
「大抵のことは怖くねえだと? てめえそんなもん晒して何言ってんだよ。苦しめよ。嫌なこと全部思い出してもっと苦しめよ!!」
何も怖くないなんてことはねえのに、何でそんな嘘をつくのかが分からねえ。むしゃくしゃする。弱っちい盾を構えて自分は平気だとほざいてるヤツが一番頭に来る。
やだ、嫌だやめて、もう嫌なの、と耳を塞いで首を横に振り続ける彼女。頭を掴んで軽く上に向ければ、その目からはボロボロと涙が溢れ出ていた。いつもの目とは明らかに違う、恐怖に支配された色だった。
そうだ、そういう歪んで強ばったものが見たかったんだ。
「苦しんで、もがいて、あがけばいい。無様に抵抗してみればいい。ハッ、きっと無理だろうがなぁ!?」
物理的に治せても、きっとこういったものには彼女は耐えられないだろう。治せるのは壊れた生きたもの。心も壊れる生きものって言うなら壊れる寸前で手を止めてやる。それで治されたその心を、また極限まで苦しめてやる。
「……まえを……!!」
「……あ?」
苦しみながら、彼女は何かを懇願するように言う。
「名前を……っ、呼んで……!! やだ、私、そんな、数字が名前じゃないの……ッ!! やだよ、やだよぉっ」
――名前で呼んでくれないんだね。
以前、そんなことを言われたのを思い出した。
『呼ぶ必要性がねえからな』
『私あんまり名前で呼ばれたことないんだ』
『だから何だ? そんなもんただの言葉だ。意味を無くせば誰かを指す言葉でしかねえよ』
『そんなことないよ。意味を無くしたって、また自分で意味を作ればいい。名前ってすごく大事で、大切なものなんだよ』
それが初めてだった。彼女がはっきりと、自分の意見を述べたのは。でもそれ以上彼女は深く言わず、『だから私はリアさんが嫌だって言っても名前で呼び続けるからね!!』といつもの笑みでそう言って話は終わった。
「……」
馬鹿じゃねえの。そんなこと言ったって俺は。
「……呼ばねえぞ」
呼んだら、彼女が自分の側にいることを認めてしまうことになりそうだから。自覚してしまうことになりそうだから。
「うるせえよガキ。何でそんなに名前に拘ってんだ? 何がてめえをそれで縛ってんだよ」
分からねえ。何もかも全部。彼女の気持ちも理解できねえ。
何故俺の側を離れないのかも、分からなかった。
「……でもな、そんなこと今はどうだっていい」
終わりの見えない幻覚と幻聴に浸かって沈めばいい。俺の目的は心壊れる寸前まで苦しめ、彼女の目を歪ませること。それが何よりも、楽しいという感情が苦しみに変わる瞬間が何よりも見ていて楽しいんだ。
「まだまだ序の口ってもんだぞ、おい」
泣き叫ぶ彼女の様子を、カードの効果が切れるまで、俺は笑ってじっと側で見つめていた。