1. 影の紅と再生の露草色
真夜中。とある裏路地にて。
「どいつもこいつもほんっとに弱っちぃな」
地に伏し動かなくなった「人間」だったものを蹴りとばし舌打ちを一つ。大人数で襲いかかってきた割にはこれだ。
本当につまらねえ。せめてもう少し耐えられねえのか?
「あーくそ胸糞わりぃ。こんなんじゃ全然楽しくもねえ……」
相手からふっかけられた喧嘩は買う主義だ。でもこうも簡単にあっけなく終わってしまうと全くもって面白みを感じない。欲しいのは相手の苦痛に歪んだ表情と、叫び声と。希望が絶望に変わった瞬間のあの目だ。
――今回はハズレだな。
頭をぐしゃぐしゃと掻いてから、その場に背を向けて歩き始めようとしていた時だった。
「――ッ!?」
誰かが、息を呑む音が聞こえた。
「な、何これ……」
後ろを見ると、口を手で押さえてへなへなと座り込みかけたポニーテールの少女が一人。目には動揺と困惑の色が入り混じっていた。
なんでこんな真夜中に女が。家出か? 襲われてえのかこいつ。訝しげに俺は少女を見た。
すると彼女と視線がぶつかる。こちらの汚れた服や赤く染まった手などを見て、彼女は微かに震え、首を横に振ってみせた。きっと逃げようとしているのだろうが足がすくんでいるらしい。彼女は何とか立ち上がろうとするもののその場に尻餅をついてしまった。
「ちょ、ちょっと待って。ストップ。ね? やめてよ、怖いの嫌いなの」
必死に懇願する少女。それを見て俺は思わず笑みが零れる。
ああそうだ、そういうのが見たかったんだ。
少女の懇願もよそに俺は彼女の方に向かって歩き進める。彼女の眼前までくると、俺はしゃがみこんで視線を合わせた。相手の目は綺麗なエメラルドブルーの色をしていた。この目が、色が、どう歪んでいくのかが楽しみで仕方なかった。
「ほ、ほんとだめだって、やめ」
「うるせえよ」
彼女の言葉も無視して、俺は彼女の首元に素早く手をかける。両手に手を込めればぐぐもった声が彼女の口から漏れた。見る見るうちに彼女の表情は歪んでいく。
この瞬間が何よりも楽しくて楽しくて。だからやめられねえんだ。
片手を離すと相手はほんの少し安心したような表情を見せた。しかしそれはすぐにまた恐ろしさからか歪んでいく。離した俺の片手に、漆黒の鋭利なナイフが握られたのを見たからだろう。
「うぉらよっと」
「ッ!?」
俺は躊躇いも何もなしにそのナイフを彼女の腹部に突き立てた。首から手を離すと彼女は激しくむせこみ、そして痛みに耐えきれず悲鳴をあげようとする。すかさず俺はその口を手で塞いだ。ここでまた誰か来ちまったら面倒だ。
「てめえはただ通りかかっただけだからよぉ。殺しはしねえよ。どーだよ痛えか? その顔どこまで歪むんだ? あぁ?」
ボロボロと少女の目から涙が溢れてくる。潤んだ目がやめてくれと訴えてきているのがよく分かった。チッ、と軽く舌打ちをして、俺は少女を見る。そしてゆっくりとナイフを引き抜いて立ち上がる。
どさりとその場に少女は倒れ込んだ。すぐに腹部から地面に血の海ができあがる。上手く息ができないのか、震えながら肩を揺らし、蓋がなくなった口から必死に息を吐いていた。目から溢れる涙をどうにもできないまま、彼女はこちらを見上げた。
――そういう目を向けられると更にめちゃくちゃにしたくなる。
「……何を期待してんだよ」
馬鹿かよ、と呟いてから薄く笑った。恨むなら恨めばいい。ここで俺を見てしまった自分の運の無さを。
力まかせに彼女の腹部を蹴り飛ばす。うぐっ、とこもった声が聞こえた。
「殺しはしねえっつったけど、これじゃ殺しちまいそうだな」
既に彼女は目を半分閉じかけていた。意識を手放そうとする瀬戸際だろう。にしてもよくここまで耐えられたな。普通ならもっと早くくたばってるだろうに。
でもまあ、あの青い目を歪められたことだけで満足できた。――動かなくなったものに興味はわかねえ。
くるりと背を向け、地面に出来た真っ黒な影の円に俺は身を溶かす。
そして次に目を開けた時には、生活の拠点としている廃ビルの前に俺は立っていた。服についた血しぶきも何もかも無かったかのように着ているものも綺麗になっている。こういう点はとても便利だった。何せ影でどうにかできてしまうのだから。
何だか今日は一段と疲れた気がする。さっさと寝ちまおう。
あくびをひとつしては、中に入ろうと扉に手をかける。
「ちょっと!! 痛かったんだからね、どうしてくれるの!!」
いきなり後ろから飛んできたのは聞き覚えのある、というか今さっきまで聞いていた少女の声だった。
いやまさか。あそこまで傷を負って動けるはずがねえ。っつーか何でここにいる!?
俺は手の動きを止め後ろを勢いよく振り返る。そこにはたしかに先程の少女が腕を組んで立っていた。彼女の服は腹部を中心にして汚れている。傷は一体どうしたってんだ?
「こんなか弱い女の子をキズモノにするなんて許さないんだから!!」
「……」
刺した張本人を目の前にして、ここまで勢い良くできるのは果たしてか弱いと呼べるのか。いや呼べねえだろ。
「とにかくっ、やられたからやりかえすっ!! くーらーえっ!!」
少女は拳を作ってそれをこちらに放ってきた。うおお!! とかなんとか勢い付けてくるが、それはなんてことない普通のパンチだった。パシッと片手で受け止める。速さで威力を増しているだけで、受け止めるのも容易だった。
「えっ? あれ?」
呆気にとられた表情を浮かべ、青い目を瞬かせて少女はこちらを見る。
「てめえ、正真正銘の馬鹿なのか?」
ため息混じりに言ってやれば、俺はその受け止めた手を一度離し、その先の手首をつかみ直してはこちらに引き寄せた。
「傷を負わせた張本人を追ってくるなんていい度胸してんじゃねえか。どうやって来た」
「え……え、あっ、えっと。あの、穴が、黒い穴があったからその。追っかけてみたらその」
「へえ、なるほど?」
随分と後先を考えないタイプだな。手首を掴む手に力を込めれば、彼女は一瞬顔を歪ませた。
「傷はどうした。腹の傷は?」
最も気になっていることを問いかける。倒れて呼吸すらまま無かったってのになんでそうもピンピンできんだよ。
「私傷受けても平気なんだよね」
「あ……?」
傷を受けても平気? 何を抜かすんだこいつは。
「えっとほら。見て」
そう言って彼女は自分の服をめくって腹部をこちらに見せる。そこには傷はおろか傷跡さえ見られなかった。
傷を負ったことを無かったことにされた? そういう能力か。……違う。それなら服の汚れもないはずだ。となると。
「チッ……自己再生能力か」
「そう!! あったり。だから私は今こうしてピンピンできてるってわけ痛い痛いだからってそんな強く握らないでよ!!」
まさかこんな非力なやつがそんな力を持っていたとは。驚くこともあるもんだ。いつの間にか手に込める力はさらに強くなっていたらしい。ぎゃあぎゃあと少女は騒ぎ始めた。
――裏路地で会った時の方がか弱いという言葉が似合っていたような気がする。
「で? か弱い女の子さんよぉ。追っかけてきてどーすんだ。俺に仕返しか? この程度の拳しか出せないのによ。それともなんだ。もっと刺して欲しいっつーマゾなのか?」
相手の顔と自分の顔の距離は短い。至近距離で彼女の目を睨みつける。
「……あなたの目紅いんだね」
「はあ?」
全くもって見当違いなことを言ってきた。さっきからこいつは何を言ってるんだ。
「髪もそう。赤っていうより紅? うーん、そこら辺よく分かんない。まいっか。そうね、えーと。……あ、じゃあ。お願いがあります」
手首を掴まれたまま青い目はこちらを見続ける。真っ直ぐなその瞳は確実に俺の目を捉えていた。そして言う。
「私をしばらく側に置いてくれない?」