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小話 心のレシピ! 海軍カレー

2027年1月22日(金曜日) アナン大陸東の海上 「おが」 艦橋


 この日、リヴァイアサンの戦力評価を終えた1隻の巨大な艦が、ホムンクルス王国からエルムスタシア帝国の港街クルボッサに帰還する為、アナン大陸の海岸に沿う様にして海上を進んでいた。しまばら型強襲揚陸艦の2番艦である「おが」の艦橋に1人の男の姿がある。彼の名は安東佳季、「おが」の艦長を勤める一等海佐だ。


「・・・はあ〜」


 クルボッサへ帰る道の上、安東一佐は冴えない顔で大きなため息をついた。しかし、暗い顔をしているのは彼だけではない。周りを見れば、艦橋に勤務する隊員たち全てが冴えない顔をしていた。


(・・・シーホーク(SH-60K)が2機、中破と大破。上に何て報告すれば良いのか)


 彼は再び大きなため息をつく。彼らの顔が冴えない理由は、昨日にホムンクルス王国沖にて行った「リヴァイアサンの戦力評価」の為であった。

 後に行われる予定の「リヴァイアサン討伐作戦」の前座として行われたこれは、その名の通り、彼の怪物の能力を測るためのものだった。故にはじめは戦闘を行う予定では無かったのだが、予想以上のスペックを見せたリヴァイアサンに対して応戦するしか無くなり、結果としてシーホーク(SH-60K)2機を大きく損壊、さらに3名の負傷者を出してしまったのだ。

 これらの事実は「おが」の隊員たちの心に「敗北」の2文字を深く刻み込んでいた。彼らの気分が塞ぎ込んでいたのはその為だ。


「・・・あまり暗い顔ばかりしないで下さいよ」


 航海長の園部陽子二等海佐は、場の雰囲気を少しでも和らげようと、艦長の安東一佐に話しかける。その後、彼女は別の話題を振る。


「今日は金曜日、皆が楽しみにしているあれ(・・)の日ですよ。お腹が満たされれば多少気分も晴れますよ」


「・・・!」


(そうか! 今日は海軍カレーの日か!)


 安東一佐の心中に一筋の光が差し込んだ。その後、食事を摂る為に士官室へと向かう彼の足取りと心は、一際軽いものとなった。


 「海軍カレー」とは大日本帝国海軍の時代より続く、海上自衛隊の伝統行事である。元々隊員の栄養確保、及び長い航海の中で失われてしまう曜日感覚を取り戻す為に土曜日にカレーを振る舞うようになったのがその始まりであり、週休2日制が施行されて以降の現在の海上自衛隊の各艦では金曜日にカレーが振る舞われることになっている。

艦ごとにその味を競い合う催し物が開かれることもあり、その艦ごとの味とレシピはまさに艦に勤務する給養員たちの”誇り”なのだ。

 その中でも「おが」の海軍カレーは他の護衛艦とは一味違う。この艦の海軍カレーは「海軍割烹術参考書」に記されたレシピを元に、ルーを使わずにカレー粉から作る旧日本海軍の海軍カレーを、一部オリジナルを加えながら再現しているのだ。




「おが」 隊員食堂


 航海科の隊員たちは昼食をとる為に艦橋から降り、テーブルの椅子に座って手を合わせる。腹を空かせた彼らの目の前にあるのは、白米の上にかけられ、美味しそうな香りを放つ「おが」特製カレーであった。


「いただきます!」


 食堂に声が響く。直後、隊員たちはスプーンを手に取り、目の前のカレーにがっつく。 


「・・・ウンマい!」


 隊員たちは自分たちが乗る艦が誇る海軍カレーの味に舌鼓を打っていた。カレーの香りと味が疲労した心と体に染み渡る。


「身内贔屓もありますが、やはり僕は『おが』のカレーが1番美味しいと思うんですよね〜」


「俺もそう思う! やっぱりルーを使わない、オリジナルのカレーって言うところが大きいんじゃないか」


 航海員の二木健祐海士長と、彼の上司で航海士を務める小牧江利介二等海尉は、「おが」の海軍カレーを惜しげ無く褒め称える。その後も各部署の隊員たちが隊員食堂に続々と入って来ていた。そして多くの人々が食事を楽しむ中、彼らとは一際異なる感動を覚えている者がいた。


(・・・これは! 何たる美味しさ!)


 彼の名はレンティス=オルファクトリー、此度の「戦力調査」において、エルムスタシア帝国政府よりホムンクルス王国への案内役兼観戦武官として「おが」に派遣された外交庁の副長官だ。


「これほど美味なるモノを艦の中で食べられるとは・・・!」


 外交庁の高級役人である彼は、普段より一般の民よりは良いものを食べているという自負があった。しかし今、目の前にあり、本来ならば兵士用の食事として出されているはずのそれは、今まで自分が食してきたものが霞むほどの美味を誇っていたのだ。


ガタッ!


「・・・?」


 感動で気持ちが高揚していたレンティスはいきなり立ち上がる。白い翼を持つ男の奇行に、隊員食堂で食事を取っていた隊員たちの視線が集まる。


「これを作ったのは! 一体、どなたなのですか!?」


「・・・!?」

「な・・・何だ?」


 「おが」の隊員たちは食堂の中で叫ぶ客分の姿を目の当たりにして、唯々困惑していた。


・・・


同日 夜0:20 「おが」司厨


 艦内編制の一翼である”補給科”、その中でも給養員と呼ばれる隊員たちは、日夜艦内の多忙な職務・訓練に明け暮れる隊員たちの胃袋を支える重要な存在である。海上自衛隊が保有する艦艇の中でも、最多数級の人員を擁する艦種である「しまばら型強襲揚陸艦」の1つである「おが」の給養員たちは、朝昼晩それぞれ1000食、計3000食以上に達する隊員たちの食事を、手を休めることなく早朝から夜遅くまで作り続けているのだ。

 現在、彼らは夜間勤務の隊員たちの為におにぎりを作っているところだった。夜間当直の隊員たちが時折食堂を訪れては、おにぎりを2,3個持って行く。給養員長である武藤哲夫海曹長は、そんな彼らの様子を見ながらおにぎりを作り続けていた。


「・・・ここは厨房。いくら貴方が客分とは言え、部外者にそう易々と入って来られては困ります」


 武藤海曹長の視線の先には、清潔第一の司厨に白く大きな翼を携えて入って来た1人の人面鳥族の男の姿があった。


「今宵は貴方に大事な要件があってここを訪ねました。ご無礼を申し訳ありません」


 「おが」に客分として乗船しているレンティスは頭を下げる。


「・・・? 要件・・・ですか、俺に?」


 レンティスの言葉を聞いて、武藤は頭上に疑問符を浮かべる。観戦武官である彼が補給科に属する自分に何の用事があるというのだろうか。


「私・・・本日の昼食と夕食に感激致しました。あの”カレー”という名の料理に・・・。後に、他の兵士の方々に尋ねれば、貴方がこの艦の司厨長だと伺いました」


 レンティスは「おが」の司厨を訪れた経緯を語る。すると彼は膝を床に付け、まるで土下座をするような体勢をとった。


「!?」


「どうか、私に”カレー”の作り方を教えて下さい!」


「・・・え?」


 異世界のお役人の口から放たれたあまりにも突飛なお願い事に、武藤はしばしの間、思考がフリーズした。


「・・・ええっ!!?」


 武藤の体を衝撃が駆け抜ける。直後、彼ら2人と同じく司厨にいた給養員たちの声も相まって、深夜の司厨に大きな叫び声が響き渡る。


「え、え! しかし・・・」


「お願いします! どうしてもあの味が忘れられないのです!」


 困惑する武藤に対して、レンティスは懇願の態度を崩さない。そんな彼の姿を見て、武藤は彼の頼みを聞くことの是非を悩んでいた。


(・・・まあ、我が艦のレシピは一般に公開されているし、かまわないか)


 結論を出した武藤は、興奮気味のレンティスを落ち着かせるような口調で彼に語りかける。


「・・・分かりました。今回は特別です。カレーの作り方を指南致しましょう」


「・・・!」


 武藤の言葉を聞いて、レンティスの表情が明るくなる。


「ありがとうございます!」


 レンティスは再び頭を下げる。他の給養員たちが事態を見守る中、ここに給養員長の武藤哲夫海曹長による、“深夜の特別カレー教室”の開講が決まったのだった。




「おが」 厨房


 武藤海曹長はエプロンを自身の体に掛けながら、鋭い目線でレンティスに語りかける。武藤海曹長の傍らには、羽が飛び散らない様に翼を大きな布で覆い、前にはエプロンを付けた人面鳥族の姿があった。


「・・・教えるからには厳しくいきますよ」


「よろしくお願いします・・・!」


 レンティスは再び武藤海曹長に頭を下げる。彼ら2人の目の前には、「おが」特製カレーを作る為の材料が並べられていた。


〜「おが」特製カレー(5〜6人前) 材料一覧〜


カレー粉 大さじ6杯

馬鈴薯 500g

人参 300g

玉葱 400g

トマト 400g

小麦粉 大さじ3杯

牛肉 600g

牛脂 70g

ガラムマサラ 50g

ブイヨン 1,200cc


「まず素材の下ごしらえから行います」


 武藤海曹長はピーラーを手に取ると、馬鈴薯に手をのばした。


「レンティス殿は人参の用意をお願いします。皮はこれを使うと容易に剥けますよ」


 武藤海曹長はレンティスにもう1つのピーラーを手渡した。その後、レンティスは彼の作業を真似しながら、ピーラーの刃を人参の表面に当てて皮を削り取る。


(おお・・・! これは便利だ!)


 レンティスは日本の調理器具にちょっとした感動を受けていた。その後、素材の皮むきを終えた2人は次なる準備へと入る。


「次は人参、馬鈴薯、牛肉をさいの目状に切り、牛肉には塩こしょうをまぶしてからよく馴染ませます。玉葱はみじん切りにします」


 武藤海曹長は包丁を持つと、先程レンティスが皮を剥いた人参に手を伸ばす。給仕歴10年の熟練した手つきによる軽快な包丁さばきの音が夜の司厨に響き渡る。


「レンティス殿はトマトの準備を。十字の切り込みを入れて鍋で茹で、茹で上がったら、お湯を切った後に皮を剥いて、中の種を取り除いて、適当な大きさに切ってください」


「はい!」


 武藤海曹長の指示を受けたレンティスは、ボウルに盛られたトマトへ手を伸ばす。その後、彼は武藤海曹長のレクチャーを受けながら、各トマトの下に包丁で切れ込みを入れ、初めて目にする電気コンロや普段滅多に行うことのない調理作業そのものにやや苦戦しながらも、トマトの下ごしらえを終える。

 

「これで下ごしらえは完了です」


 武藤海曹長は第一段階の終了を告げる。2人の前には、下ごしらえが終えられた具材たちが並んでいた。


「では次に、カレーの肝であるカレー粉の調理、すなわちカレールーの作成に入ります」


 武藤海曹長はそう言うと司厨の脇にある棚に向かい、その中から1つの容器を取り出して来た。その蓋を開けると中に茶色い粉が入っていた。


「これがカレーの根幹を成す調味料の”カレー粉”です。数十種のスパイスから成る混合調味料で、我が国では主に食品企業が製造しております。こればかりは我が国から輸入する他ありません・・・」


「・・・そうですか、残念ですね。貿易体制が整うまで故郷でカレーを作れないとは」


 エルムスタシア帝国でカレー粉をを得るには、日本国との正式な交易の開始を待たなければならない。そのことを知ったレンティスは残念そうな表情を浮かべた。彼の表情を伺っていた武藤海曹長は1つの提案をする。


「10人分ほどで良いなら、下船時に差し上げましょうか?」


「・・・是非お願いします!」


 レンティスは一際嬉しそうな表情を浮かべながら、武藤海曹長の申し出に感謝した。


「ただ1つ・・・カレー粉は常温ではそれほど長持ちするものではありません。なるべく早期に消費してくださいね」


 武藤の忠告を聞いて、レンティスは深く頷く。その後、カレー粉の説明を終えた武藤海曹長は次に、それとは別の5種のスパイスを取り出した。


「これらのスパイスの名は右から”シナモン”、”クローブ”、”ナツメグ”、”胡椒”、”ローリエ”と言います。これら5つのスパイスについては、名を変えてこの世界でも存在するそうです。そしてこれら5種のスパイスを混合したものを”ガラムマサラ”と呼んでいます。カレー作りに必須のものではありませんが、これを加えることにより、カレーの香りがより引き立ちます」


「成る程・・・」


 レンティスはメモを取りつつ、武藤海曹長の説明に対して真剣に耳を傾けていた。その後、彼はフライパンをコンロの上に乗せる。材料の1つである牛脂を左手に握りながら、カレー作りの第二段階であるカレー粉の調理について説明を始める。


「まず、このように牛脂を敷いたフライパンの上に小麦粉を加えて、焦がさない様に丁寧に炒めます」


 武藤海曹長はヘラで小麦粉をかき回しながら説明を続ける。レンティスは説明に頷きつつ、脇からフライパンの様子をじっと眺めていた。数分後、炒められた小麦粉はまさに小麦色となっていた。


「頃合いになったところでカレー粉を加え、香りを引き立たせるガラムマサラを加えます」


 武藤海曹長はそう言うと、小麦粉の上にカレー粉大さじ6杯に加え、先程レンティスに見せた5種のスパイスを調合したガラムマサラをフライパンに投入した。その後、ブイヨンを少し加えることでカレールーにとろみを付けると、一旦火を止める。


「ここまで来たらついに最終段階・・・、全ての具材と材料を鍋の中で1つにします」


「はい!」


 ここまでで1時間半ほど続いていた料理講習は、ついに最終段階の仕上げに入ろうとしていた。


「まず鍋の底で先程みじん切りした玉葱を炒めます」


 武藤海曹長は牛脂が敷かれた別のフライパンに玉葱を投入した。


「玉葱は初めは強火で炒め、しんなりしたところで弱火にし、狐色になるまで弱火で炒めます。その後は牛肉、そして人参、馬鈴薯の順に具材を加えていきます」


 彼は玉葱を焦がさないように、手首を返しながらフライパンの上の玉葱を炒めつつ説明する。十分後、狐色になった玉葱の上に牛肉を加えたところで一旦火を止め、レンティスに次なる指示を出す。


「レンティス殿はブイヨンの用意をお願いします」


 武藤海曹長はそう言うと、先程カレールーにとろみを付ける為に少しだけ入れたスープを指差した。


「あれが”ブイヨン”です。作り方は色々とあるのですが、この艦では牛骨を煮込んだ出汁をブイヨンとして使っています」


 武藤海曹長はブイヨンについて説明する。ちなみにブイヨンとはフランス語で、スープのベースとなる出汁のことを言う。


「あれを別の鍋を使って温めてください」


「分かりました!」


 レンティスは講師の指示通り、ブイヨン1,200ccを張った鍋をコンロにかける。使い方に苦慮した一度目とは異なり、慣れた手つきで電気コンロを灯した。その後、武藤海曹長の方も再び電気コンロを着け、フライパンで炒めていた肉に焼き目が付いて来たところで人参と馬鈴薯を加えた。肉と野菜の焼ける音と美味しそうな臭いが深夜の司厨に響き渡る。


「ブイヨンは煮立ちましたね・・・。ではこの中に全ての具材を投入します」


 武藤海曹長はフライパンで炒めていた玉葱、人参、馬鈴薯、牛肉を、ブイヨンが沸騰していた鍋の中に入れる。


「このまま弱火で20分ほど煮込んだところで、カレールーを加えます。その後、トマトを加えて一通りの作業は終了です」


 武藤海曹長はこの後の進行について述べる。そして20分後、ブイヨンで煮られた具材たちは良い具合に柔らかくなっていた。


「そろそろですね・・・」


 壁掛け時計で時間を計っていた武藤海曹長は、カレールーが乗ったフライパンに手を伸ばすと、煮立ったブイヨンスープの中にカレールーを流し込んだ。すると、透明の野菜スープに近かった鍋の中が、瞬く真にとろみのあるカレーへと変化する。

 その後、ヘラでかき混ぜながら煮込み、最後の具材であるトマトを投入して更にかき混ぜる。そしてまたしばらく煮込むと、スパイスに加えてトマトの風味が辺り一面に漂う。


「この香り・・・これで完成ですね!」


 レンティスは意気揚々としながらカレーの完成を心から喜ぶ。しかし、武藤海曹長は首を横に振りながら、彼の言葉を静かに否定した。まだ最後の一手間が残っていたのである。


「・・・いえ、まだ完成ではありません。これには”隠し味”が加えてありませんから」


「・・・隠し味?」


「そうです。それを加えることで『おが』カレーは完成に至るのです」


 武藤海曹長はそう言うと、調理台の上の棚へと手を伸ばした。彼が棚から取り出したもの。それは真っ赤な果実だった。


「最後にこの林檎をすり下ろしたものを入れれば完成です。ではレンティス殿、最後の行程は貴方の手で行ってください」


 武藤海曹長は彼にすり下ろし器を手渡した。レンティスは最後の工程を任されたことに感激しながら、最後の一手間を加える。


「これで完成です。お疲れ様でした」


「・・・ムトウ殿、ありがとうございます」


 講師としてカレーの作り方を指南してくれた武藤海曹長に対し、レンティスは頭をさげて感謝の言葉を述べた。




隊員食堂


 調理を終えた武藤海曹長とレンティスは、隊員食堂のテーブルに向かい合うようにして座る。2人の前には先程作ったカレーライスがあった。白米の上に贅沢に盛りつけられたカレールーは、芳醇な香りを惜しげ無く放っている。


「どうですか、ご自身も調理に参加したカレーのお味は?」


「・・・とても、美味しいです!」


 武藤海曹長の問いかけに、レンティスは少しばかり涙目になりながら答えるのだった。


〜〜〜〜〜


後日 エルムスタシア帝国 首都エリー=ダレン レンティスの屋敷


 エルムスタシア帝国の首都エリー=ダレンの中心街に位置するレンティスの屋敷では、使用人たちが屋敷に関する業務の為にいつも通り早起きをしていた。レンティスとその家族たち、すなわち屋敷の住人たちはまだ、深い眠りについている。そんな中、屋敷で働く使用人の1人で、若いメイドのグレノは、水汲みの為に屋敷の厨房の裏にある井戸へ向かっていた。

 井戸は厨房を突っ切って行った先の裏戸の向こうにある。グレノは裏戸へ向かうために、厨房へ足を踏み入れようとしていた。その時、彼女はある違和感を覚えた。


(厨房に誰かいる・・・?)


 まだ誰も居ない筈の厨房から、物音が聞こえて来たのだ。明らかに人が居る気配がする。もしかして泥棒か何かだろうか、グレノはそんな心配を抱きながら、いざとなったら逃げられる体勢を取りつつ厨房を覗き込む。


(あら・・・? 良い臭い)


 厨房から漂う芳醇な香りが彼女の嗅覚を刺激した。どうも泥棒ではない様子だ。


(コックが何か作っているのかしら?)


 すでに警戒心が薄れていた彼女はそんな予想を立てつつ、厨房で料理をしている人影に話しかける。


「誰か、そこで料理をなさってい・・・!!?」


 言葉の途中でグレノは驚愕した。そこに居たのは、厨房にて自ら包丁を手に取り、料理を行う屋敷の主の姿だったのだ。


「よし! 味は再現できている・・・!」


 杓にすくったカレーを一舐めしながら、レンティスは満足気な表情を浮かべていた。


「レ、レ・・・レンティス様! 一体何をなさっていらっしゃるのですか!?」


 グレノは普段なら厨房に入ることなどない屋敷の主が、料理をしている様を見て動揺する心を隠しきれず、言葉に突っかかりながら、彼が何をしているのかを尋ねた。


「グレノか! ちょうど良かった!」


 そんな彼女の様子を余所に、レンティスはある伝言を伝える。


メイド長(リリド)コック(スピナリ)に伝えておいてくれ。今日の夕食は私が作ると」


「・・・ええっ!?」


 その晩、彼自身が腕によりを掛けて妻と息子たち、そして招いた数人の親戚たちに振る舞った”日本料理(カレーライス)”は、一部の帝国貴族の間で、しばしの間熱愛されることとなる。カレーを作るたびに厨房に立つレンティスの姿は、屋敷の使用人たち曰く、とても幸せそうな表情を浮かべいたという。その後、エルムスタシアとの正式な交易を始めた日本政府は、首都に住む貴族たちから、カレー粉及びカレールーの個人注文が相次いだことに、首を傾げることとなる。

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