帝国を蝕むもの
ジットルト市 フォレイメン家の屋敷内
ロクフェルは別室への移動中、使節団の団長である新田に“頼み事”について説明をする。
「ニホン国の噂は私も耳にしております。極東のはずれにありながら、我が国と同じ七龍の一である彼のアルティーア帝国を手も足も出させずに滅ぼした軍事大国であると。そして、この世のものとは思えないすさまじい技術力をも持っている」
別に軍事大国という訳では無いが・・・新田はそう思いつつ、ロクフェルが日本のことを高く評価していたことを知る。
「そして、その医療技術も高い水準のものを有していると・・・」
この世界における日本の隔絶された医療水準は、特にノーザロイアやロバーニア等の日本の近隣諸国の貴族や王族たちの間で評判になっていた。ロクフェルも何処からかその情報を得ていた様だ。
「今、この街はある流行病に侵されています」
「流行病・・・」
遠藤はつぶやく。ついにロクフェルは“頼み事”の核心に触れる。
「ジットルトだけではありません。近隣のベギンテリアとフーリックでも同様の病が確認されています。民は病を恐れ、外出しようとしません。商人も逃げだし、この街はかつての活気を失っているのです」
ロクフェルと4人はある部屋の前にたどり着いた。その扉を開くと、部屋の中に設置されていたベッドの上に1人の青年が横たわっていた。息も絶え絶え、素人目に見ても明らかに病人であった。
「私の息子のヴィルドです。4日前に急に発病しました。以来高熱が続き、意識も薄く手のうちようがありません・・・」
ロクフェルの頼み事とは、自身の息子ヴィルドの治療だったのだ。邦人の返還にも応じる、金銭も要らない、これらの申し出は、損失云々よりも息子を治したいという彼の親心に依るものであった。新田は事態の深刻さを悟る。
「すぐ医者に診せます!」
新田はそう言うと、使節団に同行していた医療スタッフを此処へ連れて来る様に命じた。その後、屋敷の中庭に停車してある73式中型トラックにて待機していた、医官の柴田一尉と衛生員の三津波海士長、同じく水沢三曹の3人の医療スタッフが急遽呼び出されることとなった。
呼び出された柴田一尉は早速ヴィルドの診察を始める。触診や体温測定、血圧測定などを行い、患者の症状を調べる。
(高熱と、小出血斑にリンパの著しい腫れ・・・鼡径部の腫れが特にひどい・・・)
柴田一尉は患者の所見から、いくつかの病名を思い浮かべる。さらにそこから病名を絞り込む為、彼は側に立っていた屋敷勤務の医術士であるパーピラ=フィリフォームに尋ねる。
「他の患者方、死亡した方々の所見はどのようなものがありましたか?」
「所見?」
「・・・例えば、何か罹患者の身体に目に見て分かる特徴が出たとか」
「そうですね・・・高熱、悪寒、意識の混濁は共通して見られた症状でしたが・・・あ、黒い斑点です! 故にこの病を“黒斑病”と呼ぶ者もいました」
急激な高熱、意識の混濁、リンパの腫れ、そして末期患者の所見として出現した黒い斑点、柴田一尉はこれらの情報からある病名を予測していた。
「・・・恐らくこの患者の病名は、我々の世界で言う“ペスト”の様に思われます」
「!!」
「ペスト!? 疫病じゃないか!」
柴田一尉の診断を聞いた新田は驚愕する。他の者たちもその病名を聞いて驚きを隠せなかった。
「はい、実際にはそれらしいというだけで、本国の医療機関で検査を行わなければ病名の断定は出来ませんが・・・、どちらにせよ何の処置もされていない。非常に危険な状態です」
ペスト・・・この人類史上最悪の疫病は、2〜8日の潜伏期を経て発症し、何の処置もしなければ、大体の場合は1週間後に敗血症を併発して死に至る。かつて14世紀の中世には世界規模の大流行を起こし、ヨーロッパでは全人口の約3分の1を死滅させたという。
抗生物質や抗菌薬の開発が進んだ現代では、適切な処置をすれば治癒するため、その脅威は終わったとも言われており、日本では1926年以降確認されていない。しかし、かつての世界的大流行の発生は無いとしても、海外では一部地域において静かにその猛威を振るっているのだ。と言っても、今この段階でヴィルドの病がペストだと断定することは到底出来ない。今の彼の様な症状を示す疾患など、山の様にあるからだ。それに今は確定診断に必要な遺伝子検査が出来る様な状態でもなかった。
「流行病ということだったから、ウイルスか細菌か・・・それとも原虫か、何らかの感染症らしきことは確かなのだろうが・・・、幸いにもまだ敗血症らしき所見は起こしていない。とりあえず、細菌性の疾患であることを考慮して抗菌薬を投与する。三津波は抗生物質を持って来い。抗菌スペクトラムの広い奴を何でも良い。水沢は採血を」
「はい!」
柴田一尉の命令を受けた衛生員の三津波海士長は、外に停車中のトラックが牽引していた1tトレーラーの下へ走って行く。また、衛生員の水沢三曹はヴィルドから採血を行う為、彼の上腕にゴムチューブを巻き付けた。
「な、何をするつもりですか!?」
医術士のパーピラは、彼から見れば謎の行動を取る水沢三曹の様子を見てうろたえていた。そんな彼の様子を見ていた柴田一尉は、ロクフェルとパーピラの方を向いて立ち上がると治療についての説明を行う。
「ロクフェル殿、パーピラ殿・・・我々の医療技術・・・今から我々の行う治療は貴方方の感覚からすれば、禁忌に触れる様なものかも知れません。しかしそれらは多種多様な研究、そして膨大な年月の上に生み出されたものです。ご理解を頂きたい」
柴田一尉の言葉を聞いていたロクフェルは彼に尋ねる。
「治療とは具体的にどうするのですか?」
「・・・今から行うのは“採血”という行為です。貴方のご子息の血を採取し、その中に潜む病原菌を発見することで、この流行病の正体に迫ります」
「・・・!」
柴田一尉の説明を聞いたパーピラは何らかの衝撃を受けたのか、開いた口がふさがらない様子だった。一方のロクフェルは、柴田一尉が述べた言葉の多くを理解することは出来なかったが、彼が最後に述べた言葉だけはちゃんと理解していた。
「流行病の正体・・・貴方は先程、恐らくは“ペスト”だと言いましたが、そのペストという病は治せるものなのですか?」
「あくまでペストであればの話ですが・・・、薬剤の投与で治癒する病です。もちろん他の疾患である可能性はありますが」
「・・・!」
柴田一尉の言葉を聞いたロクフェルは耳を疑った。あらゆる医術士が匙を投げたこの悪魔の病を、日本の医師は治せると言うのだ。
「そのためには、抗生物質の点滴を行わなければなりません」
「コウセイブッシツ・・・? テンテキ・・・?」
ロクフェルは聞き慣れない単語に首をかしげる。
「抗生物質とは言わば薬です。また点滴とは、穴が開いた針を静脈と呼ばれる血の管に刺し、そこに薬が含まれる液体が入った袋から延びた管を繋ぐことで、薬を直接体内の血流に流し込む治療法です」
柴田一尉は淡々と説明する。落ち着いた彼の様子とは裏腹に、医術士のパーピラは激情した様子で唇を震えさせていた。
「何とおぞましい! そんな治療法は“経典”で認められていません! 血管に直接薬を流し込むなど・・・貴方も医術士なら、そんな得体の知れないことをせずにただ治療だけを行えば良い・・・!」
医療水準と宗教観の違いから、パーピラは柴田一尉に怒鳴り散らす。現代医術はこの世界の医師から見て、理解出来ないものの様だった。しかし、その様子を見ていたロクフェルは衝撃の一言を口にする。
「いえ、かまいません。それで息子が治るのならば、その“点滴”を行って下さい!」
「!」
パーピラはロクフェルの言葉を聞いて驚愕する。
「正気ですか、ロクフェル様!? この様な得体も知れぬ輩の怪しげな治療に頼るなど・・・この治療は明らかにイルラ教の“経典”に反してい・・・」
「お前は何も出来ないだろう! 黙っていろ!」
「・・・!」
主の怒号を受けたパーピラは、それ以上何も言うことなく口を紡いだ。その後、三津波海士長がトレーラーから抗生物質と点滴装置を持って帰って来た。
「レボフロキサシンがありますが・・・」
先程までの怒号の張り合いを聞いていたのか、彼は萎縮しながら柴田一尉に問いかける。
「ニューキノロン系か、そりゃ良いや。採血が終わったら、すぐにこの青年に点滴するんだ」
「はい!」
水沢三曹が採血を終えた後、採血に用いたのと同じ針に、抗生物質が入った点滴袋から延びるチューブを繋ぎ、袋をベッドの柱に落ちない様にして固定する。柴田一尉はチャンバーの滴下速度を見ながら、ローラークレンメを回して注入速度の調節を行った。
「このまま様子を見ます。正直に申し上げますが、発症から時間が経過していますので、ご子息が回復されるかどうかは断言することは出来ません。それに細菌性の疾患では無い場合、抗菌薬は効能を示さないので、治療法を変えていくことになります」
彼は治療の経過の行く先について、ロクフェルに正直に述べる。異世界において、街1つを飲み込む感染症に出会った。それが柴田一尉の見立て通り、ペストの様な地球でもよく知られる疾患であれば、対処の仕様もあるというものだが、当然これがペストに似ているだけの未知の病である可能性もある。
「では、回復する可能性は・・・?」
脇から様子を見ていた子門が心配そうに柴田一尉に尋ねる。周りを見れば患者の父親であるロクフェルを含め、全員が不安げな顔を浮かべていいた。
「幸いにもまだ彼は敗血症らしき症状を起こしていません。その意味では、彼は幸運であったと言えると思います。ですが何とも言えません。抗菌薬が効くことを祈りましょう」
彼はただただ事実を述べる。
「“我々の知るペスト”は、ネズミとノミが媒介する疾病です。故に万が一、これらの生物に噛まれた事に気付いた場合にはすぐに私に伝える様に。しかし、飛沫感染や空気感染を起こす疾患である可能性も当然あるので、この都市に居る間は確実にマスクを着用して下さい。また、このことを外で待機している陸上自衛隊、並びに近衛の方々にもお伝えしてください。また最優先事項としては、発症者には近づかない様に!」
柴田は今後の注意点を伝える。その後、使節団はヴィルドの治療の為にジットルトに滞在する事となった。
屋敷 応接間
医療スタッフの3人をヴィルドの病室に残し、新田を初めとする3人の外交官とロクフェル、そして皇太子のサリードの5人は応接間に戻っていた。
「今度はこちらの本題ですが、日本人は何処に?」
遠藤は彼ら使節団がこの地を訪れた最大の目的について尋ねる。
「・・・そうでしたな」
遠藤の言葉を聞いたロクフェルは、扉の側に立っていた守備兵に沢南美鈴をここへ連れてくる様に命じた。しばらく後、小綺麗な衣装に身を包んだ1人の女性が守備兵に連れられ、応接間に入室して来た。衣装こそジュペリア大陸風であったがその顔立ちは日本人そのものであった。緊張した面持ちであったが、見慣れた衣装・・・“スーツ”を着用している3人の男女の存在を見つけて彼女の顔が明るくなる。子門は彼女に駆け寄ると、その素性を確認する。
「貴方が沢南美鈴さんですね?」
「・・・はい!」
沢南は大きく頷いた。
「ノボル殿、分かっているとは思いますが・・・」
「・・・」
感動の出会いに釘を刺す様にして、ロクフェルが新田に問いかける。直後、新田は子門と同様に沢南の下へ歩み寄ると、彼女に今の状況を伝える。
「沢南さん、すでにご存じとは思いますが、我々は貴方と引き替えにロクフェル殿のご子息を治療するという条件を受け入れた為、今すぐ貴方をここから連れ出せる状態ではありません・・・しかし・・・衛生員による検査は受けて頂いた方が宜しいかと」
新田は沢南に語りかけながら、ロクフェルの方へ振り返る。
「・・・それくらいは良いですよね?」
「・・・ええ、問題ありません」
新田の問いかけにロクフェルは頷いた。その後、ロクフェルの計らいで用意された別室にて、水沢三曹による簡易的な検査が行われた。暴行の跡は見受けられず、幸いにも妊娠はしていなかった。沢南の談に依れば、彼女はロクフェルらフォレイメン家からは “使用人”として扱われており、ファティー皇子に“所有”されていた時の様に“慰み者”として扱われることは無かったそうだ。
故に、ファティー皇子に“所有”されたままとなっていたもう1人の邦人である山西恵美子の安否がずっと気がかりだったそうだが、水沢によって彼女がすでに保護され、日本に向かっていることを伝えられると、安堵したのか笑顔を見せた。
また、73式中型トラックに取り付けられた通信機から日本政府へ、もう1人の邦人を確認したこと、返還の交換条件として辺境伯の息子の治療を行っていることが遠藤によって伝えられ、日本政府はこの報告を承認した。尚、3日前に「いずも」に乗ってアテリカから出航した山西とアテリカ帝国宰相のコールの2名は、途中で寄港した「在トミノ王国日本貿易基地」にて、ウラン鉱石を日本へ運搬する為の貿易船に乗り換えて日本へ向かっており、2人を下ろした「いずも」は、もう1人の邦人を迎える為に、再びアテリカへと向かっていた。