「違和感」
荒野を歩き続ける旅人が、その果てに見つけたひとときの楽園を幻だとするならば……それはどんなに安らかなことだろう。
舞台を踊り続ける道化が、始まりから間違ってしまっている物語に気付けたなら……それはどんなに残酷なことだろう。
俺はきっと何も分かっていなかったのだ。
この異世界に人の世の情けなるものが存在しないとういうことを。
嘘はどこまでも温かく、真実はどこまでも冷たい。
幸せの本質は『無知』なのだと言った詩人は誰だっただろう?
今の俺なら分かる。それこそが唯一不変の真理なのだと。
知らぬままであれば俺はきっと幸せでいられた。
事実、"彼女"以外の人間であればきっと俺はこんな痛みを背負う事もなかっただろう。ああ、また裏切られたのかと呆れた顔で呟けばいいだけだ。
だが……彼女だけは駄目なのだ。
擦り切れ磨耗した襤褸切れのような俺の心は、狭量な俺の心は、たった一つ、たった一人だけの例外を認めていた。それはほとんど無意識の内に、俺も気付かぬまま……
──もう誰も信じないと、そう誓ったはずなのに……。
「そういえばお兄さんって前にも魔族と戦ったことがあるんだよね? その時はどうなったの?」
始まりはクロが旅の暇つぶしに語り始めた問いからだった。
「そうだな……最初に出会った男は殺した。次に戦った女は取り逃がした。その原因を作った男には何をされているのかすら分からなかった。今のところクレイとカグラを合わせて2勝1敗2引き分けってところか」
クロの問いに俺は記憶の中にある戦いを思い出しながら答える。どれも一筋縄ではいなかい戦いだった。こうして生きていることが奇跡に思えてくるほどに。
「うええ、お兄さんもう5人と戦ってたんだ。凄いね。しかも一人殺してるってかなり衝撃的事実なんだけど。どうしてもっと早く言わないかな、そういうこと」
「別に言う必要ないだろ」
「あるよー! そうでないと魔族の戦力分析ができないでしょ。どんな奴がいたとか、どんな能力だったかーとか。お兄さんはそういうところ軽視してるみたいだから言っておくけどね、戦争において情報ほど重要なものはないんだよ? 事実、向こうはまず真っ先にそこを狙ってきたわけだしね」
「なんだよ。俺が間抜けにも魔族に捕まったことを言ってんのか?」
「別に責めてるわけじゃないんだけどね。もっとお兄さんは協力する姿勢を持ってくれないと駄目だよってこと。だからどんな人がいたのか教えて。次戦うときの参考にするから」
クロはつい先日魔族と戦って死に掛けたばかりだというのに、もう次の話を期待して待っている。どうしてそこまで魔族と戦いたがっているのかは分からないが、教えろというのなら構わない。別に隠しているわけじゃないからな。
魔族の情報をせびるクロに、俺は今まで出会った魔族の話をしていく。
リンドウ、スザク、コテツ、ナキリ、アゲハ、クレイ、カグラ。
名前を挙げてみると俺はすでに魔族の半数と遭遇してしまっていることに気付く。世界広しと言えども、これだけの魔族に遭遇し生き残っている者はごく少数だろう。どうしよう。このままコンプリートでも目指してしまおうか。
「残り6人の魔族……すげえ会いたくないな。しかもその中に魔王まで入ってるし」
魔王という言葉は少なくない印象を俺に残している。
俺達がこの世界に呼ばれることになった直接の原因であり、俺の天権・不死に対して結びつくような異名を奴は持っているのだから。
──不死王。
奴の持つ魔術が何なのかは分からない。もしかしたら俺と同系統の能力なのかもしれないが、俺みたいな奴、敵として戦うのは正直御免こうむりたい。
俺はリックのような戦闘狂ではないのでな。
「6人? 今、お兄さん6人って言ったの?」
「ああ。13引く7は6だからな。何だよクロ、お前算数も出来ないのか?」
「いや、そうじゃなくて……」
なぜか口ごもるクロは俺に僅かな不審の目を向けた。
基本的に俺の言うことには素直に従うクロのこと、この反応は極めて珍しいものだ。何を一体考えているのかと、言葉を待つ俺に……
「……ねえ、なんでお兄さんは魔族の人数が13人だって知ってるの?」
──クロはその至極当然の問いをぶつけるのだった。
「…………は?」
俺は一瞬、クロに何を言われたのか分からなかった。だってそうだろう? 魔族が13人ってのは昔確かにイリスに教えてもらった情報だ。何がそんなに疑問なのだろう……
(…………え? いや、おいおい。何を言ってんだ俺は)
思考する途中、気付く。
イリスが言っていたから?
"馬鹿か俺は"。なぜ、俺は今の今までイリスが言っていたから、なんて理由で魔族が13人だと決め付けていた? イリスが嘘をついている可能性だって十分ありえるだろうが。
イリスは自分のことをあまり語ろうとしない。そんな彼女が──隠し事大好きな彼女が嘘を言っていない保証なんてどこにもありはしない。だというのに……
「それ、は……連れがそう言っていた、から……」
なぜ俺は今もなお、イリスの言葉を信じようとしている?
あんなに手痛い裏切りを受けた俺がなぜ、嘘をつかれているかも、なんていう当たり前の思考を忘れてしまっている?
加えておかしな点はそれだけではない。
クロの指摘から生じる違和感は──強烈な違和感はそれだけではない。
本当に、なぜ今の今まで俺は『そのこと』について疑問にすら思っていなかったのだ? 自分で自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
俺は一体、どうして……
「あの、お兄さん。それならどうしてその人は魔族が13人だって知っていたの? 魔族の情報について出回っているのは手配書が出ている7名のみ。そこから魔族の総数が13なんて、どうやっても分かるはずないのに」
──そう。そうなのだ。
俺は今までイリスが何の衒いもなく言うものだからそのまま信じ込んでしまっていた。もともと俺がこの世界の常識について詳しくなかったからこそ、魔族の手配書について知ったのがイリスの言葉の後だったからこそ、俺はその当然の疑問に行きつくことなく今日まで過ごしてきた。
──イリスは一体どうやってその情報を手に入れたのかという、当然の疑問を。
「…………」
何も言えない。言葉が出てこない。
まさしくクロの指摘どおり。俺にできるのはせいぜい間抜け面を晒すことぐらいだ。本当に、なんで今の今まで疑問にすら思わなかったのか不思議でならない。
……言い訳をするわけではないが、きっとこれが別の人から言われたことなら俺も鵜呑みにせず情報源について言及していただろう。だが、イリスに対してはそもそも疑うという発想からして抜け落ちてしまっていた。
何が俺にそうさせたのか、考えてみる。
だが……いくら考えても結論はでない。
俺にとってイリスが特別なのは間違いない。イリスとは同じ境遇を生きるもので、共にあの地獄を乗り越えた戦友だからだ。しかし……それはステラに対しても言えることだ。だがイリスとステラを並べた際に抱く感情には開きがある。
想いの大小ではなく、感情の種類からして違うのだ。
それは分かる。
だが……それが何と言う感情なのか、それが出てこない。
今まで何度も聞かれ、その度に誤魔化していたこの気持ちを。それはもしかしたら次にイリスと再会したときにはっきりするかもしれない。漠然とだが、そんな予感を俺は感じていた。
「……行かないと」
「え?」
思わず漏れた声にクロが聞き返すが、今の俺にはそれに構っているだけの余裕がなかった。焦る心はケルンへ向けて、その足を速めさせる。
まるで足元の大地が薄氷にでもとって代わったかのような不安感の中、俺は駆ける。
──イリス。お前は一体……何者なんだ?
その疑問に突き動かされるように。
今まで自らの臆病さ故に先延ばしにしてきた言葉を。今度こそ、イリスにぶつけるため。
もしかしたら俺はその事実を知らないほうが幸せなのかもしれない。
だが、それでも……『無知』でいるのだけは耐えられないのだ。
はやる心の任せるままにケルンへ向けて疾走する。
イリスの待つ戦場は……俺の知らない『真実』は、すぐ目の前まで迫っていた。




