「始まり」
ノインに到着して二日目の朝。まだ太陽が顔を出し始めた時間帯にその事件は起きた。
「お兄さん──起きて、お兄さんっ!」
「……ん?」
叩き起こされ、まず視界に入ってきたのは血相を変えたクロの顔。彼女とは別の部屋を取っていたはずだが……なぜここにいる?
「どうした、クロ。蜘蛛でも出たか?」
笑いながら人を殺せるくせにクロは昆虫類が苦手だった。だから、部屋にその手のモンスターが現れたのかと思ったのだが、クロは真面目な表情で首を横に振る。
「もっと悪いよ。すぐに出かけられるよう準備して」
「すぐ出かけられるようにって……何があった? 説明ぐらいしろ」
慌てているせいか、要領を得ないクロの要求に説明を求める。するとクロは見ればわかると言わんばかりに窓の外を指差した。釣られて視線を向けると、そこには……
「おい……これは何の冗談だよ」
あちこちで火の手が上がっているノインの街並みが広がっていた。
波のように路地を走り去っていくのはノインの村人達。統一された動きで、火の上がっている西側を避けるように走り抜ける。まるで、何かから逃げているかのように。
「ここの店主はいち早く逃げたみたいでもうこの建物にはいないよ。クロも気付くのが遅れた方だけど、お兄さんには負けるね。こんだけ騒がしい中、寝こけていられるなんてある種の才能かも」
「冗談言ってないでお前も支度しろ。何が起きてるのか分からないが、異常事態なのは間違いなさそうだ」
頷いたクロが部屋を去るのを尻目に、俺も手早く外出準備を整える。
火の手は一箇所ではなく、複数の場所から上がっていた。普通の火事ならば、あのような燃え広がり方は絶対にありえない。ということは、何者かが意図して火をつけて回っているのだ。
「……ったく、次から次へと急がしすぎんだろチクショウ」
コートを羽織り、ナイフをベルトに差しておく。俺の準備が出来たところで再び戻ってきたクロと合流し、宿の外へ。
一際大きく耳に届く喧騒を聞きながら、俺はクロへと問いかける。
「おい、これからどうする? すぐにケルンを目指すにしても食料品が補充できていない。この騒ぎじゃどこも店なんて開いてないだろうし……」
「そんなものいらないよ」
俺の言葉を遮ったクロ。
その見る先は火の手の上がる、西方向だった。
「クロ……?」
「お兄さんも薄々気付いてるでしょ。これはまず間違いなく魔族の侵攻だよ」
この騒ぎの現況が魔族にあると断言するクロ。確かに状況だけ見れば、今ノインはまさに何者かの襲撃を受けている状態だ。そして、そんなことをする連中には俺も一つしか心当たりがない。だが……
「魔族領からかなり離れてるこんな内陸部にいきなり攻めてくるか、普通」
「国と国との戦争ならまずありえないね。でも魔族は少数精鋭。しかも外見から見分けるのは困難なんだから、どこに現れたとしても不思議じゃない。現に前の大戦では主戦場はここから更に東側にある内陸部だったんだから」
「なるほど……だが、それで? これが魔族の侵攻なんだとしたらなおさら早く逃げる準備をしないと……」
隣に立つクロに視線を向けながら、俺はそう提案するのだが……こちらを向いたクロの視線の鋭さに思い出す。このクロという少女の素性が何なのかを。
「そうか、お前……確か……」
「……クロは国抱えの天権保持者だからね。魔族を殺すことがクロの目的で存在理由。こればっかりはいくら相手がお兄さんでも譲れないよ」
恐らくクロは今すぐにでも戦火の元へ赴き、魔族を探し出そうとしているのだろう。それが彼女の目的だと言うのなら、止めるすべは俺にはない。
人は誰しも、自分の意思に従い道を選ぶ。
自らの信念に誓ったことならば、何があってもその決断を覆すことは適わない。俺にとっての復讐がまさにそうであるように。
「でも、クロが魔族と戦うのはお兄さんには何の関係もないことだからね。逃げたいなら逃げればいいよ。この小太刀もちゃんと返すし、心配はいらない」
「……だがそれだとお前、丸腰になるだろうが」
「だから? だから敵を前に尻尾を巻いて逃げろって? はは……まさか。クロ達みたいな人種は絶対にそんなことはできない。自分の誓いに背を向けることは自分で自分の腹を掻っ捌くのと同じことだよ」
自らに課した誓い。それを成し遂げることができなければ生きている理由がないのだと、クロは言う。その感覚には覚えがある。俺は復讐という目的によって精神の均衡を保ってきたのだから。
生きる理由を失えば、それはまさしく死への傾斜という形で俺たち自身を苛むこととなるだろう。そんなことになるくらいなら、クロは魔族と戦って死ぬことを選ぶ。そのことが同じ人種である俺にははっきりと感じ取れた。
「……分かった」
クロの確固たる意思を前に、俺は頷く。
彼女には彼女の道があり、俺には俺の道がある。つまりはそういうことなのだ。
「なら……ここでお別れだ。クロ」
「うん。お兄さんとの旅は結構楽しかったよ。また生きて会えたらお団子食べに行こう」
「ああ、そうだな」
クロから小太刀を受け取りながら俺たちは別れの言葉を送りあう。
「クロ、餞別代りにこれを持ってけ。何もないよりはマシだろう」
俺はベルトからナイフを取り出し、クロへ手渡す。彼女の大太刀を壊してしまったことに対するせめてもの補填として。
「ありがと、すっごく嬉しい。大切にするね」
「安物だからすぐに壊れると思うがな」
武器を交換した俺たちは最後にハイタッチをして互いに背を向け別々の方向へと走り出す。俺は村から出るため東の方角へ。クロは魔族を探しに西の方向へ。
一抹の寂しさはある。だが、お互い譲れぬ道がある以上どの道どこかで別れざるをえなかったのだ。だから、この別れは仕方ない。運が良ければまたどこかで出会えるだろう。その時は彼女の武勇伝を肴に、酒でも飲み交わすのもいいかもしれない。
だが、今は……
「まずはケルンへ到着する。それが俺の最優先事項だ」
優先順位を間違えるわけにはいかない。イリス達と合流し、再び計画を練り直す必要があった。ノインより東側に位置するケルンだが、歩きで数日は確実にかかる距離。クロの旅道具が使えなくなった以上、それもどこかで調達しなくてはならない。
いっそ、どこかの店に火事場泥棒でもしてやろうかと考えていると……
「おい、自警団の連中は何してやがる! さっさと防衛へ回さんか!」
「で、ですが、あまりにも突然のことで連絡網が混乱していまして……」
騎士の甲冑に身をまとった連中の話し声が聞こえてきた。
今の俺は指名手配犯。流石にまだ手配書までは回っていないだろうが、一応顔を隠しながら横切ろうとして、その単語が俺の耳に届いた。
「ですが、ご安心ください。今、丁度この村へ滞在してくださっていた"召喚者"の方にはすでに連絡が行っておりますので。魔族連中など、すぐにでも撃退してくださるはずです!」
──ドクン、と心臓が脈打つ音が聞こえた気がした。
召喚者。確かに、今この騎士はそう言ったのだ。王都を離れ、遠征へと出ている召喚者のグループに、その人物はいる。
上原真奈。
もしかしたら、今。奴がこの村にいるかもしれない。その可能性が頭をよぎった瞬間。俺は踵を返し、今まで以上の速度で走り出していた。
「くそ……ッ!」
またしても最悪のタイミングだ。なんだって俺の行動はこうも空回る? このふざけた運命を用意しやがった神に唾でも吐きかけてやりたい気分だ。
もしも……また、間に合わなかったら。
俺の復讐対象の命が、他の何者かの手に奪われたりでもしたら……そのことを考えるだけで寒気が走る。駄目だ。駄目だ、駄目だ。それは俺が殺す相手なんだ。誰にも横取りなんかさせない。もう二度と。
駆けて、駆けて、駆けて、ようやく村の西側へやってきたときにはすでにノインの街並みは変わり果てていた。
パチパチと木造の建物が火の粉を散らしながら燃え上がる。
そこらかしこに倒れこんでいる村人達はすでにこの世のものではない。
血の匂いに吐き気すら感じる戦場を走り抜ける。
どこだ……どこにいる?
目に慣れた黒髪を捜しながら走る俺はその人影をついに見つけた。純日本人風の風体のその人物はしかし……
「あん? 誰だ、てめぇ」
見覚えのない男だった。
ツンツンと逆立った髪に、好戦的な瞳を宿すその人物の両手は真っ赤に濡れていた。最早嗅ぎ慣れてしまった……死の匂い。それが目の前の男からしたのだ。
出会った瞬間、対峙した瞬間に気付く。
間違いない、この男が……
「騎士でも、自警団でもなさそうだが……まあ、誰でもいいか。結局死ぬのは同じこと……」
──魔族だ。
「それじゃあ華々しく……逝けや」
その男の声が耳に届いた瞬間、俺は本能に従いその場を全力で離れた。そして、その判断はまさしく英断であった。
一瞬前まで俺のいた場所を通り過ぎていくのは真紅の刃。風を斬り、服の一端を掠めるその刃を俺は確かに見た。まるで鞭のようにしなやかに、槍のような鋭さを持って飛来したそれは間違いなく男の手元から伸びていた。
「おっ? ……やるねえ、小僧」
そして、その攻撃は一撃ではすまなかった。
俺が躱した瞬間には次の攻撃が襲い掛かる。一度、二度、三度と男の手元から伸びてくるのは先ほどと同じ真紅の刃。それが何なのかは分からないが、それが男の"魔術"なのだということは分かった。
魔族が持つ不可思議な力。その片鱗を今、俺は味わっている。
「ぐっ!」
ついに避け切れなくなった一撃が俺の額を浅く切り裂く。浅くとはいっても、場所が場所だったので派手に血が出る。目に血が入らないよう、手で傷口を押さえながら俺は後退を続ける。
男との距離はすでに10メートルを越えている。だというのに、未だ襲い来る刃に衰えは見受けられない。中距離まで伸びてくる不定形の刃を扱う魔術……なのだろうか。
だとすればなんて使い勝手のいい魔術だろうか。リンドウの変身や、アゲハの光球もそうだが魔族の魔術は本当に反則染みている。
「……おい、お前」
突然男は何かに気付いた様子で攻撃の手を止める。
呼びかけられた形だがこちらから、わざわざ反応してやる必要もない。この隙に何とか逃げられないか逃走経路を探し……
「その傷、治ったのか? それにその風貌。お前、もしかして……アオノカナタか?」
男の口から出た名前に、思わず、本当に思わず顔を向け反応してしまい……
「はは、はははッ!」
男の顔いっぱいに、獰猛な笑みが浮かぶのを見た。
「おいおい! まさかこんな辺鄙な田舎でこんな大物に出くわすとはなァ! 会いたかったぜ、チクショウ! そこを動くなよ、お前は俺がぶち殺す!」
かつて出会ったアゲハのように、笑みの中に深い怒りを宿す男に俺はかつてイリスから言われた言葉を思い出す。魔族は人数が少ない分、その絆は何よりも深いのだと。
「俺は魔王軍第九席、クレイってんだ。お前のことはずっと探してたんだぜ。直接報復の任務は受けていなくても、出くわしちまった場合には関係ねえからなあ。やっと、こうして出会えたんだ……リンドウの仇、取らせてもらうぜ」
クレイと名乗った男は深く、深く笑みをその相貌に刻み込む。
上原を探して出くわしたのは最悪の相手だった。
魔族と戦うことを放棄した俺に、それでも運命は逃さないと嘲笑うかのごとく次々と刺客を送り込む。
都合6人目の魔族との遭遇。
闘争の宴はまだ、終わらない。
舞台で踊り続けるピエロには、幕を引く権利など有りはしないのだ。




