「月の光」
夜の帳が下りた王城で、俺は静かに空を眺めていた。
どこまでも遠い、遥か彼方に輝く星達を。
センチメンタルな気分に浸っている自覚はある。あの中にシェリルの星があるかもだなんて、そんなことを考えてしまう自分がいる。
そんなことありえないって、分かってはいても。
シェリルは太陽のような存在だった。明るく、優しくて、みんなから好かれる平和の象徴のような子。傍にいられるだけで温かな気持ちになれた。でも……彼女が生きている内に気付いてあげることができなかった。
人は失って初めてその価値に気付くという。
ああ、そうだよ。俺はずっと気付かなかったんだ。
傍にいてくれる。ただそれだけでどれだけ救われていたのかを。
彼女は言った。俺の天権は大切な人を守るため、自分が前に出て戦うための力だと。俺自身その言葉を汚したくなくて精一杯やってきたつもりだ。
だけど……本当にその言葉の通りだとしたら。俺は失う前に気付かなくてはいけなかった。守るべき者は何なのか。大切な者は何なのか。
踏み出せなかった一歩。
俺に後悔だけを残したあの過去を今日、この日。俺は清算する。
「何を見ているの?」
唐突にかけられた問いに振り向くと、そこには月明かりを浴びてその姿を現すイリスの姿があった。
「……星と月を見てたんだよ。こうしてみてると手が届くんじゃないかってほど近くに感じる。けど……それも錯覚だ。本物は遠く及ばない彼方にある」
すっ、と手を伸ばし掴む仕草をしてみるが開いた手にはなんてことはない。空を切った手があるだけだ。そこには何もない。空っぽの自分がいるだけ。
「そんなことないんじゃない?」
しかしイリスは俺の言葉を否定し、ゆっくりとこちらに近寄ると何の前置きもなく俺の体を抱きしめてきた。
「本物でなくても偽者なら、ここにあるわよ?」
指差すのは自分の瞳。吸い込まれるような瑠璃色の瞳には、なるほど。確かに月が写りこんでいた。
「どっちにしろ手の届く代物じゃない」
「そう? 貴方次第な気もするけれど」
確かに手を伸ばせば触れられるだろう。けど、それは月を汚す行為だ。月は輝いてこそ意味がある。雲に覆い隠された月には何の価値もない。
それを俺が告げるとイリスは憤慨した様子で、
「月の価値は貴方が決めるようなものではないでしょう。確かに輝く月は美しいわ。でもそれは単なる太陽の反射でしかない。貴方は堕ちた太陽の残滓を月に求めているだけ。それは月に対しても、太陽に対しても失礼だわ」
ぎゅっ、と密着する体に力を込めて反論する。
伝わる体温に、まるで「私はここにいる」と主張されているようだ。
「何だよ。今日は随分甘えるじゃないか」
「たまにはいいでしょう? 私も貴方も、どんな人にだって心を休める期間は必要だもの」
そのイリスの物言いに、俺は一つだけ心当たりがあった。
「……そうか。そうだよな。お前もどうしても意識しちまうよな。自分の復讐のこと」
「…………」
イリスは何も言わない。だがそれが何にも勝る答えだった。
イリスは俺の復讐に重ねて自分の復讐を見ているのだ。
失ったものを。かつて感じた温もりを。
ヴェンデ・ライブラ。名前しか知らないイリスの父親。きっと彼は良い父親だったのだろう。娘の育て方をいささか間違えたとはいえこうして亡くなってからも惜しんでもらえるのだから。
俺が月に太陽の残光を求めたように。
イリスも俺に父親の残滓を求めていたのだ。
「自分で言っといてそれだもんな。人のこと言える立場かよ」
「……うるさい。バカ」
いつものキレがない罵倒を浴びながら、俺はその小さな体躯をそっと優しく包み込む。こんなことで彼女の不安が晴れるなら安いものだ。
「……辛いよな、イリス」
「……ええ、そうね。いつだってそう。先に逝く人たちは取り残される側の気持ちなんてこれっぽっちも考えてなんかいない。だからカナタ……貴方だけは私より先に死なないでね」
「…………」
俺が死なないことくらい、お前が一番良く分かっているだろう。
いつもの決まり文句を返すことは簡単だった。けど、今のイリスが求めているのはそんな答えじゃない気がして。
「ああ。そうだな。俺は生きるよ。泥を啜ってでも、地べたに這い蹲ってでもその時が来るまで精一杯生き抜いてみせる」
「なら、いいわ」
そう言ってイリスはにっこりと笑みを浮かべた。
聞きたかった言葉を聞けて満足したのだろう。向日葵のような可愛らしい笑顔だった。
「……全てが終わったとき、私は貴方に伝えたいことがあるの。だから勝手にいなくなったりしたら殺すからね」
「おい。残される側の気持ちはどこ行ったんだよ」
あんまりなイリスの物言いに突っ込むと、イリスは笑い、俺も釣られて笑った。
「さて……それじゃあ、行きましょうか」
「ああ。始めよう」
和やかな雰囲気のまま、俺達は宣言する。
「「──俺(私)達の復讐を」」
世界へ向けた宣戦を。
運命へ向けた反逆を。
定められたものではない。俺達が俺達自身の意思で選んだこの道を往く。
あの日踏み出せなかった一歩を今、踏み出す。
そんな引き返せない道を歩み始める俺達を、
──月の光だけが優しく照らしていた。




