「真紅の瞳」
俺は一瞬、目の前の光景が信じられなかった。
イリスはその細腕を使い、男の首を絞めるようにして吊り上げている。その男はすでに瞳の色を失っており、気絶していることが見て取れた。周囲に散らばる男達と同じように。
(ってことはこれ全部……イリスがやったってのか?)
イリスの運動神経はお世辞にも良いとは言えない。だからイリスが一人でこの惨事を作り上げたとは信じられなかったのだが……いくら信じられなくても、目の前の光景に変わりはない。
「カナタっ!」
イリスは男を興味のなくした玩具のような手振りで放り投げ、こちらに駆け寄って──ぎゅぅぅぅ、と俺の体を力の限り抱きしめた。
「良かった! 無事だったのね、カナタ!」
俺の予想に反し、怒声ではなく嬉しそうな声を上げるイリスに俺は思わずたじろぐ。だってイリスだぜ? 普段あれだけ高飛車な態度のイリスがこんなそれこそ小さな女の子みたいな仕草をするなんて。
「い、言いたいことは色々あるがとりあえず離れるぞ!」
俺は「私を引き剥がしたくば梃子でも持って来い!」と言わんばかりに抱きついてくるイリスを無理やり引っ張って表通りに向かう。コアラかよ、お前。
「カナタぁ! カナタぁ!」
道中も顔を押し付けるようにして俺の存在を確かめるイリス。
大体何があったかは事前に聞いていたが、まさかこんなことになっているとは思ってもいなかった。
借家で少女に話を聞いたところ、イリスはなかなか帰ってこない俺が"イリスに愛想を尽かして出て行ってしまった"と勘違いしてしまったらしい。確かに朝になっても帰ってこないなんて何かあったと思うのが普通だ。
それで何か事件に巻き込まれたのでは、と意見した少女の話を聞き、イリスは家を飛び出してしまったらしいのだ。家で待つように命令された少女はそれを誰かに伝えることもできず、ずっと俺かイリスの帰りを待っていたとのこと。
そして、何がどうなったのか再会したイリスは……
「カナタぁ、良かった! 良かったよぉぉぉ! 私、もう、カナタに会えないかもって思って……っ!」
まるで幼児退行したかのように、いつものきりっとした口調がどこかへ出張してしまっていた。
「ったく、俺が帰るのを家で待ってれば良かったのに」
「だって……カナタが心配だったんだもん」
もん!?
イリスが……もん!?
「お、俺が死なないことくらい知ってんだろうが」
「知ってる。知ってるけど……」
いつの間にかイリスの涙でぐちゃぐちゃになった俺のシャツで顔を隠すイリスは、
「カナタは一人の時、ずっと苦しんでいたみたいだったから……」
俺たちが意図的に避けていた"あの頃"の話を持ち出した。
「カナタは私と始めて会ったときのこと覚えてる? あの頃のカナタは凄く不安定で、今にも壊れてしまいそうだった。私があの部屋に入れられるまで、カナタはずっと一人だったんでしょ? だからそのせいでカナタがああなっちゃたんだと思うと……」
「俺を一人にさせたくなかった?」
「……うん」
言い淀むイリスの言葉を繋げると、こくりとその小さな顔を縦に動かし首肯するイリス。普段の横暴な雰囲気が消えた今のイリスはなんというか……非常に愛らしかった。
まるで普段素っ気無い猫が落ち込んでいる時に擦り寄って来たような感覚。滅茶苦茶に撫で回したい気持ちを理性で殺し、俺は真面目なトーンでイリスに言う。
「……それは俺も同じだよ」
「え?」
「だから……一人にしたくないってとこ」
イリスと始めてあった時のことは正直……あまり良く覚えていない。精神的におかしくなってた時期でもあったからか、記憶として定着していないのだ。一種の健忘症だと思うのだが、その代わり、イリスと旅立つことになった運命のあの日のことは今でも鮮明に覚えている。
俺を置き去りにどこかへ向かうイリスの瞳に写るあの光を。
あの瞳を見た瞬間に、俺はどうしてもイリスを一人にすることが出来なかった。だからこそ、あの時俺は立ち上がったのだ。
「……イリスにはイリスの目的があることは俺も知ってる」
俺も同じ類の目的を持っているから。理解も出来る。
「けどさ……本当にそれは一人でやらなきゃ駄目なことなのか? 少しくらい誰かの力を借りてもいいんじゃないのか?」
「…………」
まさに喧嘩別れした原因である方向性の違いを、俺はこの場で改めて問い詰める。
「俺の力はさ、全部誰かの借り物なんだ。天権も、禁術も。だからこの力を使って復讐することに躊躇いも感じるし、迷いもした」
けど、それでもいいと思えたから。
「誰かを頼る、ってのはイリスにとってそんなに難しいことなのか?」
俺はイリスにも、頼って欲しかったのだ。
「…………」
俺の言葉に、ゆっくりと口を開いたイリスは……
「……誰かを信じるってことは、裏切りのリスクを背負うことよ」
いつもの口調で、自分の在り方を宣言する。
「私はそんな不安定な関係なら……必要ない。私にとって真に信用できるのは家族だけ」
それはかつて語った今は亡き、父のこと。
「でも、その家族ももういない。私はこの世界で一人ぼっちなのよ」
信じれば裏切られる。
深く信じれば信じるほど、裏切られた時の傷は大きく、深くなっていく。それを一度経験したイリスは他人を信じるということが出来なくなってしまったのだろう。
今まで何度も何度も感じたその想い。
そしてその度に言えなかった言葉を……
「この……」
俺は、
「──分からず屋がッ!」
思い切り、吐き出した。
「か、カナタ……?」
普段見られない俺の本気の怒りを前に、イリスは目を白黒させている。それもそうだろう。普段怒ることはあってもそれは冗談というか、軽口に入るようなものばかり。面と向かって怒鳴るのはこれが初めてのことだ。
それはまるで、間違ったことをした娘をしかる父のように。
「お前は……そんなに俺のことが信用できねぇのかよ!」
思えば前回イリスと喧嘩したときも、結局はこの感情が原因だったように思う。
誰も必要ない。私の目的は私の力で完遂する。
そんな一人で完結してしまっているイリスの世界に、俺が入っていないことが──俺はどうしても、悔しかったのだ。
「俺はイリスが求めるならどんなことにだって手を貸してやる! 復讐を手伝えってんなら手伝ってやる! もう二度と辛い想いをしたくないってんなら俺がお前を傷つける全てのことから守ってやる! だから……ッ」
──だから、頼むよ。イリス。
「もう……自分は独りだなんて……悲しいことを言うなよ……」
「…………」
全ての感情を吐き出した俺を、イリスはじっと見つめている。イリスが何を感じ取ったのかは分からない。もし、これで俺の想いが伝わらなかったら……俺たちはもう、一緒にいられないのかもしれない。
元々一緒にいる必要性なんてどこにもなかった。
半ば以上俺の我侭で続けてきたこの関係は、少し引っ張れば切れてしまう糸のようなもの。俺が本格的に動くとなれば、イリスが離れていくのも仕方がない。
けど……もしも、イリスに何か思うところがあるのなら。
この一ヶ月に、少しでも価値を見出してくれていたのなら……。
きっと、俺たちの道は繋がっているはずだから。
「カナタは……」
やがてゆっくりと口を開いたイリスは、
「私のこと……絶対に裏切らない?」
そんな、答えるまでもないことを聞いてきた。
でもこの馬鹿にはきっと、言葉にしないと伝わらないのだろう。だから俺はありったけの意思を込め、告げてやる。
「ああ。何があってもだ」
「……私のこと、見捨てたりしない?」
「もし見捨てるつもりがあるのならあの日、お前の手を取ったりなんかしてねぇよ」
「私……何の取り柄もないのよ? 私と一緒にいても、カナタに何のメリットも……」
「お前は俺に禁術を教えてくれた。毎日そのトレーニングだって、付き合ってもらってる。お前が俺と一緒にいることに引け目を感じる理由なんてない」
いつもの強気な様子はどこへやら。ぼそぼそと言い訳のような台詞を吐くイリスに、俺は何度でも告げてやる。
──イリスが俺と一緒にいられない理由を挙げるなら、
──俺はイリスと一緒にいられる理由を挙げてやる。
「イリス。俺が聞きたいのはそんな言葉じゃない。俺が聞きたいのはお前がどうしたいのかってことだ」
「……カナタは……それでもいいの?」
上目遣いにこちらを伺うイリスの瞳には、不安と期待の両方が伺えた。
半信半疑。今はまだ、それでもいい。
少しでも信じてくれているのなら、それで。
「お互い深い業を抱えている身だからいつまで続くか分からないが……その時が来るまで──俺はお前と一緒にいたいんだよ。イリス」
「……そっか」
俺の答えを聞いたイリスは、瞳を伏せ、体を震わせる。そして……
「私も……カナタと一緒にいたい」
その言葉を、形にした。
「そうでなきゃ、こんなところまで貴方を探しに来たりしないわよ」
「そうだな。けど……お前の口から聞きたかった」
「なにそれ」
一度、言葉にしたからか、イリスは少しすっきりした表情で顔を上げた。
「帰りましょうか。カナタ」
「……そうだな」
俺もそろそろ疲れが限界に近い。帰るのは大賛成だ。
「カナタ」
二人並んで家路につく、その途中のことだ。突然俺の名前を呼んだイリスは……
「……ありがとう」
恥ずかしそうに頬を染め、そんなことを言ったのだった。
普段高飛車なイリスがお礼を言うなんて……なんだろう。凄く嬉しい。
今は目の前のイリスが滅茶苦茶可愛らしく見えて仕方が無かった。
そして、そんな風に思ったことが恥ずかしくて、
「……なんでもないよ。これくらい」
俺はいつものように、誤魔化すことしか出来なかった。
もしかしたら普通の人にとっては当たり前の小さなことだったのかもしれない。でも不器用な俺達はたったそれだけの言葉を告げるにも、これだけの回り道をするしかなかった。
小さな一歩。
だけどそれは大きな変化をもたらした。
この日以来、少しずつではあるが──イリスが笑ってくれるようになったのだ。そのことが俺は堪らなく嬉しかった。そして同時に気付くことになる。
この不器用で、どこまでも真っ直ぐな少女のことを……
──俺はいつの間にか、好きになってしまっていたということに。
初恋なんて、甘酸っぱいものなんかじゃないけれど。それでも今までで一番の恋心を抱くことになる。そして俺は……この少女と出会ったことを、深く後悔することになる。
出会っていなければ、あんな想いをすることなんてなかっただろうから。
これから訪れるその未来を、この時の俺はまだ知らない。




