「譲れないこと」
月明かりが照らす裏路地を走り抜ける。
大体の方向だけを頼りに逃亡を続けてそろそろ三十分が経とうとしていた。もうすでに俺達の逃亡は知られてしまっているだろう。この時点で未だ裏路地を抜けられていないというのはまずいかもしれない。
向こうはこの周辺の地理を把握しきっているだろうし、何より速度が違う。
「……大丈夫か?」
「ぜぇ……ぜぇ……だ、大丈夫」
並走するリリィは今にもぶっ倒れそうな勢いで顔を真っ赤にしながら何とか付いてきている状態だ。ようするに全然大丈夫じゃない。
追手の恐怖に視界の悪いこの状況、普通に走るより体力を使うのは当然か。
「……そこの建物が見えるか? そこに入るぞ」
「……え?」
「付いて来い」
俺は言うが早いか近くに建っていたレンガ造りの建物に足を踏み入れる。相当埃っぽい、誰も住んでいないのは外見からも分かったが相当古いぞ、これは。
天井が崩れやしないかと内心ひやひやしながら中を探索し、丁度良いスペースを見つけたので俺は手振りでリリィを呼んでその物影に身を潜める。
「少し休憩だ」
息の荒いリリィにそう告げてから外の様子をこっそり伺う。
まさかピンポイントでこの場所を見つけられるとは思わないが警戒するに越したことはない。周囲を歩く物音がないか気を張っていると……
「あの……ごめんなさい」
呼吸を整えたリリィが声を潜めて話しかけてきた。
「こんなことに巻き込んじゃって、あの、怒ってます、よね?」
どうやらこの事態を自分のせいだと思っているらしいリリィが申し訳なさそうな声を上げる。
「別に怒ってはないけど……なんでそう思うんだ?」
「普通、見ず知らずの相手の為に体を張ったりなんかしませんよ。だから、後悔しているんじゃないかと……」
「そんなことない」
俺はリリィの言葉を遮り、強い口調で否定してみせた。
「俺がお前を助けようと思ったのは俺の意思だ。それで結果、俺が死んだとしてもお前が気に病むことじゃない。そうだろ?」
「……かも、しれませんね」
リリィはそういうが、納得しているようではなかった。
むう……何というか、やりづらい。話が噛み合っていないというか、相性が悪いのだろうか? カミラの時はあまり感じなかった会話の齟齬を感じる。
「……そろそろ行くか」
「分かりました」
結局話す言葉が見つからなかった俺は移動を開始することにした。短い間だったが休憩にはなっただろうし、いつまでも追われる身では心臓に悪い。
そう、思ったのだが……
「なっ!?」
月明かりの照らす道の真ん中に、
「よぉ……待ってたぜ」
俺たちの行く先を阻むようにリックが立っていた。
先回りされていたのだろう。だが……なんで俺たちの場所が正確に分かったんだ?
「俺は人並み外れて鼻が良くてよぉ、特に血の匂いには敏感なんだわ」
俺の疑問に、指先で鼻をなぞるリックがその答えを教えてくれた。
血の匂いで相手の場所が分かるって……サメかよお前は。
ちらり、と左手の傷があった場所を見る。確かに傷こそ塞がってはいるが、まだ血が付着している。これを頼りに俺たちを追ってきたというのなら……とんでもない嗅覚だ。
だが、まずいぞ。リックの腕は前回の戦闘で嫌というほど思い知らされている。素手の近接戦闘ではまず勝てない。そう判断した俺は……
「リリィ、先に行け」
「え?」
「こいつは俺が抑える。その間に表に向かって逃げろ」
俺の背に隠れるように身を潜めるリリィに小声で指示を送る。リックが血の匂いで相手を追っているというのなら、仮に俺が敗北したとしても俺から離れればリリィを追う術はリックにはない。
完全に見失う程度の時間は稼ぐ覚悟で俺はリリィの背を押す。
「で、でも……」
「大丈夫だって。心配するな。俺は絶対に死なねえから」
死なないこと。それだけには自信があった俺はリリィにそう告げ、促す。
「行けっ!」
「──っ」
俺の言葉に、走り出すリリィ。向かうは光差す表の道。
そう……それでいい。それでいいんだ。こんな薄暗い世界で醜く戦う役目は……俺だけでいい。
「逃がすか、小娘っ!」
走るリリィの背を追うリック。その間に俺は割って入り、行く手を阻む壁となる。
「邪魔だっ!」
ぱぱっ! と手品師のような手つきで両手にコンバットナイフを逆手に持ったリックが俺に向け突撃する。こいつもリリィをここで見逃すわけにはいかないのだろう。だが……
「行かせる訳には……いかねぇんだよッ!」
魔力を右腕に込め、俺は渾身の力で拳を地面へと叩きつける。
破砕音が周囲に響き、リックの行く手を阻む妨害となる。
「ちっ!」
舌打ちをしたリックは反転、狙いを俺へと切り替えたようだ。
分厚い刀身のコンバットナイフが、それぞれ左右から迫るのを後退しながら回避。こちらは素手だ。まともに食らえば大ダメージは避けられない。
「はっ!」
呼吸と共に、跳躍。近くの建物の壁を利用して俺はリックの攻撃圏内から逃れようとするが……
「遅ぇ!」
リックの身体能力は魔力で強化された俺の更に上をいっていた。
引き剥がすことが出来ない。奴の得意な間合いから逃げ切ることが出来ない。
ナイフの使い方もそうだが、リックの一番厄介なところはこの敏捷性にある。機動力と言い換えてもいい。一瞬でも意識を切らせば見失ってしまいそうな高速戦闘の中、少しずつ俺の体に裂傷が刻まれていく。
──悔しいが……地力では勝てない。
「くそっ!」
勝つためには……使うしかない。
俺の天権を。
俺の禁術を。
本当なら使いたくはない。ずっと隠してきたことだから。この力を知られることで、王都の連中に発見されることを避けたかった。けど……
(このままだと……負ける)
俺が敗北したらどうなる?
守ろうとしたものが……リリィがこいつに捕まってしまうかもしれない。その先リリィがどんな目に遭うのかなんて、考えたくもない。俺の、力不足のせいでそんなことになるなんて。
そんな、そんなことは……
「許容……出来ないッ!」
もう二度と躊躇ったりしない。自分の命を賭けることを。
俺はもう、知ってしまったから。
──後悔の味を。
《剥奪者よ、賊心あまねく現世よ、骨肉排して慈悲を請え──》
気付けば俺は詠唱を開始していた。
復讐の為だけに磨いてきた刃を顕現するための。
《──刃は救いに非ず、その身を焦がす焔に同じ。然れば……我此処に、愚者の理を顕す──》
それは事象具現型の魔術。その最高峰。
己の肉体を糧に燃え上がる紅蓮の炎。
《出でよ──灼熱の剣!》
俺の唯一にして最強の武器が、今、顕現した。




