「夢想眼」
次の日、リンドウがいつものように俺を連れ出すかと思いきや、目の前に越して来た新たな隣人、イリスを連れていってしまった。恐らくあの部屋に行くのだろう。
また後で呼ばれるかもしれないが、とりあえず朝一で弄られることはなくなった。ラッキー、と思うことにする。
そういえば、あのイリスという娘は何のために連れてこられたのだろう。
スザクが連れてきたということ以外に分かっていることはない。昨日はあまり話せなかったし、今夜また聞いてみるのもいいだろう。どうせ寝れないのだ。時間はある。
「…………」
何だろう。
不思議と落ち着かない気分だ。
人間は慣れる生き物だというからな。今までのサイクルと少し違うことがおきたせいで違和感があるのだろうか。
今までと違うと言えば、イリスが来たこともそうだが……リンドウに連れて行かれるときの、彼女の表情が少し気にかかった。
恐怖という感情。思ったよりも分かりやすいものだ。
彼女は必死に隠そうとしていたみたいだけどな。
「…………なんだろうな、この気持ち」
俺は心配しているのか?
違うだろう。哀れに思っているだけだ。昨日会ったばかりの奴に感情移入するなんて馬鹿馬鹿しい。イリスがどうなろうと俺には関係がないことだ。四肢を引き裂かれようと、その綺麗な顔が火で炙られようと、究極死んでしまったとしても、俺には関係がないことだ。
「…………ちっ」
どうもイライラしていけない。
最近、感情の浮き沈みが激しくなってきた気がする。頭の中がごちゃごちゃしているイメージ。片付けようにも、収拾がつかなくなってしまったゴミ屋敷のようだ。
ゴミ……ゴミ……そう、全部ゴミだ。
俺は俺のことだけ考えていればいい。他人なんか気にしても……どうせ裏切られるだけだ。だから捨ててしまえばいい。他人なんて、それこそゴミのように。
それが正しい。
そうだろう……シェリル?
二時間か、三時間。
体感にしてはそれくらいの時間を置いて、リンドウはイリスを連れて帰ってきた。イリスの体を盗み見ると、あちこちに怪我をしているようで血が滲んでいた。
思ったより派手な傷は無い。歩き方にも問題はなさそうだし、そこまで酷いことはされていないようだ。
牢を空けたリンドウは雑な手つきでイリスを放り入れ、鍵をかけると満面の笑みを浮かべてこちらに振り返った。気色の悪い笑みだ。なんでイリスのときは仏頂面で俺のときはその笑みなんだよ。
「出ろ。お楽しみの時間だ」
「…………」
「お、今日はクール系か。残念。発狂系や懇願系なら面白かったのに」
リンドウは若干詰まらなそうな顔をして俺の牢を開け、いつものように連れ出した。
連れ去られる俺。牢を出るときにイリスと目が合った。
「…………ッ」
瑠璃色の瞳。
その宝石のような瞳を埋め込んだ顔は、はっきりと俺にその感情を伝えた。昔から人の顔色ばかり伺ってきた俺だ。すぐに気付いた。気付いてしまった。
「ほら、行くぞ」
足の止まっていた俺を、リンドウが無理やり連れて行く。
俺は引っ張られながら、リンドウに付いていく。それからいつもの日課をこなす間、イリスの表情が俺の頭から離れてくれなかった。
いつもより短めに終わったのは俺の反応が薄かったことと、イリスの相手をしていて時間が取れなかったことの二つの理由があったのだと思う。リンドウによって痛めつけられた後、牢屋に入れられた俺をイリスが同じ表情で出迎えた。
リンドウが去った後、イリスは居ても立ってもいられないといった様子で俺に話しかけてきた。
「あ、あの……大丈夫? 結構長いこと連れて行かれていたみたいだけど……」
声音もそう、思ったとおりの感情だ。
逸らしていた視線を上げると、思ったとおり。イリスは『心配げな』表情で、俺を見ていた。
「…………」
「ご、ごめん、疲れてるわよね」
「…………うるさい」
「え?」
「うるさいっつってんだよ!」
俺の大声に、イリスはビクッと体を跳ねさせていた。俺とは違って牢に閉じ込められているだけの彼女は、俺の態度に驚いたのか一歩後ずさって俺から距離を取っていた。
「ど、どうしたの? 昨日と大分雰囲気が違うけど……」
「お前には関係ねえだろうが! 耳障りだからさっさと黙れ!」
「ご、ごめん……」
「煩い、黙れ!」
謝罪なんていらない。
言葉なんていらない。
俺は俺だけで完結しているのだから。以上も以下も無い。だから……そんな憐れむような目で俺を見るな! 俺は俺だ!
「ぐっ……!」
俺は痛む頭を抱えて部屋の隅で蹲る。
眠れない癖に、眠るフリをする。
そうでもしないと、壊れてしまいそうだったから。
辛うじて保っていた均衡が崩れてしまいそうだったから。
俺は特段不幸な人間なんかではない。この世には俺よりももっと酷い境遇の人間がもっといるはずだ。だから……俺は最低ではない。
そうでも思わないと……やっていられなかった。
「…………」
イリスは何も言わず、そんな俺の様子をじっと見ていた。
夜が更け、眠らなければいけない時間になるまで、ずっと……ずっと……。
感情とは水に似ている。
精神とは器に似ている。
例えるならば、器に満たされた水のイメージ。
その時々によって変わる器に、その時々で変わる水が入っている。器の形状はどうか? 耐熱性はどうか? 穴は空いていないか? 水の重さはどうだ? 温度はどうだ? 融解性はどうだ?
人は常に自分という精神の器に、感情という水を飼っている。普段は理性やら常識が守ってくれているその器も、ふとしたきっかけでその波紋が揺れるのだ。
振動は少しずつ、大きく、大きく。
俺という精神の器は既に限界近かったのだろう。
だからその日の感情の熱に、俺は耐えられなかった。
俺は狂ったように雄たけびを上げていた。
いや、狂ったように、どころか実際に狂っていたのだろう。俺はまるで幽体離脱したかのように、その光景を上空から見上げていた。自身の狂態を見せられても、感じ入るのは「ついに壊れてしまったか」という嘆息だけだ。
結局、仲間が助けに来てくれるかもなんて淡い期待と、また裏切られるのではないかという不安に俺は押しつぶされてしまったのだろう。いつまで経っても現れない救助に、いい加減俺の精神は限界だったのだ。
いつまで続くと知れない地獄。
こんなもの、死んだほうがマシだ。
いっそ死にたい。殺してくれ。
俺はそういう意味の言葉を叫び続けていた。自分で舌を噛み切った。しかし、それも不死の天権に防がれる。ならばこのまま自殺を続ければいい。その時に至るまでは地獄だが、やがて俺の魔力が尽きれば俺は死ぬ。
そんなことをぼんやりと考えていた。
「──タ──かりし──い」
誰かの声が聞こえる。
俺の声にかき消されないように、大声を上げる少女の声が聞こえる。
「見──い──のよ!」
あの少女は誰だ?
見たこともない少女。
銀髪を揺らし、牢の隙間から必死にこちらに手を伸ばしている。
誰だ? 誰なんだ、お前は!?
「私の目を見なさい! カナタ!」
少女の声にその姿を視界に収め、その瑠璃色の瞳を写した時。
世界が、音を立てて崩れ落ちた。
「────!?」
天井が、床が、空間が、真っ白な世界へと作り変えられていく。
子供の積み上げた積み木が一斉に崩れるかのように崩壊を続ける世界。とうとう視界にまで異常が発生してしまったのだろうか。俺はあまりの光景に瞬間的に正気に戻されていた。
今立っている場所すらも不確かな中、少しずつ色を取り戻した世界はとある形へと形成される。
やがて静止した世界では木製の本棚がどこまでも、それこそ天に届くのではないかという高さまで続いており、それが俺の両側に二つあった。どちらも同じ高さを持つビルのような本棚で、そこにはぎっちりと本が詰め込まれている。
明らかに重量オーバー。今この瞬間に倒れこんできてもおかしくないほどのアンバランスさで、その本棚は聳え立っていた。
さらに頭上には謎の半透明の球体が浮いており、それをまるで衛星か何かのように取り囲みゆっくりと旋回する本の群れ。どこを見ても本、本、本。言ってしまえばそれだけの世界だった。
もしも、この世界を形容するのなら……
「と、しょかん?」
「ええ、その通りよ」
いつの間にか俺の目の前に立っていたイリスがそう言った。
いや、最初から居たにはいたのだろう。しかし、このあまりにも広大な世界に魅入られていた俺は気付くことができなかったのだ。
「良かった、精神も安定したみたいね」
「……あ」
イリスに言われて、俺はようやく自分が陥っていた状況に気が付いた。
そうだ……俺……。
「……悪い」
「謝らなくていいわよ。貴方も色々と限界だったようだし。落ち着くまでここにいるといいわ」
イリスはそう言って指を鳴らす。
するとさっきまで無かったはずのテーブルと椅子が二脚、俺達の前に現れた。
この世界に来てからありえないこと続きだったが、この光景には素直に驚いた。驚くだけの感情が、俺の中に戻ってきていた。
不思議と気分が落ち着く。
俺は周囲を見渡して、イリスに問う。
「ここは……どこなんだ?」
「ここは私の作った精神世界よ」
「精神、世界?」
聞き慣れないワードに、俺は首をかしげる。
「そ、貴方も聞いたことくらいはあるんじゃない? この力のことを『魔眼』って呼ぶのよ」
魔眼。
そう呼ばれる瞳があることは知っていた。魔術について学ぶときに、王城の蔵書から見つけたワードだ。俺達の天権と同じように、後天的に習得することが不可能な特殊異能。
確か、いくつかの種類があったはずだが……
「対象と精神をリンクさせる魔眼。確か名前は……『夢想眼』」
「あら、名前まで知っていたの」
「たまたまな」
そもそもの絶対数が少ないことからあまり知られてはいない魔眼の能力。クラスメイトにも似たような眼の能力者がいたが、それ以外で実際に体験するのは初めてのことだった。
「外の世界はこの世界に比べて時間の流れが凄く遅い。ここでの一ヶ月が外では一瞬なのよ。だから、好きなだけくつろぐといいわ」
イリスはそう言って、一冊の本を手に取った。本棚から取り出したのではない。彼女が手をかざすとまるで引っ張られるように本が飛んできたのだ。この精神世界では彼女はかなり好き勝手できるようだった。
ぱらぱらと流し読むように本を読むイリス。
「……悪い、迷惑かけたな」
「別に。読みたい本もあったし丁度良かっただけよ」
「……そうか」
きっとこれは彼女の優しさなのだろう。
気を使って、俺をここで休ませてくれているのだ。さっきの俺は少し、その……なんだ、おかしくなっていたから。
「魔眼、か。便利な能力だな」
「……そうでもないわよ」
「え?」
「特別ってのは、それだけ不自由ってこと。貴方も変な能力を持っているみたいだし、少しは分かるんじゃない?」
俺の言葉が不服だったのか、唇を尖らせてイリスが不満を漏らす。
いや、不満というよりはもっと深い、悔恨のようなものだろうか。イリスの言葉から、そんな感情を感じた。
「あれだけの時間痛めつけられて貴方の体にはそれらしい傷が見当たらない。さっきみたいに精神が先に音を上げたのが良い証拠ね。貴方、不死種か何かなの?」
「そのアンデッドってのが何か分からないのだが……多分違う」
「でしょうね。不死種にしてはまともすぎるし」
「…………」
やはり、俺の能力はイリスから見ても異常に見えるらしい。
天権のことを、目の前の少女に話すかどうか逡巡していると、
「どうかしたの? 何か話したそうに見えるけど」
「……え?」
「別に良いわよ。退屈しのぎぐらいにはなるだろうし。貴方が話したいというのなら聞き役くらいにはなってあげるわ」
本をテーブルに置いて、こちらの様子を伺うイリス。
その様子を見て、気付いた。
俺は誰かに話したかったのだ。
自分の中に抱え込んだこのドロドロとした感情を。理解して欲しくて、共感して欲しくて。俺は誰かに、分かってもらいたかったのだ。
俺はゆっくりとイリスに今まであったことを話した。
この世界に呼ばれ、天権を授かり、その力を使って戦ったが、その結果裏切られる形でここに連れてこられたこと。
辛かった。痛かった。悲しかった。
胸が張り裂けそうなほど。息が詰まりそうなほど。心が壊れてしまいそうなほど。
俺の話をイリスは黙って聞いていた。
黙って聞いてくれた。
俺は途中から涙を零し、嗚咽交じりに全ての話を話し終えた。
そして、それからイリスは俺に聞いた。
「貴方はこれからどうしたいの?」と。
どうしたいのか。
考えたこともなかった。
ただ生きることに精一杯で、これから何がしたいのかなんて考える余裕がなかった。だけど……もしも叶うなら。願いが一つだけ、叶うというのなら。
「俺は……もう一度、あの日常を取り戻したい」
退屈で、平凡なあの日常を……元の世界を、俺は取り戻したかった。
「……そう」
少しだけ羨ましそうな表情を作ったイリスは、
「貴方には帰るべき場所があるのね……」
と、眼を伏せてそう言った。
イリスの過去に何があったのかはしらない。
それっきりイリスは口を閉ざし、沈黙が支配した。
クラスメイトに裏切られたあの日、俺はもう誰も信じないと心に決めた。信用も信頼も、裏切られるものなのだから。あんな思いをするくらいなら、もう二度と誰にも期待しない。そう、誓ったのだ。
けれど……
目の前の寂しげな少女のことが、どうしても俺は気になって仕方がなかった。
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あの不思議な図書館での出来事以来、俺とイリスはよく話をするようになった。イリスは自分の過去を語るようなことはしなかったが、この世界の知識が足りない俺に色々なことを教えてくれた。
まだ少女と言ってもいい年齢の彼女が、なぜこれほどの知識を有しているのかは分からなかったが、もしかしたらあの図書館が関係しているのかもしれない。
あの精神世界では時間の流れが遅いから、あらゆる知識を吸収することが出来るのだろう。最も、記憶にあることしか閲覧できないようで、単に記憶力が増す能力だと彼女は語った。
「けど、それでも十分優秀な能力だろ。正直羨ましいぜ、最近物忘れが酷くてな」
「それは貴方がものぐさなだけでしょう」
「いや、そう言われるとぐうの音も出ないけどよ……」
わりと口の悪いイリスとの会話は楽しかった。
俺が精神的Mという意味ではなく、こうして普通にお喋りするのが久しぶりのことだったからだ。
もう一人ではない。
そんな風に思えた。
もしかしたら俺はイリスに依存していたのかもしれない。
この暗く、寂しい世界で一人ぼっちになるのは耐えられないから。俺はイリスに希望の光を見出していたのだと思う。同族意識、そんな感情があったことも否定できない。
誰も信じない。俺は一人でいい。
そんな風に思ってはいても、実際そうなると寂しいものだ。
俺はそれをイリスが来るまでの一週間で思い知らされていた。
信じなくても、ただ一緒にいることくらいは許されるのではないか。
そんな惰性で俺はイリスに付き合い続けた。
もしかしたらそれが間違いだったのかもしれない。運命というものがあるとしたら、これは必然だったのだろう。
不死鳥は蘇る。
何度でも。何度でも。
まるで決められた運命のように。
だから、これは必然だ。
その運命の日の朝は、いつもより少しだけ寒い朝だったことを覚えている。




