「異世界」
「……ん……」
ゆっくりと瞼が持ち上がる。
まず視界に入ったのは見たことない天井。真っ白なタイルをはめ込んだかのようなその天井は自分の家のものでも、学校のものでもなかった。
ここはどこだろう。
当然の疑問に導かれて、俺は上体を起こす。
俺が目を覚ましたのはビジネスホテルの一室のように狭く、簡素な装飾の一部屋だった。ほとんど唯一と言っていい家具であるベッドに寝そべっていた俺は起き上がり、靴を履いたまま寝ていたことに気付く。
一体何があったのか頭の中の記憶を探し……俺は教室での出来事を思い出した。
(そうだ……皆は?)
周囲を見渡しても俺以外の人間がいるようには見えない。隠れる場所もほとんどない。ちらりとこの部屋唯一の扉に視線を移し、外に出てみるかどうかしばし悩みこむ。
ここがどこか分からない以上、迂闊に動くのは危険なように思えたし、動かないのもそれはそれで危険に思えた。
しかし、もし仮にコレが誘拐か何かだとしたら、大人しくしている理由はない。
俺が逡巡していると……
──コンコン──
今まさに視線を向けていた扉がノックされる音が耳に届いた。
「……ッ!」
返事をする、隠れる、武器を探す。
色々な選択肢が頭を過ぎるが、それらを実行するだけの余裕もなく、目の前の扉が開かれた。
結果として、俺は立ち尽くしたままという実に間抜けな体勢でその人物を迎えることになってしまった。
対面したその人物は起き上がっている俺に少しだけ驚いて、
「良かった! 目覚められたんですね!」
と、嬉しそうな声を上げて笑みを浮かべた。
「え、えっと……」
俺は予想外の展開に、うまく言葉が出てこなかった。
誰だってそうだろう。誘拐犯が出てくるかと思ったところに『メイドさん』が現れたら誰だって困惑する。
「お腹空いてませんか? 空いてますよね? 何せ三日も眠ったままでしたから。すぐコックに何か作らせますので、少々お待ち下さい!」
こちらの返事も待たずにスカートを翻したそのメイドさんはあっという間に部屋から出て行った。突然すぎて、完全に置いてけぼりを食らった格好だ。何、この状況。
と、思ったらメイドさんはあっと言う間に戻ってきた。
「あ、す、すいません。自己紹介するの忘れてましゅた!」
息も絶え絶えなのに、早口でまくしたてるもんだから噛んでしまっている。
「いや、落ち着いて。ゆっくりでいいから」
「は、はひっ! すいません!」
自分以上に動揺している人が居れば自分は不思議と落ち着くものだ。さっきまで不安に思っていたのもどこへやら。むしろ今はこのメイドさんが心配でならなかった。
「ほら、深呼吸して」
「すー、はー、すー……ん!? げほっ、ごほっ!」
慌てて深呼吸したせいで咽るメイドさん。
……めんどくせー。
「あー、えーと。俺は青野カナタ。君は?」
このままではいくら経っても話が進みそうになかったので俺は自分から名乗ることにした。
「す、すいません」
気を使わせてしまったことに一度謝ったメイドさんは、服を叩いて皺を伸ばした後、背筋を伸ばして
言った。
「私はこの城のメイドをさせてもらっておりますシェリルと申す者です。今後とも、よしなに」
きっちり腰を折る優雅な所作で一礼したメイドさん。
その動作は気品に溢れており、彼女が一流のメイドなのだと思わされるだけの完成度であった。
だが、しかし……
「あの、さ……」
「? 何でございましょう」
「……鼻水、垂れてるよ」
正直、台無しだった。
シェリルと衝撃の出会いを果たしてから20分後。
赤い顔をしたシェリルがホテルとかでしか見たことが無いサービスワゴン(料理を運ぶ台車みたいなアレだ)の上に料理を乗せて戻ってきた。
「そ、その、先ほどは失礼しました。お食事の方をお持ちしましたので、よろしければどうぞ」
「ああ、うん。なんかごめん」
何だか悪いことをした気分になってしまい、思わず謝ってしまう。
シェリルが余りにも恥ずかしそうにしているのが原因だ。
綺麗な金色の髪が目立たなくなるくらいに顔を真っ赤に染めたシェリルは俺の目の前で食事を給仕してくれているが……食事をするような気分ではなかった。
お腹が空いていないわけではない。だが、俺はこの現状がいまだ飲み込めていないのだ。ひとまずはその説明なしには食事も喉を通りそうになかった。
「あのさ、悪いんだけど……今は食事をする気分じゃないんだ」
だから俺は悪いと思いつつもシェリルにそう告げた。
すると彼女は俺の言葉を予想していたのか、苦笑して、
「気持ちは分かりますよ。他の皆様もそう言う態度を取る方は多かったですから。大丈夫、毒なんて入っていませんから」
「あ、いや、その辺りを心配してた訳じゃないんだけど……」
「そうなんですか?」
「いやまあ……全く心配していなかった訳でもないんだけどさ」
我ながら優柔不断というかはっきりしない。
なんといったものかと悩んでいると、くぅ~、と俺の腹の虫が空腹を訴え始めやがった。
「…………」
「えーと……お食事、取ります?」
は……恥ずかしっ!
「まあまあ、三日も寝ていたんですからお腹が空いても仕方が無いですよ」
笑って食事を勧めてくれるシェリル。案外良い奴なのかもしれない。評価を頼りなさそうなメイドから少し上げておこう。
「でも、食べづらいって言うのなら……そうですね」
シェリルは少しだけ悩む様子を見せてから、
ひょい。
俺が止める間もなく、置いてあったスプーンを拾い上げスープを口に運ぶ。
「うん。美味しい! ささ、毒見もしましたのでどうぞお召し上がりください」
そう言って自分の口をつけたスプーンを俺に手渡すのだった。
確かにこれで毒の心配はなくなったけど……
「え? こ、これで食べるの?」
「はい、そうですけど……どうかしました? 顔、少し赤いですけど」
だ、だって、このまま食べたら、か、か、か、間接キスに……ッ!?
「? 冷めないうちに食べたほうが美味しいですよ?」
「お、おう……」
意識しているのは俺だけ? 俺だけなのか?
シェリルの様子を伺っても、小首を傾げるだけで特に気にした様子はない。
やっぱり俺が気にしすぎているだけか。ま、まあ、これぐらいなんでもないよな。うん。平常心平常心。
俺はゆっくりとスプーンをスープに通し、口に運ぶ。
口を開いて、スプーンを口内に入れたときだ、
「あっ!?」
シェリルが突然驚いたような声をあげた。
「んぐっ、な、何?」
慌てて飲み込んで、様子を確認すると、
「か、かかか、間接キス!?」
今更反応するんかーいッ!
マジでそんなツッコミを入れそうになってしまった。
このメイド……とことん俺のペースを乱しに来てやがる!
「い、いえ、すいません。構わずお食事を続けてください」
再び真っ赤な顔になったシェリルは顔を背けてそう言った。
それから俺は非常に微妙な空気の中、食事を続けるのだった。
味? 分かるかそんなもん。
「えーと、それでさ、いくつか聞きたい事があるんだけど……いいかな?」
「はい、勿論です」
気まずい食事を終えた後、俺はシェリルに気になっていたことを聞くことにした。俺の問いに、頷いたシェリルは「ですが……」と、口を挟んできた。
「まずは私から説明したほうが色々とスムーズに話が進むかと思います。質問はその後で、ということでよろしいですか?」
「……それもそうだな。分かった。じゃあそっちからどうぞ」
シェリルの提案に頷いた俺は手を出して、話を勧める。
「では、まず初めにここがどこか説明しますね。今私たちがいるのはハイリッヒ王国の中枢、王城です」
「……ほう」
ハイリッヒ王国。
聞いた事がない国名だ。
南アフリカの方かな?
「今回カナタさん達をお呼びしたのは他でもありません。我が国の窮地を救って頂きたいのです。我が国は現在、魔族と呼ばれる外敵に国境を越えられ、存亡の危機にあります」
「…………ほう」
窮地を救う? 俺みたいな学生に何か出来るとは思わないが……それに魔族? 何かの隠語だろうか? 最近は表現にも規制がバンバンかかるからな。そこらへんに気を使っているのだろう。
「当然皆様には十分な衣食住と、最大限の報酬をお約束致します。ただ、王国も財政難ですから、お力をお貸しして頂けないとなると、その辺りの保障が怪しくなってきてしまいます」
「………………ほう」
いきなり話が俗っぽくなったな。
まとめると『従わなければポイするよ?』みたいに聞こえるのは俺だけか?
「危険ではないかと思われるかもしれませんが……ご安心ください! 皆様には『天権』が備わっております! その能力があれば、魔族なんて足元にも及ばぬことでしょう!」
「……ほう?」
て、てんけん? 点検?
「と、言うことで……私たちにお力をお貸しいただけないでしょうか、勇者カナタ様」
身を乗り出して俺の手を取ってきたシェリル。
正直、彼女の話の八割くらいが理解できていなかった俺は慌てて両手でTの字を作り、タイムを取る。
「ちょ、し、質問!」
「はい、どうぞ」
「あのさ……いきなり脅威に立ち向かえ、みたいなこと言ってたけどさ、日本に返してもらえたりはしないの?」
「ニホン、ですか? それがカナタ様の居た世界の名前なのですか?」
「ん? 世界?」
さっきからどうにも話が噛み合っていない気がする。
少しずつ心配になってきた俺はもう一度訊いてみる事に。
「あのさ、ここって何大陸?」
「アストル大陸、と呼ばれていますよ」
……それ、どこやねん。
「ま、窓!」
「カナタ様!?」
突然立ち上がり、窓に駆け寄った俺をシェリルが呼び止めるが気にしない。そんなことより、今の俺には確かめることがあったから。
頑丈に出来ているのか、妙に重い窓を開け放ったその先には……
──見たこともない、幻想的な風景が広がっていた。
かなり高い位置から見下ろしているのか、眼下に広がる町並みはどこまでも遠く広がっている。そして、その町並みを囲むように、ぐるっと森が取り囲んでいた。
まるで森林の中をそこだけ切り抜いたかのように都市が形成されている。遠くに見える山々も、日本ではまずお目にかかれない大きさだ。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。その時だ、
強い風を感じたかと思ったら、視界が一瞬真っ暗になった。
「な、なんだっ!?」
慌てて窓から顔を出して確認すると、そこには有り得ないものがいた。
大きな二対の翼を広げ、悠々と空中を飛び回るその姿は……
「ド、ドラゴン!?」
夢に見た、竜の姿そのものだった。
「ああ、あれは飛竜ですね。見るのは始めてですか?」
「あ、当たり前だろう……」
俺の隣にやってきたシェリルが竜を見て、「速い飛竜ですねー」なんて暢気なことを言っているが……俺はそれどころではなかった。
「な、なあ、アレ何なんだよ!」
「だからワイバーンですって」
「いや、そうじゃなくて! いや、そうなんだけど!」
自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。
落ち着け、興奮しすぎた。こういうときこそ冷静にいけ。
「すー、はー」
俺は先ほどシェリルに薦めたように、自分で深呼吸して息を整える。
「あ、あのさ」
「何ですか? カナタさん」
「ここって……もしかして異世界?」
「はい、カナタさんから見たらそうなりますね」
なんでもないようにそう言ったシェリル。
俺は内心、爆発しそうだった。
「さ……」
「さ?」
「先に言えよぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおッ!」
ここに来てようやく現状を理解した俺が、咆哮を上げた瞬間だった。