「始まり」
青野空。
彼はどこにでもいる普通の会社員だった。
妻を持ち、子供も生まれたばかりの頃。仕事も順調に進み、周囲から見ればまさしく成功者と言うに相応しい道を歩いていたことだろう。
だが……彼の内心は常に想像も出来ない空虚な塊が漂っていた。
虚しい。およそ世間一般に幸せと言われるモノを手に入れても彼の心が満たされることはなかった。それは彼の感性が世間からずれたものである事を示していた。
自分は他人とは違う。普通とは違う感覚を持っていることを空は自覚していた。
だから彼は自らの性質を周囲に隠した。楽しげに笑い、いかにも幸せであるかのように振舞った。だからこそ周囲は気付くことはなかった。彼の内側に潜む孤独の闇に。
空自身もまたそれを見ないように努めた。意識したところでどうなるものでもないし、彼自身自分が何を求めているのか分からなかったからだ。
だが、人のサガというものはそう簡単に変えられるものではない。
日常を生きる空の心には日に日に目に見えぬストレスが溜まっていった。
つまらない日常。代わり映えのしない日々。特に大きな問題も起きず、平々凡々とした生活を続ける毎日。
一言で言えば空は飽いていた。
普通の人生では味わえないような非日常を求めていた。
そして……その日、転機は訪れた。
「よう青野。今日これから暇か? 久しぶりに飲みに行こうぜ。虎鉄と揚羽にも声はかけてあるんだ。今日は俺が奢ってやるからよ。たまには同期で語り合おうぜ」
同僚の竜胆に飲みの誘いを受けた、その瞬間のことだった。
仕事仲間と飲みに行くか、家族の待つ家に帰るか。
そんなどこにでもある平凡な選択肢に迷う彼の前に……異世界への扉が開かれた。
青野空を中心として広がる魔法陣。その異世界召喚に巻き込まれたのは彼の同僚達だった。
総勢23名。決して小さくはない会社だったが、それでもたまたま彼の近くに人が集まっていたのだ。混乱する同僚達を前に、彼の心はただ一人打ち震えていた。
「……なんだよ、これ」
体中を痺れさせるかのような──歓喜の渦に。
そこから先はお決まりの展開だった。
国王に頼まれ魔族との戦争に巻き込まれる召喚者達。
その頃は特に魔族の力が強かった。空達はそれを自分自身に与えられた使命なのだと受け入れ、戦い続けた。
長く、苦しい戦いだった。双方共に甚大な被害が出た。
その中で少しずつ、少しずつ空の心は磨耗していた。
非日常を求めた心はやがて日常を求めるようになっていたのだ。
そして、戦い続ける日々に嫌気の差し始めた頃……彼は知った。異世界召喚の仕組みを。自分こそが周囲の人々をこの地獄に誘いこんでしまったのだと。
「国王様! お願いします! どうか……他の人達だけでも良い! 元の世界に返してやってください!」
彼は懇願した。その時にはすでに何人もの仲間が死んでしまっていた。
それら全ての死の責任を前に、空は泣きながらに頼み込んだ。
「俺はどうなっても良い! だから……だから、どうかお願いしますっ!」
彼の内心を知れば何を今更と人は笑うだろう。
彼自身もそんなことは分かっていた。
だから……
「魔族を滅ぼし、この国に平和が訪れた暁にはその願いも叶うだろう」
国王からの言葉を前に、彼は誓ったのだ。
どんな手段を用いてでも……仲間達を元の世界に帰すのだと。
それから彼は常に最前線で戦い続けた。他の誰も傷つけさせない。自分一人の手で全てを終わらせるのだと。だが魔族との戦争は彼一人の力でどうにかなるものではなかった。
「……ここも随分と静かになったな」
気付けば彼の同僚は僅か四人ばかりとなっていた。
人影の消えた訓練場で竜胆がポツリと呟く。それを聞く空は胸の奥を突き刺されたかのような痛みを覚えていた。
「仕方ないよ。これは戦争なんだ」
虎鉄が竜胆に暗い声を返す。
強い者が生き残り、弱い者が淘汰される。それこそが戦争の本質だと、その場の全員が理解していた。
「ねえ、アンタ達は……死なないわよね?」
揚羽の縋るような声。だが、二人は何も言うことが出来ない様子だった。
だから……
「大丈夫だ」
空が代わりに答えた。
「もう誰も傷つけさせない。魔族は……」
もうその頃にはきっと、彼の心は限界を迎えていたのだと思う。
「──俺が、滅ぼす」
月を見上げてそう宣言する空。
その瞳には黒々とした決意が灯されていた。




