「カナタの想い」
大広間に現れたイリス。
俺は即座に彼女の体を抱えて離脱しようとした。
もともとそれが目的だったのだし、これ以上魔族に付き合っていたらそれこそ命が幾つあっても足りないからだ。
だが……イリスに向け、伸ばした俺の手は何者も掴むことはなかった。
俺の手が触れる寸前、イリスの瞳が俺を射抜いたからだ。
音もなく、世界が再構成されていく。
そこがイリスの作った精神世界なのだと理解するのに時間は要らなかった。
だが……俺にはイリスがなぜ、この空間に俺を連れてきたのかが理解できなかった。
「……カナタ」
困惑する俺に、懐かしい声音で語りかけるイリス。
「カナタ……会いたかった。とても会いたかったわ」
「……ああ、俺もだ。ともかく無事のようで安心したぞ。さっさとこんなところはおさらばしようぜ。今なら逃げられる。魔族もなぜか追ってはこないようだし……」
言いかけて、気付く。
イリスの表情に灯る感情。
それは喜びとも、安堵でもなく──悲哀に満ちた表情だった。
「カナタ……私は貴方に会えて本当に良かったと思っているわ。これまでずっと私を支えてくれたこと、凄く感謝しているの」
「……おい、イリス?」
「ほら、私ってわがままでしょ? 一緒にいるだけで大変だったと思う。一人が良いなんて言いつつ、そんなこと出来もしない私にはカナタと一緒にいるしか生きる方法はなかった。そんな依存した関係なんて、私の望むことじゃないのに。でも……貴方はそれでも私をただの一度だって拒むことはなかった」
「イリス、何を言ってる? なんで、そんな……別れの言葉みたいなこと……」
震える声で問いかける。
それに対するイリスの答えは端的だった。
「みたい、じゃないわ。私はお別れを言いにきたの」
「…………っ」
イリスから告げられたその言葉に、俺は内臓が締め付けられるような想いに駆られた。
だって……シェリルに背中を押され、俺はようやく気付いたばかりだったのだ。自分の望むもの。俺が本当に欲しかったものは何なのか、その感情に。
「カナタはもう私に煩わされることはない。私と一緒にいるメリットなんて最初からカナタにはなかったのだから、こうすることはカナタにとって一番の選択のはずよ」
違う。
そんなことはない。
「私はずっと不安だった。いつ裏切られるか分からないこの関係が。だって私はカナタのことを信じたかったから。心の底から全てを預けたいと、そう思ってた。そうすればヴェンデと一緒に居た時のような安心感が得られると思ってた。でも……やっぱり駄目なのよ、カナタ。私は失うのが怖い。もう二度と、あんな想いはしたくないの」
そっと胸を抱くイリス。
まるで寒さから身を守るかのように。
まるで外の世界を拒絶するかのように。
でも、それは……
「失うのが怖いから、手に入れるのを諦めるってのか?」
そんなもの、ただの逃げだ。
ずっとそうしてきた俺には良く分かる。
逃げて、逃げて、逃げて、その先に何がある?
ただゆっくりと朽ち果てるだけだ。
体も、魂も、そして何より大切だったはずの想いさえも。
「……そうよ」
だがそれをイリスは良しとした。
痛みと喜びを天秤にかけ、両方を捨てることで選択しないことを選択したのだ。それも一つの選択なのだろう。そのイリスの選択を無下にする権利など俺にはない。
だけど、それでも、俺は……
──イリスとずっと一緒にいたい。
その願いに気づいてしまっていた。
「……ここに来る前にステラ達は助け出してきた。お前以外の連中は全員避難を終えている」
「そう……良かったわね。それでこそこんなところまで来た甲斐があるというものだわ。おめでとう」
まるで人事のように語るイリス。
アーデルが、拓馬が、紅葉が、奏が、クロが、藍沢が必死になって戦ってきたその理由に気付きもしないイリスに、俺は悲しみと同時に怒りを覚えていた。
「……お前、まだ分からないのかよ」
「何が?」
「俺が……俺達がこんなところまで来たのはお前を助けるためだってことをだよ!」
「…………」
「藍沢が死んだ! アーデルも拓馬も紅葉も重傷だ! 全部お前を助けるために戦った結果だろうが! 命まで賭けて、それでもまだ信じられないってのかよ!」
「……それが私のためだった証拠なんてないわ。ただ単純に利害が一致しただけの人だっているでしょうに」
「確かに他の奴らが腹の中で何を考えているかなんて知ったこっちゃねえよ。だがこれだけは分かる。少なくとも俺は……お前を助けるためだけにここまで来た」
イリスに詰め寄った俺は彼女の肩を強く掴む。
「復讐のことも考えた。ステラのことも考えた。魔族のことも考えた。だけど……俺が一番望んでいたのはお前の無事だったんだよ、イリス」
強く、強く。この想いを伝えたいと願う。
この胸から溢れる感情を直接伝える術があればどんなに幸せだろう。
言葉にした瞬間から想いは掠れ、霞んでしまう。
届けたい想いの欠片さえ、届くかどうかは分からない。
しかし、それでも伝えようと思うのならば言葉にしなくてはならない。それしかこの想いを伝える術がないのなら、今こそこの言葉を贈ろうと思う。
「"愛している"、イリス。この世界の誰よりも、俺はお前のことが好きなんだ。お前が隣にいないなんて考えられない。だから……俺と一緒に帰ろう、イリス」
いつしか当然になっていたイリスとの生活。
一緒に綺麗な夜空を眺めたことがある。
食事がまずいと文句を言われ、喧嘩したことがある。
イリスが怪我をした時には涙目になった彼女を励ましてやったことがある。
だらだらと何の意味もない休日を過ごしたことだってある。
全部イリスと一緒に培ってきた感情だ。
これまでの日々、その全てにイリスがいた。
まるで本物の家族のように、寄り添い生きてきた。
俺も、イリスも独りでは生きてはいけないほどに弱かったから。
互いに依存し生きてきた。
でも……それでいいのだと、ようやく思えるようになったのだ。
他人から見れば歪な関係だろうと、不誠実な関係だろうと構わない。
イリスと一緒なら……俺は構わないんだ。
「私は……」
生涯初めての告白を遂げた俺に、イリスはゆっくりと口を開く。
瞳を見れば迷っているのが見て取れた。
もしかしたらイリスも俺と同じく、過去の日々を思い出してくれているのかもしれない。俺とイリスだけが共有した、あの日々を。
時間にして十数秒ほど。
時間をたっぷりとかけたイリスはやがて俺を真っ直ぐに見つめ、その"答え"を告げるのだった。




