「藍沢真の復讐」
カナタ達がクロウドと戦っている最中のこと。
藍沢真はかつてない強敵を前に極限まで集中していた。
一瞬でも油断すれば即死に繋がる。
それが分かっていたからだ。
「──奮ッ!」
目の前の敵……レオの拳が放たれる。
細く鍛え上げられた腕が生み出す衝撃は到底人の生み出せるものとは思えない。
触れた瞬間に粉々に全身が砕かれ、死に至る。
そんな必殺の拳を前に、藍沢が取った行動はただ一つ……
「"上だ"」
「むん!?」
強制的に意識を上方へ逸らされたレオの拳が空を切る。
その隙に脇を抜けた藍沢はあろうことか"全力で逃げ始めた"のだ。
「……敵に背を向けるだと? 何だそれは、その行為は……美しくない!」
自ら勇者と認めたものの情けない姿に、レオは憤慨と共に追いかけ始める。
だがその距離はなかなか縮まらない。
藍沢も特に足が速い部類ではないというのにだ。
(やっぱり……思った通りだ)
その様子を盗み見て、藍沢はにやりと小さく笑みを浮かべる。
確かにレオの拳は致命的な威力を持っている。
だがそれだけだ。
本体の移動速度、機動力という意味ではそこらの人間と変わらない。
魔族の中ではもしかしたら最低速の挙動。
以前戦ったときもそうだった。
壁をすり抜け逃げた西村に対し、レオは壁をぶち抜いて迫っていたがその速度は藍沢から見てものろかった。
魔族にしてはあまりにお粗末な速度。
スピードの面で藍沢は互角であると認識していた。
「待て!」
(待てと言われて待つ奴がいるかよっ!)
まさに脱兎の如く逃げ回る藍沢。
彼はこの戦い、負けるわけにはいかない。
なればこそ自らに有利な状況になるまでは軽々に突っ込んだりは出来ない。
カナタやアーデルならば強引に突破できたかもしれない。
いや、事実突破できただろう。
レオの能力は見たところ直接攻撃系の魔術。
射程もそれほどでもないので、カナタ達にとってはむしろ望むところ。もっともやりやすい相手と言える。
だが藍沢にはそれが出来ない。
彼らほど速くない。
彼らほど強くない。
真っ向勝負を選んだところで結果は目に見ている。
ならばどうする?
(より狡猾に、より卑怯に、より鮮烈に……俺にはこの『嘘』を使って戦うしかねえんだよ!)
藍沢真は間違いなく弱者だ。
しかし弱者イコールで敗者という訳ではない。
強者がまた、勝者ではないように。
「"後ろだ"」
藍沢は嘘を使い、注意を逸らす。
だが……
「分かっていれば……防げないこともないぞッ!」
レオの視線は藍沢を捕らえて離さない。
藍沢の『嘘』の弱点。
能力の効果を知るものには効き目が薄くなるのだ。
レオは前回のことからすでに藍沢の天権を看破している。
並みの『嘘』ではレオの注意を引くことは出来ない。
「くっ……」
「ようやく捉えたッ!」
レオの拳が藍沢に向け、振り下ろされる。
藍沢は未熟な魔力コントロールで脚力を強化しているが、それでも回避することは出来なかった。
もともと魔術適性の低い藍沢の精一杯の回避術。
半ば自ら後方へ吹き飛ぶように跳躍したところへレオの一撃が追撃し……
──バギィッ!
鈍い音と共に骨の砕ける音が通路に響き渡った。
「ぐ……は……ッ」
吹き飛ばされた藍沢は腹部を押さえ、蹲る。
肋骨を折られたのだ。立ち上がることすら困難な激痛の中、
「ぐ……おおおォォォォッ!」
震える足に喝を込め、藍沢は二本の足で地面に立った。
立ち上がらなければ死ぬから……ではない。
今、藍沢が立ち上がったのはひとえに"誓い"のため。
「……ふむ。今ので決まったと思ったが……存外しぶとい」
「はあ……はあ……たりめえだ、こちとら背負ってるもんがあるんだよ。こんなところで……寝てる暇なんかねえ……」
「分からんな。お前にとって"奴ら"はそれほど大切な者だったのか? たとえどれほど大切だったとしても自分の命を捨ててまで復讐することに意味はあるのか? 貴様の行いは美しい。美しいが……同時にひどく愚かに映る。悲しいまでにな」
「…………」
圧倒的な力の差。
たった一撃で瀕死に追い込まれた藍沢はそれでもなお、レオを睨み続けている。レオの語った疑問など、微塵も持ってはいないのだ。
「……俺はよ、誰にだって譲れないことってのがあると思っている。あんたにだってあるだろう? これだけは絶対に許容できないっつー、絶対基準が」
「ああ。それがどうした?」
「それが俺の場合……嘘を吐きたくないっつーことなんだよ。俺に付いてきてくれた奴に、感謝している奴に、そして何より……俺自身に」
ゆらり、と藍沢の体が揺れる。
ダメージは最早限界だ。
勝ち目なんて零に等しい彼方にしかない。
だが、それでも……
「お前を殺したい……この想いを嘘で薄めたりなんかしたくねえんだよ」
体を支えるのは気力。
殺意のみを体に宿し、藍沢は語り続ける。
「……俺は屑だ。他人を攻撃することでしか自分の存在を証明できない矮小な人間だ。そんなこと、俺が一番良く分かってんだよ……」
それはもしかしたら最も不似合いな天権と呼べるかもしれない。
嘘を嫌った藍沢に宿った『嘘』の天権。
それは自己否定と自己肯定の狭間にある、歪曲した感情の産物だ。
二律背反の末に生み出された力は本人の意識しないところで、屈折し、捻じ曲がっていた。
他者に対する攻撃性の反映と言ってもいい。
自らの弱さにコンプレックスを抱え続けていた藍沢は最後の最後で自らの天権すら信じることが出来ずにいた。
与えられた名に満足し、踏み出すことをしなかった藍沢の弱点。
だがそれは本来、非難されるようなことではない。
人間とは誰だって臆病なものなのだから。
召喚者の誰一人"その領域"に至っていないのがその証明。
「けどよ……俺は知っちまったんだ。本物の強さを」
藍沢の脳裏を過ぎるのは一人の少年の姿。
あまりにも真っ直ぐに光り輝く恒星の姿。
「力が強いとかさ、頭が良いとかさ、そんなんじゃねえんだよ。自分でやると決めたからやる。成すべき事を為し、行くべきところへ往く。そんな"強さ"にさ、憧れちまったんだよ。笑っちまいそうだろ? こんな俺が今更何をって言いたいのは分かってる。強い奴ってのは最初から強いんだよ。精神の強度が、魂の器が違う。もしかしたらアイツがあんだけの魔力量を持ってんのはそのへんが影響してんのかもな。俺には到底届かない。どんだけ手を伸ばし、背伸びをしたって無理なんだ。弱者は弱者のまま。手に入れたつもりの強さは仮初でしかなく、本質は何も変わらない」
人はそう簡単に変わらない。
そのことを藍沢は誰よりも良く分かっている。
失意と、絶望の中、教え込まされてきた。
何年も何年も変えられなかった己の悪癖。
最後は友人すら唆し、地に落としてしまった。
「だってのによ……アイツら、笑って言ったんだ。『俺達も弱い人間だからその気持ちが良く分かる』ってよ。それを聞いた瞬間俺は安心したんだ。ああ、俺以外にも似たような奴はいたんだって。屑だったのは俺だけじゃなかったんだって」
ずっとそれでいいと思っていた。
友人達と一緒にいる間は劣等感に苛まれることなんて無かったから。
けどそれは結局俯いていただけ。下を向き、上を見ようとしなかっただけの話なのだ。
藍沢真は間違いなく弱者だ。
肉体や能力の話ではない。
その精神が誰よりも弱く、脆く、儚い。
そんなどこにでもいるただ一人の"人間"だった。
だが、しかし。
「俺はあいつ等のことをすげえ奴だって思ってる。弱者が敗者ではないように、敗者が弱者じゃない。俺は……あいつ等の人生を弱かったなんて誰にも言わせない。この、命に代えても!」
少年は強さに憧れ、自分もそうありたいと願った。
上を向き、歩き始めることを決めたのだ。
その瞬間に物語りは動き始めたのだろう。
他の誰でもない……
──藍沢真の物語が。
「そのためにはお前が邪魔だ……魔族。あいつらの無念を、雪辱を晴らさせてもらう」
「お前……まさか……」
自らの弱さを認めながらも強さを渇望した瞬間、藍沢は自分の核、その本質を悟った。
なんてことはない。
それはただの祈り。
誰よりも強くありたい、という唯一つの欲求だ。
その自らの本質に辿り着き、認識した瞬間……
──藍沢真の世界が構築を始めた。
「"至った"というのか!? この短期間で……真実も知らぬまま!?」
驚愕に顔を歪めるレオ。
だが、今の藍沢にはそれすら思案の外。
体の内側から溢れ出て来る力に従うように、藍沢はその"名前"を呼ぶ。
与えられたものではない。自分自身、その証明を。
「──『大嘘吐き』」
口から漏れた単語に苦笑が漏れる。
ああ……これはまさしく自分に相応しい天権だ、と。
「……くそっ、これだから召喚者というのは面倒なのだ。やはりあの時殺しておくべきだった。我が身の不徳、醜悪の極み。その清算は今、ここで!」
駆け出すレオの姿が見える。
己の本質に気付いたとはいえ、それで何かが劇的に変わるわけではない。
振り下ろされるその豪腕を、藍沢は回避することも出来ず……
──その腹部に深々とレオの拳が突き刺さった。
血が飛び散り、廊下を塗らす。
先のダメージでは動くことすら間々ならず、藍沢は木偶のように攻撃を受けることしかできなかった。
「……折角名を得たというのに、どうやらすでに手遅れだったようだな」
藍沢の体から腕を引き抜き、返り血を浴びながらレオはほっとした表情で呟いた。
「まだ……だ」
「強がるな。その出血だ、ものの数分と待たずにお前は死ぬ」
腹に風穴を空けられて生きていられるはずが無い。
それは人間としての当然の摂理。
だが……
「"俺は死なない"」
強さを求め、とある少年の姿を羨望した藍沢は今、この瞬間に自らの殻を破ったのだ。
それはいつも少年の語っている冗談のような言葉の一つ。
それを藍沢は借りたのだ。
少しでも"理想"に近づけるように。
そして……変化は唐突に訪れた。
ぐちゅぐちゅと、藍沢の肉が奇妙に盛り上がり傷を修復し始めたのだ。
まるでその少年の天権を借りたかのように。
藍沢真はこの瞬間、"人間"であることを捨てたのだ。
「さあ……『復讐』を始めようぜ」
口元が三日月に歪み、愉悦の声が漏れる。
藍沢の勝算なき戦い、その闘争の幕はまだ終わらない。




