「遺志」
歪んだ魂が生み出す精神世界。
イリスの作り出すものとは違う、赤黒いドロドロとした泥に覆われたその空間に俺はいた。
この場に反響する声はどれもいつか聞いたことのある声。
俺の記憶を呼び起こす音だった。
「何で殺した?」
「何で奪った?」
「お前にそんな権利なんて有りはしないのに」
「ねえ、一体何で?」
「結局お前もあの男とおんなじだ」
……やめろ。
「死ぬのが怖いことだと知っているくせに、貴方は他人を殺すのね」
見覚えのある影。アゲハの姿をしたその女は俺に詰問する。
「他人の事情なんで考えもしない。自らの正当性を主張するのは楽でしょうね。そうやって言い聞かせていればどんな非道に手を染めようと納得できる」
見下した目で俺を見るのはカグラ。
「結局、テメエは自分で自分を騙しているだけなんだよ。自分の気持ちが分からない? ンな馬鹿な話があるもんかよ。気付いていて、気付いていないフリをしているだけだ」
クレイの棘のある台詞が俺の頭の中を反響する。
「私の手を取ったのだって同情からでしょう? 貴方は私を助けることで優越感に浸りたかっただけ。『自分は一人じゃない』なんてそんな逃げ口上の為だけに私を自分の元に縛り付けた」
「助けてくれたのは感謝しています。あの地獄から助けてもらったのは紛れもない事実ですから。でも……本当は私を助けることで自分を助けたかっただけじゃないんですか? 過去の惨めさを忘れる為に、私と自分を重ねて見ていた。本当はただそれだけのことなんです」
「他人を信じるのは怖いよねー。うんうん、それは分かるよ。でもさ、それを言うならそれこそ誰一人信じない強さを持つべきなんじゃないの? 自分に似た境遇の人を探して、共感を覚えて、その上一緒にいよう、ってそれってただの傷の舐め合いだよね? 自分の弱さを他人に押し付けてそれでお兄さんは満足かもしれないけどさ。押し付けられる側の気持ちは考えたことあるの?」
やめろ……やめてくれ!
頼むからそいつらの顔でそんなことを言うのはやめてくれ!
でないと俺は……進むべき道を見失ってしまう。
生きる理由がなくなってしまう。
「それならそれでいいんじゃない? カナタってば昔から肝心なところではぐらかすよね。ここらではっきりしたらどう? 生きたいのか、死にたいのか。ねえ、それすらも分からなくなっちゃった?」
「私はカナタ君を信じていました。他人を思いやる優しさを持った人だってそう、思っていたんです。でも……そうではなかったんですね。幻滅しました」
「僕達がこの世界に召喚された原因ってカナタにあったんだね。知らなかったよ。知ってたら生かしてなんておかなかったのに」
「自分勝手にやらかして、うまくいかなったら逃げ出すだって? おいおい。それは余りにも屑すぎんだろ。お前には責任があるんじゃないのか? オレ達に対する責任がよ。一体誰のせいで魔族に情報が渡ったと思ってやがる」
かつての友人達に向けられた心無い言葉は俺の胸を深々と抉った。
これは俺が生み出した妄想、妄言だ。
だけど……彼らがそう思っていない保障なんてどこにもない。
どれもこれも未来には有り得るかもしれない台詞ばかりだ。
そう思うともう駄目だった。
がんがんと脳内に反響し続ける音は形を変え、質を変え、俺の精神を攻撃し続ける。
もしも一人になることを許容できればこんな痛みを味わうことは無かっただろう。だけど……どうしても駄目なのだ。
あの温かい日々の中にいた俺は、もう一人の孤独には耐えられない。
あの地獄にだけは……どうしても戻りたくないのだ。
世界から見捨てられたかのような不安感。
友人全てに裏切られたかのような絶望感。
独り置き去りにされたかのような焦燥感。
それらの感情はもう……たくさんだ。
身を切り裂く痛みならいい。我慢すればすぐに消えてなくなる。
だけどこの胸の痛みだけはどうしたって消えてはくれない。
消えてはくれないんだよ……シェリル。
なあ……どうしてお前は俺に生きろなんて言ったんだ?
こんな世界で生きていても辛いことばかりじゃないか。
それなのに、なぜ?
張り裂けそうな痛みの中、絶望の暗闇の中、もう止めてしまいたい。そんな気持ちの中……
「カナタ様」
──俺の耳に、その言葉が届いた。
ふと聞こえた声は背後から。
頭を抱え、蹲る俺をそっと優しく包み込む人肌を感じる。
その懐かしい声、匂い。全てに覚えがあった。
それに何より……俺を"カナタ様"と呼ぶのはたった一人しかいない。
「カナタ様はお優しい方ですからきっと思い悩みすぎてしまったのですね。申し訳ありません。私がもっと気の効いたことを言えれば良かったのですが……」
僅かに落ち込む声。
駄目だ。彼女にそんな悲しげな声を出させてはならない。
彼女には……溌剌とした声が一番似合うのだから。
「……そんなことはない。俺はお前の言葉があったから今日まで生きて来れた。本当に感謝している。お前は俺の命の恩人だ」
「……そうですか。それはとても光栄なことです」
彼女の優しい声音に、ふんわりと笑う顔を幻視する。
直接振り返って確かめたりはしない。
振り返ったその瞬間、この時間が幻のように消えてなくなってしまいそうで。
「ああ……そうか。ずっとお前は此処に居てくれたのか。俺の心の一番奥底に」
その存在を認めた瞬間、俺は一つの"真実"に辿り着いた。
それは始まりの『誓い』。俺の魂に刻まれた原初の記憶。
「はい。私はカナタ様の専属メイドで御座いますので」
「……主人の心のケアまでしてくれるなんてサービスの行き届いたメイドだよ」
幻だろうが何だろうが構わない。
反響する音全て敵になったこの世界で彼女だけが唯一味方で居てくれた。
その事実だけでいい。
この温もりだけで。
「……なあ。俺はちゃんとやれてるかな? お前の頼み通り頑張ってみたんだけどさ。正直、この道で合ってるのか自信がない」
体を包む温もりがそうさせるのか、気付けば俺は縋り付くような言葉を発していた。
今まで誰にも見せなかった俺の最も弱い部分。
「あら。カナタ様ともあろうものが珍しく弱気な発言ですね。びっくりしました」
「俺はもともと控えめな人間なんだよ。これが通常運転だ」
くすくすと笑う彼女の声が聞こえる。
かつての日々を思い出すかのようで、俺も釣られて笑ってしまう。
「だけど答えはカナタ様御自身で見つけるしかありませんよ? だって私にはカナタ様の求めるものが何かなんて分かるはずがないんですもの」
「何だよ。専属の癖にそんなことも分からないのかよ」
「まだなって日が浅いもので」
「それなら仕方ないな」
そう……仕方ない。
仕方ないのだ。
どんなに望んでも手に入らないものだってある。
失ったものはもう元には戻らない。
そんなことは分かってる。
「……でしたら何を迷う必要があるのですか? カナタ様はカナタ様の思うよう、やりたいようにやれば良いではありませんか」
「そんな簡単に行くかよ。この世界で生きているのは俺だけじゃない。自分の都合だけ押し付ける訳にはいかないだろ」
「まあ、正論ですね。ですがそんなことを言っていたら前にも後ろにも、横にも上にも進めませんよ?」
「……だから困ってるんだろうが」
額に手を当て、頭痛に耐える俺へ、あっけらかんとした声が響く。
「でしたら正論なんて捨ててしまえばいいではありませんか。誰かの為を思って行動するのなら、それはまさしく美しい行為です。何も恥じるところなどありません。そしてカナタ様はそれが出来るお人です」
「……つまり具体的にどうしろと?」
「他人に依存するのを止めてしまえばいいのです。自分独りで立ち上がる強さを持てばいいのです」
「けど、そんなことしたら……」
俺は独りになってしまう。
そんなことには耐えられない。
「はは、大丈夫ですよ。独り立ちすることと独りでいることはイコールではありません。たとえカナタ様を見捨て、見放す人間がいたとしても……どこかにはカナタ様を見捨てない人間がいるはずです」
「……そんなこと言い切れるのかよ」
「言い切れます。だって……」
くいっ、と俺の顎を細い指先が掴む。
強引に振り向かされたその先に……
「こうして私がいるではありませんか」
──向日葵のような満面の笑みを浮かべるシェリルの姿があった。
俺が怖がって見ようとしなかったその先に、彼女はいた。
幻想でも、幻覚でもない。
彼女は確かにそこにいた。
「案外世界は簡単に出来ているものですよ。恐れず踏み出したその先で、振り返ったとき見えるのが『道』なのです」
胸を張ってそう言ったシェリルの言葉に、すとんと納得する自分がいた。
確かに……俺は今まで失敗することを恐れすぎていたのかもしれない。本来進むべき道なんて目に見えるようなものではないんだ。未来が目に見えるものではないように。
だとしたら……俺はもっと、素直になるだけで良かったのかもしれない。
裏切られることを恐れ、信じることを止める前に。まずは自分を信じるべきだったんだ。
けど……まさかそれをコイツに教わることになるなんてな。
「……シェリルの癖に格好良いこと言うなよ」
「ちょっ! シェリルの癖にって何ですか!」
「お前はドジっ子メイドキャラなんだから、名言なんて残さなくていい」
「もー、また私のこと馬鹿にして! 私だってやるときはやるんですからね!」
「はいはい」
「もーっ!」
最後にシェリルをからかいながら……
俺はゆっくりと立ち上がる。
すでに脳内に反響する音はどこかに消えてしまっていた。
「……なあ。お前は俺の妄想が生み出した幻か?」
「違いますよ。今の私は言うなら残留思念って奴ですかね? カナタ様も知ってのとおり、私には一つだけ後天的に手に入れた『天権』がありました。今更隠すことでもないので言っちゃうと、それは『思念』。私の作り出した言霊を対象に埋め込む魔術です」
「なるほどな……どうせ、そんなことだろうと思ったよ」
どうもおかしいと思ったんだ。
あれだけ苦しんだというのに、結局俺はこうして生き残っている。
何度も死にたいと思った。
実際に舌を噛み切ったこともある。
その時はイリスに助けられたのだが……きっとそれ以外にも理由はあったのだ。考えて見れば精神世界に行ったところで、精神が壊れていたら何の意味もない。
狂ったまま精神世界に居座るだけだ。
そうならなかったのは俺の気付かないところでシェリルの天権が作用していたということ。
つまり……
「お前が最後に俺に言った言葉。あれこそが言霊だったんだな」
「はい。その通りです」
にっこりと笑みを浮かべるシェリル。
こいつ……まさかの小悪魔系キャラでもあったのかよ。
「ったく、『生きて』なんて言霊、よくも俺にぶち込んでくれたな。そのせいでどんだけ苦労したと思ってる」
「でも命なんてあってなんぼでしょう。私は本体から送られた指令の塊みたいなものですからね。これから何度だってカナタ様に言い続けますよ。生きろ生きろ生きろ!」
「うっさい」
「痛いっ!?」
脳天にチョップすると、思念体の癖に痛がるシェリル。
芸の細かいことで。
「いたた……そ、それより、カナタ様。精神世界での時間経過は緩やかとは言えど急いだ方が良いかもしれません。現実世界では結構面倒なことになってますよ」
「え?」
「魔族二人を相手にほとんど1対1みたいな構図になってます。実力的にも両者劣っていますし、このままだと全員死にますよ?」
「ばっ……それを早く言え!」
全滅なんて冗談じゃねえ!
そんなことさせて堪るかよ!
「はは……ほらね。カナタ様はやっぱりそうすると思っていましたよ」
「は? 何の話だよ」
「信じるのが怖いとか言いつつ、やっぱり大切なんじゃないですか。今まで素っ気無い態度取ってたの本当に何なんです? 男のツンデレなんて今時流行りませんよ~」
だからお前もどこからそんな言葉を……いや、そうじゃくて。
「……くそっ、屈辱だ。シェリルなんかに弄られるなんて」
「はいはい。そういうのは後にしましょうね。それより先にするべきことがあるでしょう?」
「…………」
「"もっと自分に素直になるように"。これが私から贈る最後の言霊です」
「お前は……これからどうなる」
「ええ、まあ、もう二度と会うことはないでしょうね。今回のこれはあくまで例外。相手の魔術への対抗策としてカナタ様が擬似的に作りだした移動図書館でしょうから。でも心配はいりませんよ。目に見えなくても、形がなくても私はここにいます。そして今のカナタ様なら……たとえ目には見えなくても乗り越える強さがあるはずです」
「……お前はいつでも俺に期待しすぎなんだよ」
俺はそんな強い人間じゃないってのに。
どうしてそこまで信じられるのやら。
浮かんだ疑問に答えるかのように、シェリルは可愛らしく微笑み口を開いた。
「だって……私はカナタ様の専属メイドですからっ!」
……そうかよ。
だったら仕方ないな。
主人として、格好悪いところは見せられない。
もう……うだうだ悩むのはやめだ。
「……シェリル」
「はい」
「……行って来る」
「……はい」
シェリルの手を振りほどき、俺は進み始める。
それはようやく踏み出した一歩。
陽だまりから抜け出した瞬間だった。




