「信じあう心」
「み、見ないでっ」
ばっ、と地面に落ちた鬼面を慌てて拾い上げ、背に隠すクロ。
見ないでと言われたが、その瞬間にはばっちり目撃してしまっていた。
クロの持っていた黒色の面。
それが何を意味するのかも、今の俺には理解できる。
理解できてしまうのだ。
「クロ、お前。やっぱり……」
「…………」
クロは真っ赤な顔から一点、真っ青な顔色になるとゆっくりとこちらに振り向いてきた。
それはまるで花瓶を割ってしまった子供が両親の折檻を恐れるように、不安げな表情だった。
「……お兄さんはこれが何か知ってるの?」
「……ああ」
俺が頷いてみせると不安げな表情は絶望へと変わる。
「そ、そんな……これがバレたらクロは……その人を殺さないと。でもお兄さんはお兄さんで……クロは……」
がくがくと震え始めるクロ。
恐らく正体が知られたら口封じをするようにとでも王国から言われているのだろう。ちらり、と倉庫にあった武器に視線を送るクロから剣呑な雰囲気が滲み始める。
「おい、クロ。俺は……」
内心、焦りを感じながらも対話を試みるためクロへと一歩近づき……
「来ないで!」
俺はその拒絶を受けるのだった。
「クロ……」
思わずと言った様子で大声をだしてしまったクロはきょろきょろと周囲を落ち着きなく見渡している。明らかに挙動不審。自分自身、どうしたら良いのか分からないのだろう。
「クロ……焦らず聞いてくれ。さっきも言ったように俺はお前のことが好きだ。お前と敵対するようなことには出来るだけしたくない。お前もそう思ってくれたら嬉しいんだが……」
「お、お兄さんは……」
ゆっくりとこちらに視線を向けるクロは泣き出してしまいそうな顔で問いかけてくる。
「……クロがどんな人間か知っても怒らない?」
「……当たり前だ」
びくびくと小動物のような所作でこちらを警戒するクロ。
これが全然知らない相手なら恐らくクロは斬って捨てるのだろう。
初めて会った時にも感じた殺意なき殺戮はクロの内心を如実に表していると言っていい。
言うならばクロにとっての世界はゼロかイチ。価値があるのか、ないのか。たったそれだけの基準で相手を見ている。
そしてゼロに対してはどこまでも冷酷になれるのがきっと彼女なのだ。
「クロは人をいっぱい殺してきたよ?」
「知っている」
もしかしたらそれは歪な感性なのかもしれない。
殺人鬼と一緒にいたいなんて、俺も最早通常の神経ではない。
「クロは最初、お兄さんを殺そうとしたよ?」
「俺は死なないから別にいい。気にしてねえよ、そんな昔のこと」
もしかしたらそれは歪な理由なのかもしれない。
自分と同じ感性を持つ人間を傍に置いておきたかっただけなのかもしれない。
「クロは……何も持ってないよ? お兄さんが求めても、何もあげられないよ?」
「クロ……」
もしかしたらそれは歪な感情なのかもしれない。
ようやく見つけた同族に、親近感を覚えているだけなのかもしれない。
仲間とはぐれた俺は、イリス達の代替品として求めただけなのかもしれない。
冷たく、苦しい孤独と言う名の牢獄から抜け出すためのただの鍵であったのかもしれない。
だけど……一緒に旅をして、語り合い、戦って生き残ったクロを大切に思うこの心だけは──紛れもない、本物だ。
「お兄、さん?」
気付けば俺はクロの体を抱きしめていた。
不安げに震える彼女を救い出してやりたかった。
俺も……かつては孤独に居たのだから。
その辛さも、痛みも、全て理解できる。
「何を不安に思っているのか知らないけどよ、俺はお前が思っている以上にお前のことを知ってるんだぜ? 朝に弱いことも、案外頑固だってことも、虫が嫌いなことも、野菜が食べられないことも、お前の駄目なところなんて何個でも思い浮かぶ。だからさ……今更、それが一つ二つ増えたところで俺がお前を嫌いになることなんてねえよ」
人を好きになるのに理由なんてない。
そんな言葉があるが、それはきっと間違いだ。
正確には、"人を好きになるのに理由なんて要らない"だ。
人間生きてるだけで他人に恨まれたりするもんだ。
であるならば人と人との付き合いは、その人のことをどこまで許容できるかという問題でもある。嫌いな部分とどこまで誠実に付き合えるのかということだ。
そしてそういう意味でなら俺はかなりのところまでクロを許容してみせる自信がある。
今、はっきりと分かった。
自分自身の感情が。
「さっきも言ったけど……俺はお前と一緒にいたい。だからお前も抱えているもの全部、俺に教えてくれよ。俺、疑り深いタチだからさ。そうでないと不安でしょうがないんだ」
情けない話だが、きっと俺は以前に比べて精神的に遥かに弱くなってしまっている。
もしかしたらこいつは俺に何か隠し事をしているんじゃないか?
そう思ってしまったらもう駄目だ。
俺はそいつと安心して一緒にはいられないだろう。
別にそれがどうでもいい、赤の他人ならこちらもそれ相応の態度で臨むだけだが、クロとなると話は別だ。
俺はきっと、クロともっと仲良くなりたかったのだ。
言ってしまえばただそれだけのこと。
それだけのことなのに、俺もクロもかなりの大回りをしてきてしまった。
「お兄さんは……そうしたらクロと一緒にいてくれるの?」
「ああ。約束するよ。お前にどんな過去があろうと、俺はお前のことを嫌いになったりはしない」
言葉ほど軽いものはない。
口約束なんて、白紙の紙切れ同然の誓約書でしかない。
だが、"だからこそ"俺はその紙切れに対して誠実でありたいと思うのだ。
どんな小さなことでも、裏切るという行為は最低だ。
自分で言った言葉は守る。
たとえ、この命を賭けることになったとしても。
それがこの異世界で得た俺の誓いだ。
クロがもし、俺の復讐を邪魔した鬼面だったとしても……もういい。デコピン一発くらいで許してやるよ。
「クロは……ずっと独りだった」
ゆっくりと語りだすクロは俺にその過去を語り始める。
かつて『それぐらいの距離感がいい』と言ってのけたクロがようやく俺に向け、一歩を踏み出した瞬間だった。
「小さくて狭い世界で何も知らずに育ったの。そのことに疑問を覚えたことなんてなかったけど……やっぱり苦しかったんだよ。外の世界を知ってからはずっとずっと辛くなった。だって他の皆はクロみたいに考えていることが分からないんだもん」
クロは他人の考えていることが自分のようには分からないと言う。
そんな当たり前のことにすら、彼女は長年気付くことがなかったのだ。
「他人は怖い。大人も皆、クロに命令してばっかり。でも生きるためには言うことを聞くしかないの。そうでないと生きている意味がない……存在している価値がない。そう教え込まされて……」
少しだけ震えるクロはかつての情景を思い出しているのか怖がっているように見えた。まるで雷を怖がる子供のように。
俺はずっとクロのことを見た目の年齢の割りに子供っぽい奴だと思っていた。そしてそれは事実だった。小さな世界に押し込められてきた彼女はまだ、精神的に大人になりきれていないのだろう。
そのことが少しだけ不憫に思えてしまう。
「こういうの人間不信って言うのかな? クロの世界にはクロだけいればいい。それが自分を守る一番の方法だから……でも、お兄さんはなんだか違う気がする。今まで会ったどんな人よりも身近に感じる。それが少しだけ心地良いの」
俺が感じていたことを、どうやらクロも感じてくれていたらしい。
そのことがたまらなく嬉しい。
「……クロは俺と一緒に居たいか?」
「……うん」
俺の問いにクロは僅かに、だけど確かにこくりと頷いてくれた。
その小動物めいた仕草に保護欲を刺激される。
この精神的に幼い女の子を守ってやりたいと、そう思ってしまう。
「……なら難しく考えることはないな。一緒にいよう。一緒にいればいい。お互いの気が済むまで」
「……うん」
ぎゅっ、と僅かに強まるクロの両腕に、何とか話がまとまってくれたのだと安堵する。下手をすればこの場、この瞬間に殺し合いに発展してもおかしくなかった。
それぐらいに俺とクロの関係性は危うい。
そしてその爆弾のような関係はこれからも変わらないのだろう。
けどまあ……それでもいいさ。
抱え込んでしまうのは俺の性格みたいなもんだからな。せいぜい爆発しないよう気をつければいいだけのこと。それに……
(王城で見た鬼面はきっと別人なんだろうな。クロのわけがない)
かつて相対した鬼面は力が弱かったし、剛力の天権を持つクロとは戦闘スタイルからして正反対だった。だからきっとあれはクロではない別の奴の仕業だったのだろう。
……なんて、後付の理由を並べて誰に言い訳しているのやら。
俺はただクロと争うようなことにしたくないだけ。
真実がどうであれ、クロでないのならそれでいいし、クロだとしたら知らなくて良い。そうすれば戦わずに済むのだから。
だったら無理に真実を解き明かすこともないだろう。
世の中には、知らないほうがいいこともある。
それを俺は前回のことで学んだんだからな。




