「幕間」
この世の果てに君臨する者。
人の世の情けなるを排する者。
人はその存在をこう呼ぶ。
死なずの王──魔王、と。
「これで今回の任務は完了だ。お前たちのおかげで予想以上のサンプルを回収できた。ご苦労だったな、スザク、ナキリ」
ケルンの街から少しだけ離れたその丘の上で魔王は慇懃な態度で跪くスザクと両手を頭の後ろで組み退屈そうにしているナキリへ声をかけていた。
その足元には回収したサンプル……四人の人間が寝そべっている。
一人は美しい銀髪を広げるイリス。
一人は呼吸と共に獣耳を僅かに動かしているステラ。
一人は服や顔にまで埃や汚れをつけている上原麻奈。
一人は具合悪そうに顔を歪めている金井宗太郎。
「しかし、魔王様。余分の二人まで生かして連れて行く必要はないのではないですか? 四人も運ぶとなるとそれなりに大変ですし……」
「スザク、万全を期すためだ。多少の労苦は看過せよ」
「……はっ」
魔王の言葉にスザクは額を下げて恭順する。
「魔王さん、そろそろ行かない? 暗くなってくるとこの辺も危ないし」
「……そうだな。それではシンへ最後の別れを告げるとしよう」
魔王はそう言って目の前に立てられた簡易墓地……さきほどイリス達を回収した際に発見したシンの遺体を埋めたその場所へ瞳を閉じて黙祷を捧げる。
彼にとってこれは幾度目とも分からない別れの瞬間であった。
張り裂けそうなほど痛む胸の傷には未だ慣れそうもない。
だがそれでも"悲願"の達成のためには立ち止まっている時間などないのだ。
スザクがいつも言っているように、時間とは有限なものなのだから。
「……では、行くか」
「はい」
「あいよー」
来るときより一人減った人数で、帰還を始める魔王達。
その背には彼らの行く末を後押しするかのような強い追い風が吹いていた。
「そういや魔王さん。ずっと聞きたかったんだけどさ……いいかな?」
「何だナキリ。珍しく歯切れが悪いな」
「いやー、私達って何だかんだ結構隠し事多いじゃない? だからもしかして地雷とか踏んじゃわないかなーと思って」
「構わん。言ってみろ」
ナキリの態度から相当に言い難いことなのだろうと悟った魔王は自らナキリの問いを催促する。そうしてやっとナキリは重い口を開いた。
「あのさ魔王さん、正直なところ……"貴方って誰なの"?」
「……ッ! ナキリ! お前、それは!」
ナキリの問いに隣を歩いていたスザクが激昂と共に反応した。
それは魔族の中でもタブーに近い話題であった。
魔王と呼ばれる存在がいることはこの世界に住むもので知らないものはいない。だがそれと同時に、魔王と呼ばれる存在がいるということしか知らないのだ。
そしてそれは魔族とて例外ではない。
長年行動を共にした魔族の中でも魔王について詳しく知っている者は少ないのだ。彼の経歴も、年齢も、本名すらも。故に彼は常に『魔王』と呼ばれていた。呼ばれ続けていた。
まるでそれは形式的に付けられた記号のように。
「私達の進むべき道を見出してくれた魔王さんにはかなり……いや命を捧げてもいいと思えるほどに感謝してる。だけどさ、本当のところはどうなの? 魔王さんは本気で"悲願"の為に行動しているの?」
「ナキリ!」
スザクの静止の声も無視し、ナキリは魔王だけを見つめていた。
その暗く濁ったような藍色の瞳はしかし、何の反応も示さない。
怒りも、悲しみも、全て。
「私は……魔王だ。それ以外の何者でもない」
「……それならさ。これだけは話してくれないかな。以前、魔王さんの命令で連れ去った捕虜、アオノカナタだけど。どうしてあいつは魔王さんとそっくりの顔をしているんだい?」
「…………」
魔王はナキリの問いに答えなかった。
変わりに彼の口から出てきたのは別の言葉。
「私は……私の誓いの為に行動している。その行いに嘘はない。ましてやお前たちに対する裏切りなど言語道断。微塵たりともありはしない」
断言してみせる魔王はしかし、ナキリの知りたい情報については何一つ語らなかった。それは追求を避けたとも言える回答。
だがそうまでして真実を語らない魔王に、ナキリはひとまずの納得をみせた。
「……分かった。言いたくないっていうなら構わないわ。私達にだってそれぞれ言いたくない過去の一つや二つはあるからね。別に私は魔王さんのことを疑っているわけじゃないし、これ以上は聞かないことにするよ」
ひらひらと手を振ったナキリはにっ、と笑みを浮かべて魔王の後ろに回り追従する。まるで主人を立てる良妻か何かのように。
「…………」
そしてその様子をスザクは一人黙って見つめていた。
彼にしても思うところはある。
ただ一人、魔王の過去に一番深く関わっている人物として。
だがそれを口に出すのは彼らの契約に反する行為だ。
それ故にスザクは魔王に対し、内心をぶつけることが出来なかった。
魔王と呼ばれる彼は"裏切り"を何より嫌っているのだから。
「魔王様……あの、寒くはないですか? そろそろ本格的な冬がやってまいります。お体を冷やしてはなりません。今、お召し物を……」
「構わん、スザク」
ぎゅっ、と古びた黒い外套を握る魔王はそれを慈しむように見つめながら頬を緩め、語る。
「私はな……冬が嫌いではないのだよ」
魔王とて寒さを感じる人の身だ。
寒くないはずがない。
だがそれでも魔王はスザクの好意を跳ね除けた。
ただ一つ、この外套だけあればいいと。
「人の世の哀れなるものよ。人は寒さの中では生きてはいけぬ。だからこそ温もりを求め、他者を求めるのだ。それを弱さと言うのなら、この世に強き者など存在せん」
「……それは魔王様も?」
「無論だ。私は私の誓いを果たす。その為にこそ生きている。だからこそ……もしかしたら最も弱いのは私なのかもしれんな」
「魔王様はずっと強いですよ。この世の誰よりも……」
弱気にも見える魔王の言葉をスザクは否定した。
憧れ、羨望。それらの感情を向けられた魔王は苦笑と共にスザクを見る。
「この世、か。異世界などという存在を認知せざるを得ない身としてその表現はいささか受け止め難いものがあるな。きっと世界は私達が思っているよりもずっと広く、深いものなのだろうから」
この国に限ってもそうだ。行った事のない場所、会ったことのない人、過ごした事のない時はいくらでもある。時間は有限だ。人の身で為せる事柄には限りがある。
「だが……それでも私は誓おう。私は私の為すべきを成す。私と……そしてお前たちの為に。始めから間違ってしまった脚本は書き換えねばならん。その先にどれだけの困難が待ち受けていようと、私は止まるわけにはいかんのだ」
魔王は悲願のため多くのものを犠牲にしてきた。
リンドウやシンもその一つ。
今更引き返すには魔王は失ったものが多すぎた。
止まるわけにはいかないし、今更止まれるわけもない。
そんな悲痛な覚悟を前にスザクはただ一言。
「……どこまでも付いてきます。魔王様」
その背をどこまでも支えてきたいと強く願うのだ。
そしてそれこそがスザクという人間の覚悟。
自らに命をくれた恩師に対する誓いなのだった。
「あ……」
唐突にナキリが声を上げ、視線を上に向ける。
釣られて二人も頭上に視線をやると、そこにはちらほらと白い影が散見された。
「……雪か」
目の前に舞い降りた雪を魔王は手のひらで掬い取る。
手に触れた雪はしっとりと解け始め、その熱を奪い取る。
──それはどこまでも美しく、残酷な白雪。
「……行くぞ」
止まっていた足を再び動かし始めた魔王は真っ直ぐに前だけを見つめ続ける。
もう迷わない。振り返らない。
誓いを成す。
他の何を犠牲にしても……
ゆっくりと傾く太陽はやがて顔を隠し、世界は完全なる闇夜に覆われる。
──アストル大陸北西部。
数多の想い抱える人々の頭上に寒空が広がりつつある。
冬が、訪れようとしていた。




