「雷の神」
凍りつき、疲弊したイリスをまずは治療しようとしたのだろう。奏が白い光に包まれた両手をイリスに当てている。だが、それはシンにとっても追撃の時間を与えることになってしまった。
「来れるもんなら来てみろ。だが先に宣言しておく。次にお前が僕の白銀世界に入ってきたなら……その瞬間にお前を氷像に仕立て上げる。それでも良いなら来てみろ。その貴様の流儀とやらに従ってな」
シンの言葉にアーデルは現状を見る。
シンとイリス達の距離は目測で50メートル近く。すでにステラが気付いて逃走体勢にあるが間に合わないだろう。イリスもようやく意識を取り戻した段階のようだし、彼女を引き摺って逃げるにはかなりの時間がかかりそうだ。
そうでなくても回収した宗太郎を誰かが背負って逃げなくてはならないのだ。そんな状態でとてもシンから逃げられるはずもない。
加えて50メートルなんて距離、今のシンにはそれこそ零に等しい障害だ。
つまり……
(──ここで迷っている時間はないということだッ!)
コンマ一秒の迷いすらなく、アーデルは前へと足を踏み出した。
イリス達の前へと。
──バチチチチッ!
「雷陣ッ!」
雷鳴と共にシンの進行方向へ先回りしたアーデルは即時に雷の防御膜を空中に作りだす。シンがこれ以上イリス達の近くへと行けないように……だが、
「ぐ、がああああああアアアアッ!?」
さきほど雷刃が白銀に染め上げられたように、アーデルの体は徐々に凍りつき始めている。雷陣による防御壁のおかげで侵攻を僅かに和らげてはいるが、それも気休め程度の効果しか発揮していない。
「あ、アーデルさんっ!?」
このままでは死んでしまう。そのことを察したステラは思わず逃げる足を止め、アーデルを助けようと振り返る。そこへ、
「足を止めるんじゃないっ!」
アーデルの叱責が飛んでくる。
「ぼ、僕の『雷神』は対象を選ばない……敵も、味方にも牙を剥く。だからそれ以上、僕に近づくな……」
アーデルはなるべく距離を稼ぐよう、最初の位置からぎりぎりイリス達が外に出るよう雷陣を展開している。つまり、ステラが一歩でもアーデルに近づけばその瞬間にアーデルの雷陣がステラに向け襲い掛かるということだ。
「…………あ、なたは……」
そんなアーデルの悲痛な叫びを前に、意識を取り戻したイリスがその瑠璃色の瞳をアーデルに向ける。そこにはただ純粋な疑問の色が宿っていた。
「……どうして、私を……?」
助けてくれるのか。
その言葉は出てこなかったが、それでも心は伝わった。
イリスにとって、アーデルはただカナタと一緒にいるところを数回見た程度の付き合いでしかない。到底命を賭けて守るような間柄ではないのだ。だと、言うのに……
「……はは」
アーデルは一歩も引かぬまま、視線だけイリスへと向け優しく……どこまでも優しく笑いかけていた。
「この世には知らないほうがいいこともある。"だから"君は知らなくて良い。君にはそのラピズラリのような美しい瞳が良く似合う」
アーデルの真意はその場の誰にも理解できなかった。ただ一人、本人だけを除いて。
「さあ、早く……逃げてくれ。僕が死ぬ前に」
「アーデルさん……」
ステラは目の前で時間を稼ごうとしてくれている青年に向け、ああ、またかと涙を流していた。いつも自分は守られる立場にあった。力を持っていながら、何の役にも立てない自分に情けなさと空しさを感じている。
本心ではこの場に残り、戦いたかった。
だが、ステラは自らの本能を押し殺し、ステラの体を抱えて全速力で逃走を開始した。それが唯一、目の前の青年に対する誠意だと思ったからだ。
「……そう、それでいい」
そして、その様子を見送ったアーデルは独り、誰にというわけでもなく笑みを浮かべる。強いて言うならそれは自嘲に近い笑みだった。
ああ、全く馬鹿なことをしてしまったと、心から後悔しているのだ。
情けない。こんな感情が自分にあるだなんて一ミリたりとも悟られたくなんてない。だからこそ、アーデルは気丈にも笑って見せたのだ。
思うのはイリスという少女のこと。
彼女の前でだけは格好悪いところを見せられない。
それがイリスという名の宝石に魅入られた青年の覚悟であった。
「……仲間を逃がすため、自らを犠牲にするか。美しい、が、愚かでもある」
「惚れた女の前でくらい格好つけなくてどうする? それでは男に生まれた意味がなかろう」
「……………………え?」
シンは目の前の男とさきほど逃げていった女の子達の外見年齢を思い比べ……何も言わないことにした。愛には色々な形がある。それを許容する程度の器の広さは持ち合わせているのだ。
「だが……虚しいことだな。報われない。お前がいくら必死に彼女たちを守ったところで得るものなんて一つもない。ただ一つ、命という宝を失うだけだ」
「はっ……報われない? そんなことはないさ。僕は今、こんなにも報われている。だって……」
これでようやく"誓い"が果たせるというのだから。
「君は知っているかい? ラピズラズリに込められた意味を。それはね……永遠の誓いだよ。僕は例え死ぬことになったとしても誓いを果たす」
すでにアーデルの体は芯から凍り付いている。無理に動こうとすれば体が内側から崩壊してしまうことだろう。すでに逃げ切れるような体にはない。だが……たとえ、逃げられたとしてもアーデルは逃げなかっただろう。
背中に守るべき彼女たちがいる限り。
「加えて命を失うとまで言うのはいくらなんでも早計だ。勝った気になるのは、敵を確実に仕留めてからにしたまえ」
「は? 何を言っている。お前はもう……」
「半ば死に掛けている、か? だがまだ死んでいない。生きている内は最善を尽くす。それが人に為せる人事というものだ」
そう言ってアーデルは懐から一つの物体を取り出す。
それは黒い板のような物体だった。手に握れる程度のその板は左右に婉曲しており、一つの形を作り出している。その、形とは……
「──人は生ある限り死に抗わねばならない。それこそが人の在るべき形なのだから」
漆黒に彩られた、鬼の面。
辛うじて動く右手を使ってその鬼の面を顔に装着したアーデルの瞳が怪しく揺れる。それはまさしく鬼の形相というに相応しい相貌である。
「……はぁぁぁぁっ」
アーデルの雰囲気が変わる。仮面にて覆い隠されたその表情からは何の感情も読み取れない。だが……体から沸き立つその激情だけは読み取れた。
──殺す。敵は殺す。ただ、殺す。生きて帰さない。その誓いを。
「らあああああああああああああッ!」
アーデルが雷鳴と共に吼える。彼の体からはバチバチと無秩序な奔流となった雷撃が迸る。周囲に誰もいなくなった今だからこそ、何に憚ることもなく全力を行使することができる、と。
それはイリス達の前では決して使う気のなかった力。
鬼の修羅から人の世に導いてくれた少女の前では決して見せる気のなかった姿。
かつて鬼と呼ばれた姿そのままに、アーデルは駆ける。
当然、彼の体は凍り付いており強引に動いた余波で筋繊維は崩壊し、血管は千切れ、骨はひび割れた。だがそんなこと、何の関係もない。
ただ目の前の敵さえ殺せれば、アーデルにとっては十分なのだから。
「あああああああああああああアアアアアアアァァァァァアッ!」
まるで激痛にのた打ち回る獣のような咆哮を上げながらアーデルはその一撃を放つ。右手に纏った雷撃は神すら殺すと、凶悪な牙を広げてシンへと襲い掛かった。
そして……
──勝負は決着した。
崩れ落ちるその体躯は漆黒のマントを巻き添えにしながら、地面へと堕ちる。
アーデルは僅かに後一歩分、シンを殺すに踏み込みが足りなかったのだ。
「…………」
シンは無言で胸元、心臓部に広げた氷壁を見る。厚さ20センチに及ぶ最強の盾はそのほとんど全てがアーデルの一撃によって貫通させられていた。
背筋に走る寒気は周囲の温度によるものか、それとも別の……
「……あ?」
シンは自らの感情に蓋をして、イリス達を追おうとした。
彼が自分の体の異常に気付いたのはそのときだった。
踏み出そうとした足が、一歩も動かないのだ。
まるで彼自身の能力によって、凍りつかせられたかのように。
もつれる足はシンを地面へと転ばせ、動きを封じる。
(そうか、これは……雷撃!)
シンは微かに震える指先に、自分が感電させられたのだと悟った。
アーデルの攻撃はシンを殺すには至らなかったものの、確かに届いてはいたのだ。
体の動きが取り戻せるまで5分か10分か……それとももっとかかるのか。その時のシンには判断できなかった。しかし……その時間が決定的な隙となることだけは分かった。
「……ようやく、捉えたぞ」
ぞっとするような声音がその耳に届いたから。
見ればアーデルは瀕死の重傷を負いながらも、ゆっくりとその右手の指先をシンへと向けて伸ばしていた。
それは宗太郎、ステラ、イリス、奏、アーデルと5人がかりでようやく入れた一撃。そのたった一撃で趨勢は決したのだ。
「ま、て……」
震える声でシンは制止を訴えるが……
「言った……はずだ。アーデル・ハイト。これが貴様を殺す者の名前だとッ!」
アーデル・ハイトは止まらない。
彼は彼の信念に基づき、その一撃を放つ。
僅かに指先に灯る紫苑色の光が──バチバチバチッ──風斬り音と共に、爆ぜた。
その雷撃が向う先はシン。これまで鉄壁を誇った魔族はアーデルの一撃に為すすべもなく、自らの運命を受け入れるしかなかった。死という、現実を。
「……やっと、これで……贖罪、を……果た……せ……」
目の前の敵を殺せたことに、そして何より大切な人を守りぬくことが出来たことにほっと胸を撫で下ろしながら……アーデル・ハイトはその心臓の鼓動を止めた。




