ひみつたち
お昼の休憩を社食でとっていると、眺めていたテレビに見覚えのある特急電車が映し出されていた。どうやら旅特集の番組らしい。
「いいなあ、展望席」
高くてかわいらしい声が通路を挟んだ隣のテーブルから聞こえてきた。
運転席の上に設けられた、見晴らしがとても良い席。
当然、人気が高く、チケットは即完売。入手困難なので、何度かその温泉行きの特急を利用した事はあっても、その席に座れた事は、私も未だない。
「別に展望がいいからって大したでもないよ……ここ、いい?」
いいなあと云った子を含む、女子社員のグループが座る斜め向かいの空席に、同じ課で『女子社員人気ナンバーワン』の香坂さんがトレイを置いた。
「どうぞ、って、香坂さん、展望席、乗った事あるんですか?」
「一度だけだけどね」
……盗み聞きなんて、フェアじゃない。そう思って、食べ終わった頃合いで席を立つ。
「ええ、すごぉい、いいな!……ちなみに、お値段とかってどれくらいなんです?」
その些か失礼な質問に、香坂さんは箸を持つ手を顎に当てながら、答えていた。
「んー、自分でお金出してないからわかんないなあ」
「……それって、女の人に出してもらったんですか?」
「さあ、どうでしょう」
「教えてくださいよぉ」
「……ひみつ。」
キャー!と云う歓声を背中に聞きながらやれやれ、と思う。
香坂さんは、そんな疑念を抱かせてしまう程度には、女の人に好かれやすい人だ。
分かりやすい特徴として、女性も真っ青なその綺麗な顔立ちとすらりとした体型が挙げられるだろう。
とにかく、無駄にもてる。無駄に、と云う部分に私の主観が入っている事はご容赦戴きたい。二月のチョコレートな日にはソレが詰まった大きな紙袋を両手に二つ下げて帰ったとか、お前はどこの芸能人だとツッコミそうになるほどだった。
ちなみに、本気なチョコにもそうでないチョコにも、お返しは一律、だったそうだ。
香坂さんは、人当たりはいいけど、ガードが固くてなかなか本心は開かない。
何かうっかりとプライベートの事を突っ込んで聞いてしまうと、返ってくる答えは決まって、
「……ひみつ。」
その間と笑みはなんだ。
それがまた、女子を煽るってわかってるのかなあ。
この間、頬にひっかき傷をこさえて会社にやってきた。
猫の爪じゃないその傷に誰もが注目して、好奇心に負けた勇者が一人、本人に突撃した。
「香坂さん、それってもしかして、女の人に指輪か何かで引っかかれちゃったんじゃないですかぁ?」
そう問われて、さして慌てたそぶりも見せず、その傷をやんわりと隠すように手で触れてニコリと笑う。答えは勿論、
「……ひみつ。」
そうだよって云われたらモテっぷりが鼻につくし、そうじゃないって云うのも何だか嘘くさい。
んー、ずるいけどうまい答えだよなあ。なんて感心しながら、自席で熱いハーブティーを啜った。
『ひみつ』の答えは、会社で私だけ、知ってる。
展望席は大学入学時、フレッシュマンキャンプと云う名の強制参加の合宿の、帰りの電車がその席だった事。親が合宿代を出してくれたから、自腹じゃなくて助かった、って笑って話してくれた。
ほっぺたのひっかき傷は、私の家に迎えに来て、門から玄関に辿り着く間にバラの棘が引っかかってしまって出来た事。バラのお世話係の母が、こんな整った顔に傷をつけてしまって申し訳ないって謝りながら消毒してた。
お詫びをどうしましょうと云う母に、私をお嫁さんにくれればそれだけでお釣りがくる、なんて事を照れずに云うものだから、私と母が逆に照れてしまった。
もうその話はずっと前から出ていて、後はいつにしようか?って云っているのだけど、照れるものは、照れる。
『ひみつ』に隠された真実なんて、こんなもんだ。
お休みの日って、何してるんですか?
――私とだらだらしたり、いちゃいちゃしたり、まったりしたり、ぼけーっとしたり、してるよ。ちなみに私服は頓着しないタイプだから、家着なんか色あせちゃってる微妙に古いキャラクターTシャツ&よれよれのスウェットだよ。それはそれで、かわいい、うん。私は好きだな。
どんな女のひとがタイプなんですか?
恋人って、いるんですか?
――両方、私、……だそうです。噂の秘書課の別嬪さんとか総務のマドンナとか、香坂さんを絶対落とす!って宣言してる肉食な受付嬢とかじゃなく完全ノーマークの私で、すいません。いつかばれた時にガッカリしないでくれたら嬉しい。
なんでそんなに『ひみつ』が多いんですか?
――大事じゃない人に、自分の大事な人と大事な事を教えたくないから、だって。……だからね、何っ回もお願いしてる割に一向に聞いてもらえないけどさ、そう云うの、大事にしてる人に向かってじっと見つめながら云うとか、ほんっと照れるからやーめーてー。
皆さんによく聞かれる『ひみつ』って何?なんてうっかり聞いたのが間違いだった。最初のやつは答えが分かったからって調子に乗って続けて聞いてみれば、愛情たっぷりな返り討ち。顔を赤くしてしまって、かえって喜ばせるだけだった。もー、困ったひとだ!
『ひみつ』は、私とこうなる前から彼の得意技だった。
理由は前述の通りで、会社の人とはごく一部の親しい人間とそれ以外できっちり線を引いていた。実際は、社会人なのであからさまに頑なではなかったけれど、親しくなるまでは『雰囲気は柔らかいのになぜか近寄りがたい人』、だった。
過去に何度も、無責任な噂や心無い言葉で恋人が傷ついたり、恋がダメになったりしたと云うからそのせいもあるのだろう。私を好奇の対象にしたくない彼と、彼目当ての女の人から攻撃されたくない私が、付き合う事になってから『ひみつ』を選ぶのに、時間はそうかからなかった。
――どれだけ有効か分からないけど、これで君を守れるなら防御魔法として使うよ。
そう笑って、それまで以上に『ひみつ』主義の人に、なった。
どこまでも私を大事にしてくれるのは嬉しい。それでも。
『ひみつ』と云う言葉にめげない人がいる事を知っている。
イコール、拒否ではないとアピールする人も、いる。
そんな人たちに、『ひみつ』の私じゃ反撃できなくて、歯がゆい。
けど、ちょっとくらい私だってね。
「永君」
私が呼べば、ん?とあなたはそれだけで嬉しそうに私を見る。
両手を差し出して、ベッドから起こしてもらって、そのまま彼の首に巻きつけた。
いつもならキスをするその流れからルートをすこし外れて、吸血鬼のように首筋に唇を這わせる。そして。
月曜の朝。
またもや香坂さんは噂の人。
にこにこと、常ではありえない程の愛想を振りまいて――いやあれは本当はデレてるだけなんだけど――いつもの爽やかさに色気を増量して、さらにいつもの近寄りがたさを少し減らして出社してきた。私は彼の部屋から一緒に出てきたのだけれど、いつものように『ひみつ』対策の一環として電車を降りたところから別行動を取り、少し後ろで引いた状態から彼を見ていた。……デレ過ぎだっていうの。まったく、困ったひと。
例の肉食嬢、もとい、肉食な受付嬢が、その第一発見者。そして、あるものも目撃された筈だ。身を乗り出して体ごとお見送りしているのを見たから。――こらこら、その口は閉じて、そんなに目を見開かないで、ちゃんと受付してくださいよ。
それから、すれ違う人たちみんなを振り返って見送らせるほどに、この日の香坂さんは何もかも違った。
そんな彼に、始業一〇分前、直接切り込んでいった勇者は同じ部署の後輩の女の子。確かバラの棘の時にも聞きに行った子だ。
「――香坂、さん?あの、その、首の、」
「ああ、これ?」
まるで新しいシャツを自慢するみたいに、香坂さんはわざとネクタイを少し緩めて、ボタンをはずして、しかも首まで逸らして、見せつけて云った。
「彼女がつけてくれた。かわいい事するでしょ?」
あっけにとられる一同の中、顔が上げられない私。
香坂さん、と云うか、永君の首には、シャツの襟に全然隠しきれない位置に、私がつけたキスマークがくっきりと残っていた。
もう、そこは、無理があっても華麗にスルーして『ひみつ』って云うとこでしょ!!!!つけた本人が云えた事じゃないけど!
……私もなんだってあんな事しちゃったかなあ……。二人で三連休の間、ずーっと永くんのお部屋でいちゃいちゃしてたから、ついうっかり大胆になってしまった。お酒入ってて気が大きくなったのもあって、後先の事なんか、これっぱかりも考えずに。
彼は見せつけるだけ見せつけて、何事もなかったかのようにボタンをはめてネクタイを直した。
勇者子ちゃんは、まだ質問できる程度のHPが残っていたらしい。
「香坂さん、……彼女さん、いるんですか?」
いつもなら『……ひみつ。』と笑うところ。でももう手の内を晒してるよ?どうする永君。
巻き込まれていない私は、この状況を他人事のように楽しんでしまう。無関心のふりを装って俯いて、ハーブティーを一口飲んで、笑いを堪えた。
彼は何でもないように笑って、資料作りの準備をしながら答える。
「そりゃ、いるでしょう、こんなの恋人じゃない人につけさせないよ俺」
……!認めた!
認める以外ない状況だとは云え、あっさりと。
ちょっとびっくりしてると、立ったままやり取りをしていたその人が急にこっちを向いて、「ね、加奈子?」と爆弾を投下した。ちなみに今まで彼が社内の女性を下の名前で、しかも愛おしそうに目を細めて呼ぶなんてした事はただの一度もない。
危うく口に含んだハーブティーをディスプレイに向かって噴霧するところだった。何とかそれは免れて、ゆっくりと飲み下して、周りを見渡す。
びっくりした目、わくわくした目、いたずらが成功したと云いたげに、笑った目……これは永君だ。……ほんとに、なんて困ったひと。
これまでの数々の『ひみつ』発言を、全部ひっくり返すようなその切り返しに、さてどうしようかと考えて、
――やっぱりこれしかないでしょう。
人差し指を唇に立てて、いっそわざとらしく、澄まして。
「……ひみつ。」
まあ、お昼休みには女子の皆さんに取り調べられ、もとい、聞かれてしまうんだろうけど、今はこれくらいしないと悔しいじゃないか。
そして、お昼休み。
予想通り記者会見場と化した社食の一角で、私と永君は周りをがっちり囲まれて、矢のように質問を浴びせられた。
それに一つ一つスマートに受け答えする永君――それでも答えの半分くらいは「ひみつ。」――と、横であーとかうーとか云ってるだけの私。ちなみに、永君は答えながらさっさとラーメンとチャーハンのセットを完食した。スポークスマンじゃない私は口が暇だったのになかなか食べ進まらない。
ようやく食べ終わると、まだまだ聞き足りない人たちの質問をにこやかに、でもぴしゃりとシャットアウトして、永君は私の手を取り社食を出た。
連れて行かれた廊下の隅で、私は分かりやすく怒って見せた。
「何で『ひみつ』って云わなかったの~!」
「だって、加奈子がつけたんじゃん痕。すごーく嬉しくってさあ、皆に自慢したくなっちゃったんだよねえ。」
愛おしそうに、赤いそれを撫でたりしないで。
「だって、どうすんのよ、ほら、あなたの事好きな女の子さんたちは」
「知らないよ。もう、どうでもいい」
「どうでもいいって……こっちは確実に攻撃目標としてロックオンされたのに!」
これから頂戴する予定の嫌味とか意地悪とか悪意ある噂とか刺さるような視線を思うと、正直頭が痛い。
「いいじゃん、加奈子、もう婚約指輪しちゃえ」
「持ってないし」
「帰りに買ってこう」
そんな、「お味噌切れちゃったから帰りに買ってこう」みたいな軽いノリで云われたって。
ムッとしたまま見上げれば、永君に諭すように云い含められた。
「もう、散々云ったよ俺、結婚しようって。加奈子、そのたんび『今はまだタイミングがー』とかウダウダ云ってたけど俺はいつでもオッケーだったんだし、そのタイミングって今じゃない?」
……確かに。
今までは口約束だけで、永君にも私にもいいと思えるタイミングで結婚しようねと云い合って、そして切り出されてはいつも私が保留にしていた。それを指輪でちゃんとかたちにして周りに知らしめれば、攻撃はガクンと減るだろう。でも。
「……なんかこう、自然に気持ちが盛り上がって、とか、もっと素敵なきっかけがあって、って思ってたんだけどなあ……」
別に、ホテルのスウィートルームでとか三ツ星レストランの個室でとか云わないけどさ。もっと、こう……!
「文句云わないの」
さあほら、午後の業務頑張ろうと肩を抱かれた。
反射でその手を払おうとしたけど、私の事を好きだと隠さない目と態度に、そうか、もう隠す必要もないのかと、こちらも武装を解除して素直に応えた。
「……永君、大好き」
「俺も」
あーあ、まいっちゃうなあ。
結局のところ、私はこの困ったひとに激甘なのだ。
会社なのに廊下なのにじろじろ見られてるのに。
文句ならいっぱいある。でも、会社ではまず見る事のなかった心底嬉しそうな顔をしているから、やっぱり私は許してしまうのだ。
その日のうちに、永君から彼を好きな女の子さんたちに、「俺との事で加奈子に意地悪したり嫌味云ったり攻撃したり無視したり業務を邪魔したり、しないでね。もしそんな事が実際にあったら、会社にも業務妨害として報告するし俺も許さないから」と、具体的なバリエーションを挙げた上で圧力をかけた声明が発表された。
私はその場を目にした訳じゃないのであくまで想像だけど、おそらく壮絶に美しく冷たい貌で云ってのけたに違いない。今まで『ひみつ』にしていた、永君の激しい一面で。
そしてお昼休みに話されたとおり、会社が引けてから連れて行かれたジュエリーショップで、左の薬指に、重くて眩しいものを与えられた。
やけに簡単にお店も指輪も決める割に、とっても私好みだったのが不思議で、タネ明かしをお願いしたら憮然とした顔で答えられた。
「……もう何年も前から、雑誌見てお店も指輪もチェックしまくってた。いつ、加奈子からOKもらってもいいように」
やっと役に立ってよかったよ、と苦笑されて、そんな『ひみつ』もあった事を知る。
永君の言葉とエンゲージリングの効果は絶大で、さすがにそれでも攻撃してくるテロリスト女子は今のところいないのだけど、……視線が痛い。さすがに見るなとまでは云えないし、これ位は二人の関係を『ひみつ』にしていた代償として、受け止めなくちゃいけないんだろうな。
ふ、と痛くない視線を感じれば、ニヤけ顔の彼。ただしそれは一瞬で、すぐに仕事用の顔になっていた。
……えーっと、永君、今のところあなたが一番業務の邪魔です。
とは云えず、赤い顔はひたすらハーブティーを飲むふりして隠しながら、仕事するしかなかった。
あれから永君には『婚約者に夢中な香坂さん』と云う新しくも正しいタグが付けられた。本人もそれはまんざらでもないらしく、ウソ要素がない噂はイイねぇ、なんて笑ってた。
今まで流布した噂――『お台場の高層マンションの最上階の部屋を年上のマダムに買い与えられている』とか、『同時に何人も付き合っててそのうちの一人に堕胎をさせた』とか――に比べたらそう思うのかもしれないけど、噂の的になる事に慣れてないこっちにしてみれば、どんな噂だって十把一絡げだと云いたい。七十五日が早く過ぎて欲しいと願うばかりだ。
それでも、私にとって不名誉な噂を聞かないと云う事は、やっぱり永君が暗躍しているんだろう。たまに、怖い顔して笑ってる。恐る恐る聞いても、勿論返って来る答えは『……ひみつ。』それ以上はしつこくしても答えてくれないのは、今までの付き合いでよーく知っている。そして、私に教えたくない事もあるんだろうなとも、うっすらと理解した。
だから私も、そう、とだけ云って、それ以上は聞かなかった。
攻撃を受けないコツは隙を作らない事だよと云って、就業中でない時間は大抵私といてくれた。残業なんかで一緒にいられない時には必ず私と仲の良い女の先輩や同期の子に駅までの同行をお願いして、私が社内で一人でいる時間を徹底的に潰した。
『ひみつ』で守れなくなっても、別のかたちでちゃんと守ってもらえている。その事で、また永君を好きになる。これ以上好きになんてなれないと思っても、天井だと思っていたそこはまだ天井じゃなくて、日々その高さを更新している。目が眩むのは、その高さ故か、幸せ故か。
本当のところを云うと、婚約者に夢中なのは、むしろこっちだ。
結婚を焦らしていたのは、恋人じゃなくなったらドキドキしてもらえなくなるかもと云う事を怖れていたから――と、これは数少ない私の『ひみつ』。いつか、結婚して時が経って、それでも二人とも互いに夢中だったら、その時に告げようと密かに決めている。
今はまだ、あなたの方が私に夢中だと、そう思わせる事を赦してね。
……酔ってんのかな、私。
私のこの『ひみつ』は心の中でまだ熟成中だけど、永君が抱えていた私に関する『ひみつ』はするりとほどけて、あまいあまいお酒になった。
だから、それに酔っちゃうのは仕方のない事なのかも――なんてね。
ひっそりと笑えば、隣で寝ている永君が夢うつつながら話しかけてくる。
「……かなこ、……眠れないの?……」
「ううん、もう寝る、おやすみ」
「……ん、おやすみ……」
その高い鼻の先にそっとキスをして、幸せそうな顔をしたのを見届けてから、私も目を瞑った。
幸せな『ひみつ』を、一つだけ抱えて。