5.剥離
真由は病院からの帰り道を徒歩で歩きながら、様々なことを思い起こしていた。
カンナの真意がわからなかった。
黒々としたビルが屹立した道路をとぼとぼと悲しい気持ちをこらえながら歩く。
全部見間違いで、全部勘違いで、真実がもっと幸福だったらいいのに。
自分のことも、他人のことも、理解できない。
カンナは自分が不感症であることを、6年前から気づいていた。
愛に悩んでいる今の自分を知っていた。
だから、愛が必要ない関係を作った。それでもし、自分が不感症を克服できたなら、そこからが彼にとってのスタートだったのだ。
そんな優しいカンナを、真由は愛したいと思い始めていた。
だから、知香たちの言葉を信じたくないと思ったのだ。
わからないなら、聞けばいい。
そうだ、一人で抱えてないで、相談すればよかったのだ。
真由は携帯を取り出して、カンナの番号をコールした。
ねぇ、お願い。会いたい。
「話がしたいの」
「奇遇だね。俺もセンセと話がしたいって、思ってたとこ」
カンナは真由のアパートの部屋の前にいた。
その様子が、アパートに帰って来た真由から窺えた。
カンナはすぐ真由に気づいて、小さく手を振った。
真由はコーヒーを二つ用意し、お互い本題に入るタイミングを計るような他愛もない話から始めた。
そして、コーヒーを半分ほど飲み終わったとき、意を決した。
「達也に……教えたの……?」
カンナはそれだけで何のことか悟ったように、顔を歪めた。
「……あぁ」
「知香ちゃんに怪我させたって」
「違う! あれは、アイツらがっ」
「あいつらが……なに?」
「……ごめん」
「なに? ねぇ、言ってよ……」
「ごめん」
カンナは項垂れた。
説明できないんだ……と真由は口の中で呟いた。
悲しかった。
信じてたのに。信じたかったのに。
「……どうして? 何か、何か理由があるんでしょう?」
カンナは項垂れたまま「センセには関係ないよ」と呟いた。
それが真由の胸をえぐった。一番辛い言葉だと思った。
しばらく、お互いに口を開けなかった。
醒めかけたコーヒーが細い糸を吐き出しているのを、真由はじっとみつめる。
「カンナ君」
「……はい」
「どうして達也の番号、知ってたの? どうして知香ちゃんと話した内容知ってたの?」
それを聞いて、カンナの頬が引きつった。
真由はその答えをなんとなく、病院からの帰り道で考えていた。
「……まさか……」
「……ごめん」
この場合の謝罪は肯定と同義だ。
真由は愕然として、思わず立ち上がった。
「……最ッ低! 最低よ、カンナ君!」
信じられない。怖い。恐ろしい。理解できない。まさか、そんな――
「つけまわしてたの? ストーカー、だったの……?」
カンナは何も言わなかった。小さく震えている彼の背が、一瞬で理解できぬ異物に変わる。
「……帰って」
真由は後ずさりして、震える声で言った。手には携帯を握り締めて、何かあれば警察に電話できるように。
それを見て、カンナは静かに立ち上がった。悲痛そうに顔を歪め、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
本当に泣きたいのはこっちのほうだと、真由は思った。
カンナは玄関を開いたところで振り返り、壊れかけた笑みを浮かべた。
「俺は、センセを守りたかった、だけだ……。俺を救ってくれたセンセを、救ってあげられたら……って。それだけは信じてほしかった」
彼は一筋の涙を流して、そのまま部屋を後にした。
ドアが閉まり、真由は緊張の糸が解け頽れて、そのまま手のひらで顔を覆って泣き始めた。