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美人の先輩との交際を否定したら、本人に「まだ、でしょ?」と訂正されました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/12

「折原さんと付き合ってるの?」


 月曜の昼休み、同僚にそう聞かれて、俺は飲みかけの水を置いた。


「いや。付き合ってないよ」

「そうなの? 土曜日、二人でいたから」


 見られていたのか。

 映画のあと、先輩と駅前の店で話していたところを。

 別に隠れていたわけではない。けれど、会社の人に見られたと知ると、妙に落ち着かなかった。


 その日の仕事が終わってから、先輩に連絡した。

 勝手に交際していることにされるのも困るだろうと思ったからだ。

 すると、先輩から電話がかかってきた。


「付き合ってないって答えたんだ」

「はい。事実と違うので」


 短い沈黙があった。

 まずい言い方をしただろうかと思ったところで、耳元に声が届いた。


「まだ、でしょ?」


 聞き返すより先に、先輩が続けた。


「そこは、“まだ付き合ってない”にしてほしかったな」


 職場では無愛想だと評判の、二歳上の美人の先輩。

 その人が、俺の返事を待っていた。


     *


 最初に折原先輩と話したのは、会社の会議室だった。

 俺は鷹野郁人、二十五歳。営業部の三年目だ。

 折原奈緒佳先輩は商品企画部の五年目で、歳は二つ上だ。

 担当商品の販促資料を作るため、企画部に確認を頼みに行った。


「鷹野くん。この比較表、数字の条件が揃っていません」


 先輩の指が、俺の資料の二か所を示す。

 整った横顔を見ている余裕はなかった。


「こちらは月ごと、こちらは年間の平均です。このままお客さまに見せると、誤解される可能性があります」

「すみません。揃えます」

「元のデータの場所を送りますね。ほかの部分は、これで大丈夫です」


 叱責されたわけではない。

 必要なことを、正確に指摘された。それだけだ。

 それでも、笑顔のない落ち着いた声に緊張した。


 部署へ戻ると、同僚に「折原さん、怖いだろ」と言われた。


「怖いっていうか、隙がないな」

「あの人、雑談が続かないんだよな。美人だけど、近寄りがたい」


 俺も、そのときは頷いた。

 あとで届いたメールに、使う数字と出典が整理されているのを見て、仕事のしやすい人だとは思ったけれど。


 その翌週の日曜日。

 俺は初めて参加する映画サークルの集合場所で、折原先輩を見つけた。


 引っ越してから、休日に会う友人が近くにいなかった。

 一人で映画を観るのは好きだ。でも、面白かった場面を誰かに話したくなる。

 そんな理由で、社会人向けの小さなサークルに申し込んだのだ。

 活動は月に二回。参加できる人だけが集まり、映画を観て、希望者は近くの店で感想を話す。費用は各自負担だった。


「……折原先輩?」


 薄い緑のカーディガンを着た先輩が、こちらを振り向いた。

 俺に気づいて目を丸くし、それから少し笑った。


「鷹野くん。初参加の人って、あなただったんだ」

「先輩も、映画がお好きなんですね」

「うん。ここには半年くらい前から」


 世話役の男性が、二人を見比べた。


「お知り合いですか?」

「同じ会社なんです。部署は違うんですけど」


 先輩が答える。

 俺は初参加なのに、同じ会社の先輩がいることで、かえって肩が凝った。

 休日まで、失礼なことをしないように気をつけるのか。

 そんな俺の顔を見たのか、先輩は声を落とした。


「今日は仕事じゃないから、そんなに緊張しないで」

「してないです」

「今、鞄の持ち手を両手で握ってる」


 言われて初めて気づいた。

 先輩が、口元を押さえて笑った。

 会社では見たことのない顔だった。


 その日の映画は、父親の遺品を整理するために故郷へ帰った青年の話だった。

 上映後、六人で喫茶店に入る。

 感想は一人ずつ発表するような形式ではなく、誰かが気になった場面を話し、別の人が応じる。詳しい知識がなくても参加しやすかった。


「私は、最後まで手紙を開けなかったところが好きでした」


 先輩が言った。


「お父さんの言葉を読む前に、自分で決めたかったんだと思うんです」


 その話し方は、会社よりずっと柔らかかった。

 映画のことなら、こんなに話す人なのか。

 感心して聞いていたら、不意に目が合った。


「鷹野くんは?」

「俺は、ちょっと引っかかりました」


 口にしてから、しまったと思った。

 初参加で、先輩の好きな場面に否定的なことを言ってしまった。


「引っかかったの、どこ?」

「手紙を読まないまま、家を売るって決めたところです。父親への気持ちが変わるかもしれないのに、決める前に読まなくていいのかなって」


 先輩は、むっとするどころか身を乗り出した。


「でも、気持ちが変わったら、売れなくなるかもしれないよね」

「それも含めて考えた方が、後悔しない気がして」

「ああ……。鷹野くんは、決めたあとで知らされる方が嫌なんだ」

「はい。たぶん」


 言葉にしてもらうと、自分の引っかかりがはっきりした。

 ほかの参加者も加わって、その場面について話した。答えは一つにならなかったけれど、楽しかった。


 帰り道、駅までの短い距離を先輩と並んで歩いた。


「さっき、謝ろうとしたでしょ」

「顔に出てました?」

「少し。同じ感想じゃなくていいからね」

「先輩が好きだって言ったところだったので」

「だから、違う見方を聞けると面白いの」


 先輩は鞄からスマホを出し、サークルの連絡グループを開いた。


「来月の作品、候補が出てるよ。また来る?」

「来ます」

「よかった」


 それだけの言葉だった。

 けれど、会社で受け取る「確認しました」よりも、ずっと長く耳に残った。


     *


 二回目の活動では、先輩が俺の席を取ってくれていた。

 映画の座席ではない。上映後に入った喫茶店の、長いテーブルの一角だ。

 俺が注文を済ませて戻ると、隣の椅子から先輩が自分の鞄を持ち上げた。


「ここ、どうぞ」

「ありがとうございます」

「さっきの、海の場面。どう思った?」


 座った途端に聞かれた。

 コートすらまだ脱いでいない。


「ずっと聞きたかったんですか」

「うん。でも、上映中は話せないから」


 楽しそうに言うから、俺まで笑ってしまった。


 今度は俺が好きだった場面に、先輩が首を傾げた。

 主人公が何も言わず、恋人の出発を見送る場面だ。


「あそこまで黙ってたら、伝わらなくない?」

「言ったら、引き留めちゃうと思ったんじゃないですか」

「相手がどうするかは、相手に決めてもらえばいいのに」

「……それは、そうですね」


 俺があっさり頷くと、先輩は眉を上げた。


「納得させちゃった?」

「させられました」

「もう少し粘ってくれてもよかったのに」


 その言い方がおかしくて、二人で笑った。

 ふと気づくと、先輩の目元に小さな皺が寄っている。

 会社で見る綺麗な顔より、今の顔をもう一度見たいと思った。


 翌月の最初の集まりでも、上映後に皆で喫茶店へ入った。

 先輩は、空いている席がほかにあっても俺の隣に座った。

 感想を話すときも、ほかの人の意見に耳を傾けながら、ときどきこちらに顔を向ける。


「鷹野くん、今、言いたそうだった」

「分かるんですね」

「口が少し開くから」


 そんなところまで見られているとは思わなかった。

 緊張して黙ると、先輩は少し待ってくれた。

 俺の言葉がまとまったところで、「うん」と続きを促す。

 話し上手というより、この人と話すと、自分が話していい気がする。


 帰宅したあと、サークルの連絡グループに今日の写真が送られてきた。

 世話役が撮った、テーブルを囲む俺たちだ。

 写真の中の先輩は、俺の方を見て笑っていた。

 俺はその画像を、一度閉じてから、もう一度開いた。


 月曜日の先輩は、相変わらずだった。


「鷹野くん、資料の差し替え、ありがとうございます。営業側で確認が済んだら、共有してください」

「はい」


 通路で交わしたのは、仕事の話だけだ。

 隣にいた同僚が、小声で言った。


「折原さん、今日も淡々としてるな」


 前なら、俺もそう思った。

 でも今は、日曜日に笑いながら話していた姿が浮かぶ。


「話を聞いてくれる人だよ。仕事でも」

「お前、前より緊張しなくなったな」


 同僚に言われて、気づいた。

 先輩に失敗を見つけられるのが怖いのではなく、ちゃんとしたものを見せたくなっている。

 それは似ているようで、違った。


     *


 次の週末の約束は、先輩の方から届いた。

 サークルで候補になったものの、日程が合わずに見送られた映画だ。上映が終わる前に観に行こうと誘われた。


『鷹野くんも、気になるって言ってたよね。土曜日、空いてる?』


 空いていた。

 予定があるとしても、動かせないか考えただろう。


『空いてます。一緒に行きたいです』


 今度はサークルの集まりではない。

 先輩と二人で映画に行く。

 約束をしたあと、嬉しくて、部屋を一周してしまった。


 上映時間は俺が調べた。

 座席の希望を聞いてから二人分を予約し、先輩が自分の分を送金してくれる。

 並んだ席の番号を見ながら、デートという言葉が頭をよぎった。

 ただ、同じ映画が好きな人同士でも、二人で観に行くことはある。

 そう思うことにしても、土曜日が楽しみなのは変わらなかった。


 先輩は、いつもより明るい色の服で待ち合わせに来た。

 映画の感想を話しながら駅前の店に入り、気づけば二時間近く経っていた。

 好きな作品を聞くつもりが、子供の頃は夜更かしをして親に叱られたという話にまで広がったのだ。


「途中で切り上げられなくて。次の場面まで、って思っちゃう」

「分かります。俺、それで翌日の一限に遅れたことあります」

「私は寝不足で授業中に寝て、結局また叱られた」


 先輩が肩をすくめる。

 今の先輩からは想像しにくくて、笑った。

 映画の話をしていない時間も、楽しかった。


 帰り際、俺は近くの映画館でやっている特集上映のポスターを指さした。


「この監督、先輩が好きだって言ってましたよね」

「覚えてたんだ」

「はい。来週から、昔の作品も上映するみたいです」

「一緒に行く?」


 先輩が、俺を見た。

 俺は頷きかけてから、言い直した。


「行きたいです。今度は、俺から誘わせてください」


 先輩が少し目を丸くした。

 それから、「じゃあ、お誘い待ってる」と笑った。


 それが、土曜日のことだった。


     *


 月曜日、同僚に交際を尋ねられた。

 そして仕事のあと、先輩から電話が来た。


「まだ、でしょ?」


 聞き返すより先に、先輩が続けた。


「そこは、“まだ付き合ってない”にしてほしかったな」


 俺は、スマホを耳に当てたまま固まった。

 まだ。

 その二文字を、間違って受け取ってはいけない気がした。


「……それって、俺が期待してもいい意味ですか」

「うん。そういう意味で言ってる」


 曖昧に笑って済まされることはなかった。

 先輩は、静かに答えた。


「映画に誘ったときも、そのつもりだったんだけど。鷹野くんは、どうだった?」


 俺は、椅子に座り直した。


「嬉しかったです。デートだったらいいなって、思ってました」

「だったら?」

「勝手にそう思って、先輩に気を遣わせるのが嫌で」

「私は、一緒に行きたい相手しか誘わないよ」


 いつもの簡潔な話し方が、今はありがたかった。

 俺も、返事を濁したくなかった。


「次は、はっきりデートとして誘っていいですか」


 口にすると、心臓の音が速くなった。

 電話の向こうで、先輩が息を吐いた。


「うん。行きたい」


 聞きたかった返事だった。

 それが嬉しくて、俺はその夜のうちに上映時間と店を調べた。


     *


 初めての、デートと呼ぶ休日。

 俺は待ち合わせの十五分前に着いた。

 先輩も、五分後に来た。


「早いね」

「先輩も」

「早く目が覚めたから」


 薄い色のブラウスに、紺色のスカート。

 耳元に小さな銀色の飾りが揺れていた。


「その、似合ってます」


 言ってから、何が、と自分に突っ込んだ。

 先輩は耳元に手をやり、少し照れた顔をした。


「ありがとう。今日はこれにしてよかった」


 それだけで、今日を成功させたくなった。

 楽しかったと思って帰ってほしい。

 次も会いたいと思ってほしい。

 先輩が好きだと言っていた監督の映画を、俺も好きになれたらいいと思った。


 けれど、その日の映画は、俺には合わなかった。

 映像は綺麗だったし、台詞に頼らず人物の気持ちを見せるところも、面白かった。

 ただ、最後に主人公が何も告げずに町を去ったことが、どうしても引っかかった。

 心配して探し回っていた友人には、せめて連絡してもいいのではないか。

 そう思ったまま、明るくなった客席で立ち上がった。


「私は、すごく好きだった」


 隣で先輩が言った。

 目が輝いている。


「あの監督の作品で、一番好きかもしれない。鷹野くんは?」

「……面白かったです」


 嘘とまでは言えない。

 面白かった部分は、確かにあった。

 でも、普段なら話したはずの引っかかりを、俺は飲み込んだ。


 予約していた店へ歩く途中も、先輩は映画のことを話した。

 俺は頷きながら、好きだと思えた部分だけを探して答えた。

 いつものように話が広がらない。

 代わりに、店までの道と、注文する料理のことを話した。


 食事を終える頃には、先輩の口数も減っていた。


「このあと、どうする?」


 聞かれて、俺は用意していた候補を伝えた。

 先輩が以前好きだと話した雑貨店と、静かに休めそうなカフェ。


「どっちがいいですか。先輩の好きな方で」

「鷹野くんは?」

「俺は、どっちでも」


 先輩の指が、グラスの側面で止まった。


「そう」


 気に入らない店だったのだろうか。

 別の候補を探そうとスマホを出しかけたとき、先輩が俺を見た。


「今日、私に合わせてくれてた?」


 俺は手を止めた。


「映画の感想、いつもより短かったから。疲れてるのかなって思ったんだけど」

「疲れてはいないです」

「じゃあ……私と二人だと、話しにくかった?」


 顔を上げた。

 先輩は笑っていなかった。

 怒っているのでもない。返事を聞くのが少し怖そうに見えた。


「違います。話しにくいんじゃなくて」


 言葉を探した。

 綺麗に説明しようとすると、また違うものになる気がした。


「格好つけてました」


 先輩の目が、少し丸くなった。


「嫌な思いをさせたくなくて。先輩が好きな映画だって分かってたから、好きじゃないところは言わない方がいいかなって」

「それで、合わせてくれたんだ」

「はい。好きになってもらいたくて」


 言い終えて、顔が熱くなった。

 先輩はしばらく黙って、それから小さく言った。


「私は、もう好きだから誘ったんだけど」


 店内の音が、一瞬遠くなった。

 そういう意味で誘った、と電話では聞いていた。

 けれど、好きという言葉を本人の声で聞くのは、違った。


「……はい」

「でも、今日は私ばっかり楽しみにしてたのかなって、ちょっと怖かった」


 先輩はグラスから手を離し、膝の上に置いた。


「デートとして会ってみたら、思っていたのと違ったのかなって」

「それは違います。今日も、一緒にいられて嬉しいです。ただ、緊張してました」


 そこだけは、すぐに答えられた。


「先輩とまた会えるのが嬉しくて。今日は絶対に失敗したくないと思って、それで」

「うん」

「……話すのが下手になりました」


 先輩が、少しだけ笑った。

 ほっとして、俺も笑えた。


「最初に一緒に映画を観た日、覚えてる?」

「手紙を開けなかったところの話ですか」

「そう。あのとき、嬉しかったの。私が好きだって言っても、自分の感想をちゃんと話してくれたから」


 俺は頷いた。


「会社でも、休日でも、怖がられたり、何でもいいって言われたりすると、相手がどう思ってるか分からないでしょ。鷹野くんとは、そうならなかったから」


 綺麗な人だと思っていた。

 仕事ができて、落ち着いていて、迷わず言葉を選べる人だと。

 でも、返事を待つ間に不安になることもある。

 俺が笑っているか、楽しんでいるかを気にして、今日を過ごしていた。


「すみません。隠してたら、分からないですよね」

「うん。でも、もう分かった」


 先輩が、テーブルの上の俺の手を見た。


「じゃあ、今から聞いてもいい? 今日の映画の、好きじゃなかったところ」


 俺は一度、息を吐いた。


「最後の、町を出ていくところです」

「そこ、私は一番好きだった」

「ですよね。だから、言いそびれました」


 先輩が笑う。

 俺は今度こそ、自分の感想を話した。


「主人公が離れたかった気持ちは分かるんです。でも、探してくれてた友人まで、置いていかなくてもいいんじゃないかって」

「私は、あの友人にも頼らずに出ていったのが、必要だった気がしたんだ」

「どうしてですか」

「戻ってきてって言われたら、きっと戻っちゃうから。あの人、前にも自分の希望を引っ込めてたでしょ」


 俺は、途中の場面を思い出した。

 友人は善意で主人公を助けていた。

 けれど、助けられるたびに、主人公は出ていく時期を延ばしていた。


「……ああ。俺は、友人の方に気持ちが寄ってたかもしれません」

「私は主人公の方だった。だから、見え方が違ったのかも」

「ただ、落ち着いたら連絡くらいはしてほしいです」

「それはしてほしい。私も、そこは心配だった」


 同じところが少しだけ見つかった。

 全部同じにならなくても、話してよかった。

 先輩は、さっきまでよりずっと楽しそうだった。


 気づけば、食後のお茶が冷めていた。

 会計を済ませて外へ出ると、午後の風が頬に当たった。


「このあとなんですけど」


 俺はスマホを出さずに言った。


「さっき挙げた店は、次でもいいですか」

「いいよ。何か行きたいところがある?」

「もう少し、一緒にいたいです。駅まで、遠回りして歩きませんか」


 先輩が俺を見る。

 俺も、目を逸らさなかった。


「映画の話ばっかりだったから、先輩のことも聞きたいです」

「何を?」

「休日に映画を観ない日は、何してるのかな、とか」


 先輩は少し考えた。


「掃除して、洗濯して、昼寝してることもあるよ」

「俺と同じでした」

「期待外れ?」

「いえ。昼寝が得意ってところまで同じだったら、嬉しいです」


 先輩が声を出して笑った。

 俺は、その顔を見たくて会いに来たのだと思った。

 映画の選び方が上手だからでも、会社で美人と評判だからでもない。

 話を聞いて、自分のことも話してくれる、この人に。


     *


 川沿いの道を歩きながら、取りとめのない話をした。

 先輩は、平日は目覚ましを二つかけるくせに、休日はひとつもかけないらしい。

 俺が洗濯で白いシャツを薄い青にした話には、立ち止まるほど笑った。


「それ、もう捨てたの?」

「部屋着にしました。まだ着られるので」

「鷹野くんらしい」


 会社では聞かない声だった。

 けれど、仕事中と休日とで、違う人になるわけではない。

 俺の話を最後まで聞くところも、気になることを曖昧にしないところも、ずっと同じだった。


 橋の手前のベンチで、少し休むことにした。

 俺が座ると、先輩は隣に腰を下ろした。

 サークルの喫茶店で、いつも隣に座っていたときと同じような距離だった。


「サークルでも、いつも隣でしたよね」

「気づいてたんだ」

「気づいてました。でも、話しやすいからかなって」

「それも、あるよ」


 先輩は、目の前の川を見た。


「でも、向かいでも話せるからね」


 俺は、膝の上の自分の手を見た。

 今日のために調べた店も、予約した席も、無駄だったわけではない。

 でも、隣にいるこの人に伝えたいことは、もっと簡単だった。


「俺、先輩のことが好きです」


 奈緒佳先輩が、こちらを向いた。


「今日は、途中で変に気を遣いました。でも、こうやって話せて、また会いたいと思ってます。先輩も不安になるって分かったら、ちゃんと俺から伝えたいと思いました」


 言いながら、やっぱり緊張した。

 先輩が好意を示してくれていても、言葉にするには勇気が要る。

 あの電話をかけたとき、先輩も同じだったのだろうか。


「俺と、付き合ってもらえますか」


 先輩の唇が、少しだけ震えた。

 それから、嬉しそうに笑った。


「はい。私も、また会いたい」


 俺は頷いた。

 肩から力が抜けて、ようやく息を吐けた。


「よかった……」

「分かってても、緊張するね」

「先輩もですか」

「私も。さっき、映画の感想を聞いたときより緊張した」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。

 少し落ち着いてから、俺はベンチの上に置かれた先輩の手を見た。


「手、つないでもいいですか」

「うん」


 指先に触れると、先輩も手を動かした。

 握り返されたことが嬉しくて、繋いだ手をしばらく見てしまった。


「次の日曜日、どうします?」

「もう次の予定?」

「また会いたいって、言ってもらったので」


 先輩が笑った。


「うん。会いたい。今度は、鷹野くんが行きたいところを教えて」


 俺は少し考えて、駅の向こうにある古い商店街の名前を挙げた。

 引っ越してきてから気になっていたのに、まだ歩いたことがない場所だった。


「何があるか、あまり知らないんですけど」

「じゃあ、二人で見に行こう」


 先輩が、繋いだ手を小さく揺らした。

 全部調べてから誘わなくてもいい。

 そう思えたのは、隣の人も一緒に選んでくれるからだった。


     *


 月曜日の折原先輩は、いつも通りだった。


「鷹野くん、この比較表は確認しました。営業側の確認が済んだら、共有をお願いします」

「はい」


 仕事中は仕事に集中しようと、帰り道に二人で話していた。

 別部署とはいえ業務では関わるし、周りに気を遣わせたくもなかった。

 俺の資料に不備があれば、先輩はこれまでと同じように指摘するだろう。

 それを、嫌だとは思わない。


 昼休み、先週の同僚と二人になった。

 あのあと彼が誰かに話した様子はなかったけれど、聞いてくれた本人には伝えておきたかった。

 先輩にも、そう話して了解をもらっている。


「この前の話、訂正していい?」

「折原さんの?」

「うん。あのときは本当に付き合ってなかったんだけど、土曜日から付き合うことになった」


 同僚は目を丸くして、それから笑った。


「おめでとう。じゃあ、余計なことは言わないでおく」

「ありがとう」

「でも、あのとき二人とも、ずいぶん楽しそうだったよ」


 俺は少し照れて、頷いた。

 あの日が楽しかったことは、間違いない。

 その先も一緒にいたいと、今は二人とも知っている。


 仕事を終えて帰宅すると、先輩からメッセージが来ていた。


『商店街に、古い映画のポスターを売ってる店もあるみたい』


 画像を開くと、俺が好きだと話した作品が、店の壁に飾られていた。

 俺の方が行きたい場所を言ったのに、先輩が続きを見つけてくれた。


『日曜日、一緒に見たいです』

『うん。隣で感想を聞かせて』


 俺は笑って、返事を打った。


『今度は、正直に話します』


 すぐに、笑っているスタンプが届いた。

 次に意見が違っても、隠さずに話せばいい。

 先輩の返事が楽しみだから。


~完~


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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