警察捜査資料 / 居留品処分案件
✕月12日(月)
今日から新しいマンションでの生活が始まりました。
駅からは少し歩きますが、築年数の割に家賃が安く、何より周囲に高い建物がないため非常に見晴らしが良い。
繫華街の喧騒から離れた、この静かな最上階の角部屋は、ようやく手に入れた聖域なのです。
やはり、私の選択は正しかった。そう自分に言い聞かせながら、心地よい静寂の中で眠りにつこうとした、その時でした。
ふと目が覚めました。
枕元の時計を見ると、時間は23時59分。
日付が変わる直前の、もっとも深い静寂が訪れるはずの時間帯です。
遠くの外の方から、かすかに「音」が聞こえてきました。
赤ん坊の泣き声でした。
「オギャア、オギャア」と、夜の冷たい空気を震わせるような、甲高い声。
私は不快感に眉をひそめました。こんな夜遅くに、一体どこの不届きな親が赤ん坊を外に連れ出しているのでしょうか。我が子のしつけもまともにできない無責任な人間に、親を名乗る資格などありません。私は深くため息をつき、耳栓をきつく耳の奥へ押し込み、気にせずそのまま眠ることにしました。
✕月13日(火)
また、同じ時間に目が覚めてしまいました。
スマートフォンの画面が示す時刻は、やはり23時59分。
そして、昨日と全く同じ位置、まったく同じ音量で、外から赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのです。
私は非常に論理的な人間です。ですから、これは昨夜の親がまた同じ時間に散歩でもさせているのだろうと、冷徹に結論づけました。他人の家庭の計画性のなさを心の中で軽蔑すれば、不思議と怒りは収まるものです。こんな下らない雑音のために、私の貴重な睡眠時間をこれ以上削られるわけにはいきません。私は昨日と同じように、ただ静かに毛布を頭から被り、目を閉じました。
✕月14日(水)
23時59分。
まるで精密な機械に脳を操作されているかのように、私はきっかりその時間に意識を取り戻しました。
聞こえてきます。やはり、赤ん坊の泣き声です。
ただ、昨日までとは決定的な「違い」がありました。
声が、二人分になっているのです。
ベランダの窓越しに、二人の赤ん坊が競い合うようにして、高い声を張り上げている。
おかしいと思いませんか? 昨日の親が、今日はわざわざもう一人の赤ん坊を連れて同じ場所へやってきたというのでしょうか。そんな不合理な行動をとる人間が、この世に存在するはずがありません。
窓を開けて外を怒鳴りつけてやろうかと思いましたが、関わるだけ時間の無駄です。私はオーディオのボリュームを上げ、クラシック音楽でその声をかき消しながら、無理やり意識を沈めました。
✕月15日(木)
耐えられません。もう限界です。
23時59分に目が覚めた瞬間、私は悲鳴を上げそうになりました。
音が、外からではないのです。
私の真下――「下の部屋」から聞こえてきました。
それも、昨日までのものとは比較にならないほどの凄まじい大音量でした。床のフローリングを伝って、私の足の裏にまで不快な振動が響いてくる。
「オギャアア! オギャアアア!!」
まるで、何十人もの赤ん坊が一斉に泣き叫んでいるかのような、悍ましい反響でした。
管理会社に抗議しようとスマートフォンを握りしめましたが、すぐに気づきました。下の部屋は、確か空室だったはずです。内見の際、不動産屋から「下の階は現在募集中です」と説明された記憶が、鮮明に残っています。
では、この音は一体何なのですか。
そのうち、泣き声の性質が変化し始めました。
下の階というよりは、もっと近い場所。私の座っている床のすぐ下、そして、コンクリートの壁の「内側の隙間」から、無数の細い声が、じっとりと染み出してくるのです。
「ギィ、ギャア、オギャア、オギャアアアア!!」
部屋全体が、赤ん坊の泣き声という名の泥水に浸されていくようでした。
耳を塞いでも、脳髄を直接揺さぶられるような不快感。ここにいたら、私の精神が狂ってしまう。私は財布とスマートフォンだけを掴み、裸足にスニーカーを引っ掛け、逃げるように部屋を飛び出しました。
近くの24時間営業のコンビニエンスストアへ駆け込み、明るい店内で、温かい缶コーヒーを飲みながら時間を潰しました。他人の出す音にあれほど神経質だった私が、コンビニの無機質な入店音や、店員の作業音にこれほど救われるなんて、皮肉なものだと思いませんか?
一時間ほど経ち、深夜の1時を過ぎた頃、私は意を決してマンションへ戻りました。
エレベーターを降り、長い廊下を歩きましたが、建物全体が嘘のように静まり返っていました。
部屋のドアを開けても、そこには私が愛した、あの完璧な静寂が戻っていました。壁の隙間からも、床下からも、何も聞こえない。
怪異は、私が部屋を留守にしている間、一斉に息を潜めていたのでしょうか。
それとも、私が戻ってくるのを、じっと待っていたのでしょうか。
私は泥のようにベッドへ倒れ込み、朝まで意識を失いました。
✕月16日(金)
23時59分。
時計を見たのではない。分かってしまうのです。
今度は、上の階から聞こえてきます。
私の部屋は最上階です。上に部屋などあるはずがない。それなのに、天井のコンクリートの向こう側から、これまでにないほど狂おしい、地獄のような赤ん坊の鳴き声が、滝のように降り注いでくる。
私は恐怖のあまり、仰向けのまま、身動きが取れなくなりました。
ただ、目だけを開けて、天井を睨みつけることしかできなかった。
ブラインドの隙間から差し込む、薄暗い街灯の光の中で。
白い天井のクロスが、内側から押し出されるように、ボコボコと歪み始めました。
最初は、小さな手。
次いで、小さな足。
そして――無数の、赤ん坊の「顔」が、天井のあちこちから、まるで沸騰するお湯の泡のように、ボコボコと湧き出してきたのです。
顔、顔、顔、顔、顔。
どれもが、肉が腐り落ちたような土気色をしており、粘土細工のように目鼻が融解している。
その天井を埋め尽くした無数の顔が一斉に、その悍ましい「口」を、私の顔に向けて大きく開き始めました。
ああ、そうか。
一日ごとに、奴らは近づいてきていたのではない。
外から、下へ。下から、壁の中へ。壁の中から、上へ。
私を、取り囲むように。
✕月17日(土)
08時34分。
目が覚めたら朝でした。
また夜が来たらどうなるのか?
もう選択肢はありません。
(日記の記述はここで途切れている。なお、緒方さんのスマートフォンおよびPCは、失踪当時、部屋のデスクの上に遺されたままだった)




