私も島に行きました
友人に誘われ、健太は離島・姫姜島を訪れる。そこには「嘘の声を飲み込む海獣モナ」の伝説が残っていた。島で奇妙な体験をした後、友人は姿を消す。
数年後、島の話を聞いたおばち倶楽部の1号が体験談として投稿したことをきっかけに、モナの噂はSNSで拡散していく。「私もその島へ行った」と語る者が現れ、体験談は少しずつ形を変えながら増殖していった。
やがて姫姜島は世間の注目を集める。発起人まること1号のもとにも、責任を問う声が届き始める。モナとは何なのか。消えた友人はどこへ行ったのか。言葉だけが先に進み、誰も引き返せなくなっていく。
第1章 海獣モナ
船は思ったより揺れていた。空と海はどちらも同じ色で、境目が見当たらない。船が波を越えるたび、連なる白波が魚の腹みたいに浮かんでは消えた。
波を切る音に混じって、大輔の笑い声が聞こえる。
「姫姜島なんか余裕やろ。」
そう言って、大輔は缶コーヒーを片手に笑っていた。なんで笑えるんだ。なんでこんなことになった。いや、違う。そうじゃない。
そういえば俺、昔からこんな感じだったな。何かを決める時、先に口を開くのはいつも幼なじみの大輔だった。野球部も。工場も。健太はその後ろで頷くだけだった。そして今も。
船が大きく揺れた。前を見ると、灰色の海の向こうに島影が浮かんでいた。「見えたで。」大輔が身を乗り出す。姫姜島だった。
島の空気は妙に張りつめていた。船のエンジン音が切れたあとも、振動だけが足元に残っている。港に人影はない。船から降りたのは、俺たちと高齢の夫婦だけだった。
大輔がポケットから携帯を取り出し開けた。「うわ、圏外やん。終わった。」「マジか。」「まぁちょっと動いてみたら入るやろ。ほら、あの店らへん。」
大輔は港の先にある古びた商店を指さした。潮の匂いの中に、乾いた埃の匂いが混じっている。看板の文字は、読むたびに少し形を変えて見えた。
商店は思っていたより小さかった。棚には洗剤や缶詰が並び、入口には和風のドット柄の割烹着が並んだハンガーに掛けられている。レジには誰もいない。
「見ろ、黒電話!初めて見たわ。」
持ち手に付けてある花柄のカバーは、少し黒ずんでいた。大輔は気にせず、受話器を耳に当てたり、意味もなくダイヤルを回したりしている。その横に、電話帳のような冊子が置かれていた。段ごとに切り込みが入り、名前を探しやすくした名簿だった。何気なく手を伸ばしかけて、やめた。その上の壁に、一枚の貼り紙が貼られている。
『モナ沈鎮 七月十五日 荒天中止』
墨が滲み、何年も貼られたままのように見えた。「モナ沈鎮?」思わず声に出したその時だった。
「何の用な?」低い声だった。健太は肩を震わせた。一瞬、別の緊張が蘇る。振り返ると、色黒の老婆が立っていた。ぎょろりとした目が、二人を順番に見ている。いつからそこにいたのか分からない。
「俺ら、この島について知りたくて。まぁ研究というか、そんな感じで。」
大輔が何の躊躇もなく答えた。
「そうな。こげな島に何の専門か知らんっちゃけど。ここん店にゃあんたらが知りたそうなこたぁ、なーんもないよ。」
老婆は真っ直ぐ二人を見た。
「そうっすか。じゃ、他を見てまわります。」「お、お邪魔しました。」
二人は店を出た。商店を出て、右手の緩やかな坂道を登っていった。しばらく歩いてから、健太は気づく。大輔の脇に、あの名簿帳が挟まっていた。――いつの間に。大輔は気づいていないのか、気づかないふりをしているのか、鼻歌まじりに歩いている。健太は何も言わなかった。
「泊まるとこ探さないとな。」
「うん。なんか、何にも無さそうやけど…。あ、あの人に聞いてみる?」
畑で作業をしている男性に声をかけた。
「あのー。この辺って、宿ありますか。」
男性は鍬を止め、二人を見た。
「知らん。」
それだけ言って、また土に目を落とした。
「じゃあ、この辺で泊まれる場所とか……。」作業の手を休めず男性は答えた。
「空き家ならある。」
「貸してもらえるんですか」
「知らん。」
会話はそこで終わった。男性はもうこちらを見ようともしない。二人は顔を見合わせた。
「なんやねん。」
大輔が小さく笑う。健太も苦笑いを返した。ぶっきらぼうな人だ。
「どうする?」
健太が大輔の顔を見た。
「その辺の空いとる家でええやろ。」
大輔は肩をすくめる。
「それより、使えるもん拾ったで。」
脇に挟んだ名簿を軽く叩いた。
「リベンジや。」
大輔は笑う。
「今度は余裕やろ。見てみぃ。爺さん婆さんばっかや。」
健太は再びあの緊張がやってくると思うと気持ちが沈ずみ、名簿に目を落とした。並んだ名前と住所。その紙切れ一枚で、人の暮らしが丸見えになっている気がした。
「……ほんまにまたやるんか。」
心の声が出てしまった。
「何や、今さら怖気づいたんか?」
大輔がからかうように言う。
「別に。」
健太は短く答えた。
「こんなとこ、警察もろくにおらんやろ。」
そう言って、大輔は片方の口角だけを上げた。健太は大輔の顔を見て、胸の奥に引っかかった小さな違和感を振り払えずにいた。坂を登りきったところで、大輔が立ち止まる。蔦に覆われた古い家だった。壁はところどころ剥がれ、片方の雨戸は外れかけている。
「おっ、泊まるとこあれでええか。」
健太は家を見上げた。
「誰かいるかもしれんで…。」「こんなボロに誰もいる訳ないやん。」
大輔はもう敷地へ入っている。健太も後に続いた。大輔が引き戸に手をかけた。引き戸は、引っかかってるのか、古すぎて錆び付いているのかなかなか開かない。
「健太、手伝え。」
二人でせーので、引き戸を引いた。ガッ、ガガガ、ガラガラ、と乾いた音が坂道に響く。二人とも思わず足を止めた。誰か出てくるんじゃないか。そんな気配だけが一瞬よぎったが、何も起きなかった。大輔は健太を振り返り、口元だけで笑う。
「ほらな。」
先に中へ入っていった。健太も後を追う。中は、昼間なのに薄暗く、玄関には脱ぎっぱなしのサンダルが残っていた。六畳ほどの居間に上がり込むと、ギシギシと床が一拍遅れで返ってくる。大輔は部屋の中央に置かれてあるちゃぶ台の横へどかっと座った。
「腹減ったな。」
そう言いながらカバンを探り、チュッパチャプスを二本取り出す。一本を健太へ放った。赤い包み紙だった。
「お前の好みはそのまんまやな。性格が反映されてるわ。」
大輔は青い包み紙を開いて、口に咥えた。ラムネ味だ。健太は受け取ったストロベリー味のチュッパチャプスをポケットへ突っ込んだ。
「食わへんの?」
「あとでええ。」
もしもの時のために取っておこうと思った。「ふぅん。」
大輔は肩をすくめた。そして再びカバンに手を入れ、名簿帳を取り出す。ちゃぶ台へ置こうとした瞬間だった。積み上がっていた本が崩れ、ドサドサっと床へ落ちた。健太はそれを一冊ずつ拾い上げた。どれも古びた本だった。
その中の一冊に目が止まった。表紙の和紙、藍染めが掠れて、麻糸で結んである。民俗学の資料って雰囲気で、表紙には
『海獣モナ』
とだけ、墨で書かれてある。何度も開かれた跡だけが、やけに均等に残っていた。ページの角が、同じ位置でわずかに折れてすり減っている。健太は、指先で表紙をなぞる。紙なのに、少しだけ冷たかった。本を開こうとした時だった。
「その本と同じようなやつ、さっきの店でも見た気がするな。」
大輔は表紙をチラッと見た。
『モナ』
「なんやそれ。それより、これ見てみ。」
名簿帳を広げる。名前はあいうえお順に並んでいた。どれも高齢者らしい名前ばかりだった。住所。電話番号。家族構成。人の暮らしが、そのまま並んでいる。
「楽勝やな。」
大輔は笑った。
夜になると風が強まり、半壊の空き家はギシギシと音を立てた。いつの間にか眠っていた健太は、その音で目を覚ました。携帯の明かりに照らされ、『モナ』を読んでいる大輔が見える。大輔も本なんか読むんだな。そんなことを思いながら、健太は再び目を閉じた。
『モナ』モナとは海に棲む獣にあらず。
人の口より出た偽り、欺き、呪い、悪口。それらが行き場を失い、海の底に沈殿したものなり。
人は己の言葉を忘れる。されど言葉は忘れぬ。 モナは言葉を喰わぬ。返す。
一五七〇年 七月十五日モナ沈鎮の記
島民は浜へ集い、己の偽りを海へ告げるべし。隠したままにしてはならぬ。
モナに返された言葉は喉に宿る。
はじめは咳。 「ゴホッ」
大輔は顔をしかめた。埃でも吸ったか。そう思いながらページをめくる。
次に息苦しさ。喉を締められる。
なんやこれーー。
携帯の明かりを本へ向けたまま、じっと文字を見つめる。風が吹く。家が軋む。どこか遠くで波の音がした。
ごくり。唾を飲み込んだ、その瞬間だった。喉の奥に何かが詰まったような感覚が走る。思わず首元を押さえた。息を吸っても思うほど入ってこない。
もう一度吸う。喉の奥までは届くのに、その先へ入っていかない感覚。今度は、ゆっくり吐いてみるが吐き切れない。喉の奥が細く閉じていくようだった。もう一度、本へ目を落とす。 ーーー喉を締められる。 その一文が、さっきより濃く見えた。大輔は慌てて本を閉じる。だが、息苦しさは消えなかった。
こんな場所に来たせいだろうか。不穏な夢と現実の間を行き来しながら、健太は目を覚ました。大輔がいない。毛布だけが乱雑に残されていた。
「大ちゃん?」
返事はない。健太は外へ出た。雨がしとしと降っている。もう朝のはずなのに、空は薄暗かった。
「大ちゃん!」
もう一度呼ぶ。風と雨に声が流される。健太は空き家へ戻った。靴も荷物もない。大輔の姿だけが消えていた。嫌な予感がした。健太はフードを被り、港へ向かって走り出した。
坂の途中で海が見える。港に船が係留されているあたりに視線を彷徨わせ、人影を探したが誰も居ない。
健太はもう一度岸壁の端まで走った。息を切らしながら、振り返ろうとした時、
「おい、あんた。」
と、昨日立ち寄った商店の老婆が店から出てきた。
「さっきから嵐が激しゅうなったろ。もう船は出んち。」
「あ、いや、友達を探してて。ほら、昨日一緒にいた奴。」
老婆は、やや腰を伸ばし健太を見据えると、「昨日のあん子か。」
健太が首を縦に振ると、老婆は小さく鼻を鳴らし、港の向こうを見た。
「探したっちゃ無駄わぇ。昨晩はどこで寝たん?」
「あ、あの……坂の上の……。」
喉の奥が妙に狭い。何度か唾を飲み込みながら、ようやく言葉を押し出した。
「空き家です。」
老婆の目が細くなり、何も言わず店へ戻って行った。
「なんなん。」
つぶやいて、あたりを見回すが雨風が強くなって誰の姿も見えない。どうしようもなく、健太は空き家へ戻った。屋根を叩く雨音を聞きながら、大輔が昨夜読んでいた本を開いた。
『モナ』
人は己の言葉を忘れる。されど言葉は忘れぬ。 モナは言葉を喰わぬ。返す。
人を騙した者は、騙した言葉に。己を欺いた者は、己を欺いた言葉に。
喉を締められる。
健太は無意識に自分の喉をさすった。昨夜から続く違和感は気のせいではない気がしていた。その時、玄関の引き戸が音を立てた。 誰か来た。慌てて本を閉じる。入ってきたのは七十代くらいの老人だった。長年日に焼けたのだろう。肌は黒く、顔には深い皺が何本も刻まれている。老人は健太の姿を見ると立ち止まり、真っ直ぐな目を向けてきた。
「誰な。」その一言に健太は言葉を失った。勝手に入りました、すみません。そう言えばいいだけなのに、なぜか口が動かない。「その……雨がひどくて。」老人は何も言わず、ただ健太を見ている。「いや、あの……許可はもらってて……。」そこまで言った時だった。喉の奥が急に狭くなった。息を吸おうとしても、うまく入ってこない。健太は思わず首元に手をやった。
「誰に。」
老人の声は静かだった。責めるでもなく、怒るでもなく、ただ事実を聞いているだけだった。だから余計に答えられなかった。許可なんてもらっていない。健太は視線を落とした。老人はしばらく黙っていたが、やがて机の上の本に目をやった。
『モナ』
深い皺の間から表情が消える。
「それ、読んだんか。」
健太は小さく頷いた。老人は窓の外の雨を見た。海の方から吹く風で木々が揺れている。「そうか。」
それだけ言うと、老人は引き戸へ向かった。「待ってください。」
思わず声を上げる。
「友達が急にいなくなって…。」
老人は足を止めた。老人は振り返らないまま、「そりゃ読んだからやろな。」
そう言い残し、雨の中へ消えていった。
健太は喉を押さえながら、老人の言葉を反芻した。読んだからやろな。
「もう、ほんまになんなん…。」
つぶやいて、机の上の本へ目をやる。人を騙した者は、騙した言葉に。己を欺いた者は、己を欺いた言葉に。 無意識に喉をさすった。そんなわけない。俺は騙してない。少なくとも、大輔みたいに平気で嘘をついたことはない。大輔は昔からそうだった。先生にも親にも、驚くほど自然に嘘をつく。 俺は違う。 そう思った時、喉の奥がまた詰まった。健太は眉をひそめる。本を閉じ、部屋を見回した。雨音は激しく鳴り続いていた。
俺は違う。そう思いながら窓の外へ目を向けたが、雨粒が窓を溶かしているみたいに見えて、自分の心の中のように感じ落ち着かなかった。ふと机の端に目が止まる。古びた木の天板に何かが挟まっていた。引き抜いてみると、小さな紙切れだった。ずいぶん昔のものらしく、角は丸まり、紙の色も茶色く変色している。
『また明日』
そう書かれていた。裏返してみる。何もない。たったそれだけだった。健太は紙を見つめた。また明日。会う約束の言葉なのに、会うつもりがなくても平気で使う言葉。また明日。いつからだろう。何も考えずに口にするようになったのは。喉の奥が少しだけ詰まる。
大輔の顔が浮かぶ。野球部も。高校も。就職も。小学校の頃から今までずっとだ。ずっと大輔が決め自分は頷くだけ。道も空気も。
高校野球部、地区予選決勝前日。大輔は、緊張した雰囲気を軽くしようとしていた。ふざけた顔のまま、わざとぶつかるように同級生の康介の横を駆け抜けた。笑いに変えれば全部丸く収まる、そんな風だった。
その瞬間を、はっきり見ていたのは健太だけだった。肩が当たる角度も、康介の足が崩れる一瞬も、空気が止まる前のわずかなズレも。他の誰も気づいていなかった。だから健太の言葉だけが、その場の現実になった。監督の状況説明しろの声に健太は、
「……ちょっと当たっただけやと思います。」そう言った瞬間、事実はそこで固定された。大輔は笑ったままだった。
「大げさやな」
とでも言うように肩をすくめた。康介はそのまま倒れ、足を押さえて動けなくなった。あとから分かったのは、靭帯の完全断裂だった。彼だけが甲子園の土を踏めなかった。
その日から流れは変わり、誰もそれを戻せなかった。こんなこと思い出すなんて。胸の奥に小さな棘が膨らんで圧迫してくる。
今だって、そう変わらないあの頃と同じだった。誰かが話し始めて、誰かが笑って、誰かが空気を決める。健太はその横で、言葉の形だけを整えていた。
「まぁ、そういう感じで。」
「たぶん、そういうことです。」
それだけで場が進んだ。止まらなければ、それでよかった。大輔はいつも先に行った。健太は少し遅れて、その場を丸くした。気づけば、それが当たり前になっていた。正しいかどうかは関係なかった。崩れないかどうかだけを見ていた。その延長のように、あの仕事もあった。誰かが話を作って、誰かがそれを信じる形にしていく。健太はただ、穴を埋めていただけだった。嘘をついている感覚はなかった。ただ、空気が止まらないようにしていただけ。
雨音が強くなった。半壊した空き家が風に揺れ、どこかで板の軋む音がした。健太は机の上の『モナ』へ目を落とした。
人を騙した者は、騙した言葉に。己を欺いた者は、己を欺いた言葉に。
その一文だけが妙にはっきり目に入る。己を欺いた者。俺は違う。強く思ってみてから健太は立ち上がった。急にこの家の中が狭く感じ、湿った空気や雨音、軋む音も全部が喉にまとわりついてくる。視線を落とすと、康介の歪んだ顔が一瞬だけ浮かんだ。
次に、商店で見た老婆の真っ直ぐな目が重なる。どちらも何も言わないまま、健太の中に残っている。苦しい。息ができない。逃げるように玄関を開けると、冷たい雨が顔に当たった。それでも構わず坂を登る。喉が締め付けられながら、息絶え絶え登り続け、気付けば島の外れの崖まで来ていた。そこで初めて足を止める。眼下には荒れた海が広がっていた。灰色の波が何度も岩へぶつかり、白く砕けている。その沖合に、何かが見えた。海面の下を、黒い影がゆっくりと動いていた。視界の端に、康介の顔。次に、老人の真っ直ぐな目。空き家の湿った空気。全部が一瞬だけ重なって、また離れる。
意味はもう追えなかった。ただ、喉だけが確かに締まっている。逃げても戻ってくる。どこにいても同じだ。そう思った瞬間、体が勝手に前へ出た。意志ではなかった。海へ向かって、健太は飛び込んだ。
水面が遠のいていく。上も下も分からなくなる。光が薄く切れてゆき、暗さだけが残る。
何かに抱えられているような感覚のまま、健太は沈んでいった。息はもう続かない。喉の奥が開かないまま、圧だけが奥へ押し込まれてくる。
その時だった。言葉が勝手に剥がれ落ちていくような感覚があった。過去の場面が浮かぶ。あの時の康介の顔。監督の視線。
「ちょっと当たっただけやと思います。」
と言った自分の声。
次に、誰にかけたのかも分からない電話でのやり取り。そして空き家での嘘。
「許可はもらってて。」
と言いかけた口の形。その全部が、呼吸のたびに離れていく。
忘れたかったものではない。忘れたと思っていたものでもない。ただ、そこに残っていた言葉だけが、順番に浮かんでは沈んでいく。言葉だけが、身体の中から剥がれていく感じだった。健太は抵抗できなかった。沈むほどに、喉の奥が軽くなる。その軽さが、逆に怖かった。
船は静かに岸を離れていった。波はさっきより穏やかで、島の輪郭が少しずつ遠ざかっていく。健太は座席に沈んでいた。喉の奥にあった重さはもうなかった。代わりに、何も残っていない感覚だけがあった。
島で出会った人間の顔が、順番に浮かんでくる。商店の老婆。畑にいた男。空き家に入ってきた老人。どの顔も、笑っていなかった。怒ってもいなかった。ただ、そのままの声で、そのままの言葉を置いていっただけだった。思い返すと、不思議だった。
あの島では、誰も言葉を濁さない。優しくする代わりに、曖昧にもしない。健太はふと、喉に手を当てる。もう詰まりはない。その代わりに、自分が今までどれだけ曖昧な言葉で場をつないできたのかだけが、ぼんやり残っていた。船が進むにつれて、島は小さくなっていく。最後に見えた島は、冷たくも優しくもなく、ただ正確だった。健太は目を閉じた。その島の正確さだけが、健太には遠く感じられた。
【2話 おばち1号】
今日は、気持ちのいい日だった。湿度も風も、文句のつけようがないくらい整っている。こういう日は、誰でも少し機嫌がよくなるものだと思っていた。
なんばcityで買い物を済ませた早苗は、エコバッグだけ肩にかけラフな格好で、高架下をぶらぶら歩いていた。賑やかな通りからちょっと外れた薄暗い通路の奥に、ふと目が止まる。
レンガの壁際、鉄扉の横の地べたに、誰かがうずくまっている。冷たいコンクリートの上に、膝を抱え頭を深々と下げて、まるで魂が抜けてしもたみたいにピクリとも動かない。グレーのTシャツにジーンズ、荷物は無い様子。手前にはには「自転車乗り入れ禁止」の看板。
「今日はええ日や。」
早苗はつぶやきながら、迷うことなく、近ずき項垂れたままの男性の隣に躊躇なく座った。「なあ、あんた、飴ちゃんいらんか?」
早苗の休日は、少しだけ起きるのが遅い。特に予定はない。インスタントの珈琲だけ飲んで、外に出る。デパ地下でウロウロしたり、チェーンの喫茶店、バス停の傍など人が一番油断している時間を選んた。自分が止まっていると、周りの会話がよく聞こえた。家族の話、仕事の愚痴、病気の話、どうでもいい予定の話。聞き耳をたてる。何か欲しい。聞いた事のない話、心が揺れる話。でも残るのは、途切れた言葉だけ。
「もうええわ。」「知らんけど。」「それなぁ。」
家へ帰ると、メモアプリを開いた。その日拾ったものを確認する。大概、使えないものばかりだ。
全然、違う話しを合わせてみたりもするが、面白くない。なんばcityの男性に会った日の夜、いつものようにメモアプリを開いた。
「今日は、豊漁やな。」
目尻の皺が深くなり、口元が緩む。続いて、おばち倶楽部のsnsを開く。早苗は、このアカウントの最初の投稿者だったので、おばち1号とハンドルネームをつけていた。
おばち倶楽部は立ち上がり当初、飴ちゃんを持っていればOKの緩いコミュニティだったが、人が集まれば形も変わっていく。良い変化とは言えないものの、今でも更新が続いていた。いつも一番目立つのは、青いスイートピーの投稿だった。文章は整っていて、言葉が途切れない。皆の反応も多かった。
今日は、珍しく青いスイトピーの投稿が見当たらなかった。軽い物足りなさを感じつつ、早苗は今日の投稿を一度最後まで読んでから、もう一度上へスクロールした。画面がザラついていたが、気にせず同じ投稿をもう一度見る。以前なら、ここで何かしら短い反応を残していた。軽い一言。
最近は、もっぱら眺めるだけになっていた。人差し指を右へスライドし、メモ帳アプリをひらき、なんばcityの男性の話しを編集し始めた。「姫姜島。」「モナ。」
聞きなれないフレーズに高揚した。
最初は、聞いたままを書き起こしていただけだった。姫姜島。モナ。消えた友人。ぶつ切りの言葉を並べてみる。けれど、読み返すたびに何かが足りない気がした。
早苗は一文消し、別の場所へ移した。順番を入れ替え、言葉を足す。また消す。気づけば、男がどんな顔で話していたのか思い出せなくなっていた。代わりに、灰色の海だけが妙にはっきり浮かぶ。見たこともないはずなのに。
『姫姜島』
「ききょうじま」
早苗は、声に出してみた。語感がよく、飴の名前みたいだった。
「ききょうじま」
坂道を吹き抜ける風、人気のない港に波の音。そんなものまで頭の中に揃い始めていた。早苗は指を止め、しばらく画面を見つめる。男から聞いた話だったはずだ。それなのに、どこまでが聞いた話で、どこからが自分の中に浮かんだものなのか分からなくなっていた。
「まあ、ええ…。」
小さく呟いて、送信ボタンを押した。
「久しぶりに送信ボタン押したな。」
褒めたいような、自虐に近いような、これから何か起こりそうな胸のざわめいみたいなものを感じながら、ポケットの中の飴ちゃんを手のひらで転がした。
早苗はシャワーをあび、タオルでくるくると髪を巻上げ、冷蔵庫からビールを出してソファに腰を沈めた。冷えたアルミ缶を凝視したまま、ふと動きを止める。
……おかしい。さっきまでクーラーをガンガンにかけていたはずの部屋が、妙に蒸し暑い。それも、エアコンの効きが悪い時の生ぬるさじゃない。肌にまとわりつくような、重苦しい湿気。
ゴホッ、と小さく咳が出た。
シャワーを浴びたばかりなのに、首筋がじっとりと汗ばんでいる。鼻の下にも汗が吹き出て、指先でぬぐった。口に汗が入り、早苗は眉をひそめた。しょっぱい。汗の味じゃない。これは、海の潮の味だ。
「なにこれ……。」
変に思いながらも、ビールのプルタブを開け、喉を潤しながら携帯の画面を開いた。さっき投稿したモナの話が、すでにいくつか反応をつけ、コメントが増えている。
『1号さん、リアルな話ですね!』
『島の空気感が伝わります。』
ーー私、島に…。
コメントには何も返さなかった。部屋の蛍光灯が白く光っている。机の上に影が落ちる角度は、さっきと変わっていない。冷蔵庫の動く音だけが一定の間隔で続く。喉にまた違和感を覚え、ビールを流し込む。何も起きていないようで、何かだけが進んでいた。
【第3話 青いスイトピー】
「説明したつもりだったんですけど、伝わってなかったですかね。」
智子は肩をすくめた。
「言われた通りにやりました。」
だが、その言葉は火に油を注ぐだけだった。上司は額を押さえ、智子の目を見ては逸らす。そして大きく息を吐いた。
「だから、その通りにやればいいって話じゃないんですよ。」
智子には、何が違うのか分からなかった。休憩室に入ると、優子がスマホを見ていた。智子は当然のように向かいへ座る。
「また怒られちゃった。」
優子は顔を上げた。
「そうなんですか。」
「私、言われた通りにやったんだけどね。」
優子は曖昧に頷いた。智子は続ける。
「そんなに怒ることかなあ。」
優子は紙コップに視線を逸らした。まただ。怒られた話になると、智子は決まって誰かに聞いてもらいたがる。聞いてもらうだけならまだいい。最後には必ず、自分は悪くないと思うんだけど。と、そういう空気をこちらに求めてくる。
優子は適当に相槌を打って、またスマホに目を落とした。智子は、優子に話せたことで一旦落ち着けた。帰り道、ふと立ち止まるとショーウインドーに映る自分と目が合った。
「普通だよね。」
昔のアイドルを真似た髪型は、若い頃から変えていない。さっきのやりとりがヘビロテされる。優子も否定しなかったし、きっと大丈夫だ。そうやって一つひとつ理由を並べてみる。けれど胸の奥は少しも軽くならない。自分は間違っていないのか。それとも、何か決定的なものが見えていないのか。考えても答えはでず、智子は視線をそのままにガラスに映る自分は、どこにでもいる会社員に見えた。
45歳になるまで、仕事といえる仕事をしたことがなかった。アルバイトも何も。大学を卒業してすぐに結婚をした。子育てが一段落して、ようやく仕事に就くことができた。私が家にいた何十年かの間に、みんなは何を覚えたのだろう。
最近は、目覚ましが鳴るずっと前に目が覚めるようになっていた。もう限界かもしれない。ここ最近、この思考ばかりが頭の中を支配していた。
早めの夕食を終え、食器を流しに置いたまま智子はパソコンを開いた。おばち倶楽部の画面を立ち上げ、前回の投稿を開く。いいねは40を超えていた。コメント欄では知らない人同士が話を続けている。智子はしばらく画面を眺めた。自分の書いた言葉が、まだそこに残っていた。口元が少し緩んだ。
次の日。目が開くと、窓の外は青とも灰色ともつかない色をしていた。鳥の声はまだ聞こえない。遠くの路地から、新聞配達のバイク音が響く。低い排気音が、静寂を裂くように近づいている。
目覚ましが鳴るまで、2時間以上あり智子は時計から目を逸らした。上司の顔がよぎる。熱はない。咳も出ない。それでも、体が布団に沈んだまま動かなかった。
休もうか。
風邪ということにするか。母の具合が悪いことにするか。頭の中で理由だけが増えて、ぐるぐるとループしている。時計を見たとき目覚ましが鳴った。何を考えているのか、自分でも分からなかった。ただ、会社へ行きたくなかった。上司に電話をかける勇気は出ず、智子は迷った末、優子にLINEを送った。体調が悪くて休むこと。声が出ないこと。上司にも伝えてほしいこと。
送信ボタンを押したあとも、不安は消えなかった。これで大丈夫だろうか。声が出ないなら電話に出なくても不自然じゃない。熱は測った方がいいだろうか。病院へ行ったことにした方がいいだろうか。次々と考えが浮かんでは消える。やがて優子から返信が届いた。
「了解です。上司にも伝えておきますね。」
その一文を見て、智子はようやく息を吐いた。やっと、自問自答が終わる。
急に体が軽くなった気がして、ベッドから足を下ろした。キッチンへ向かい、コーヒーを淹れた。湯気を眺めながら一口飲む。智子はコーヒーの香りに包まれながら、ゆっくり息を吐くと、胸の奥に溜まっていたものがほどけていく気がした。さっきまで頭の中を埋め尽くしていた不安が、少しだけ遠のいていた。マグカップを持ったまま、おばち倶楽部を開らいた。
新着投稿の欄に、見慣れた名前があった。
1号。
久しぶりの投稿だった。智子は少し嬉しくなった。1号は、おばち倶楽部がまだ数人しかいなかった頃からのメンバーだ。コメント欄には懐かしむ声が並んでいる。智子は順に読んだ。「1号さん、おかえりなさい。」
「待ってました。」
「お久しぶりです。お元気できたか。」
智子はゆっくりスクロールした。口元は自然と緩んでいた。それなのに、なぜか指が止まる。その中に自分の名前がない。胸の奥が少しだけざわつく。智子は少しだけ、いつもより丁寧にコメント欄を追った。画面の中で、見知らぬやりとりが積み上がっていく。
自分の居場所だったはずの場所が、いつの間にか別の温度になっていた。自分じゃない名前が、何度も呼ばれている。人差し指を下へスクロールし、投稿の冒頭へ戻った。離島。モナ伝説。行方不明になった友人。
その文字列を見た瞬間、胸の奥がわずかに沈んだ。
『本当ですか?!』
『なんて言う島ですか?』
『なんか、聞いたことがあるような気がします。』
反応コメントも多く、ザワついていた。自分のものだったはずの静けさが、別の誰かの物語として息をし始めていた。
「なんなの。」
誰に向けた言葉とも分からずつぶやき、キーボードに指が触れていた。
「私も、その島に行きました。」
気づけば送信ボタンを押していた。画面がパッと切り替わる。自分の打った一文が、1号の投稿コメントのすぐ下に並んだ。
心臓がどくん、と大きく跳ねる。
またやってしまった。島なんて、行くわけがないのにね。気持ちが少し落ち着いた。スマートフォンの画面はすぐに信じられないスピードで動き始めた。
『えっ! 青いスイトピーさんも行ったんですか!?』
『どんな島だったか教えてください!』『やっぱり本当にある島なんだ……。』
通知の数字が、凄い勢いで増えていく。画面の向こうの、顔も知らない人たちが、一斉に自分に注目している。優子も上司も、誰も私を認めなかったのに、ここでは私の言葉をみんなが待っている。私を信じている。智子はごくりと、乾いた唾を飲み込んだ。その瞬間だった。
「ゴホッ、」
小さな咳が出た。喉の奥に、何か塊が詰まったような感覚。
「……んんっ。」
喉を鳴らして吐き出そうとするが、何も出てこない。コーヒーの温かい湯気を吸い込もうとしたのに、なぜか胸の途中で空気がせき止められる。吸えるのに、入ってこない。携帯がまた震えた。
『青いスイトピーさん、島で何を見たんですか? 詳しく聞きたいです!』
画面の文字を見つめる智子の目から、次第にオフィスの光景やリビングの景色が消えていく。代わりに、行ったこともないはずの、あの「灰色の波が砕ける崖の光景」が、妙に鮮明な輪郭を持って脳裏に張り付いて離れなくなる。「私、行ったの…?」
呟こうとしたが、声がかすれて音にならなかった。さっき優子に送ったLINE。
――『体調が悪くて、声が出ないの』
あの時は会社を休むための、ただの言い訳だったはずの言葉。それが今、まるで現実の肉体になって、自分の喉をきりきりと締め上げている。スマホの画面の向こうで、無数の反応と優しい言葉。嘘を求める声が積み重なっていく。智子は震える手で自分の首元をなぞった。嘘をついたのは、私だけじゃない。みんなだって、この嘘を楽しんでいる。なのに…。
窓の外は、相変わらず青とも灰色ともつかない静かな空が広がっているだけなのに、智子の耳の奥には、ざざー、ざざー、と、激しい海の鳴る音が確かに聞こえ始めていた。
【第4話 発起人。】
仕事を終えて家に帰ると、時計は八時を回っていた。
「疲れた…。」
冷蔵庫からビールを取り出し、スーパーで買った焼きそばをレンジに入れ、テレビをつけた。芸人が騒いでいた。笑い声だけが部屋に流れている。ソファに腰を下ろしたとき、棚の写真立てが目に入った。ビールのプルタブにかけた手が思わず止まる。
「最近、見てへんかったな。」
独り言なのか、写真に向けてなのか、そう言って、スマホを手に取り開けた。おばち倶楽部の通知がやけに多かった。
「誰か誕生日か。」
通知は百件を超えていた。
「なんやこれ。」
知らない名前ばかりだった。
『テレビで見ました。』
『本当にある所なんですか?』
『私の地元にも似た話があります。』
『怖かったです。』
『行ってみたい。』
『やめた方がいいですよ。』
『祖母から聞いたことがあります。』
『どこにあるんですか?』
指を滑らせる。スクロール。まだ終わらない。知らない名前、知らないやり取り。見慣れた場所のはずなのに、いつの間にか別の空気になっていた。
「なんの騒ぎや。」
レンジがチンと鳴ったが、そのまま放っておく。さらに指を滑らせと、やっと見覚えのある名前が見えた。青いスイトピー。
『私も、その島へ行きました。』
島…。
もう少しスクロールさせ、それより前の投稿を見ると1号の投稿を見つけた。1号、久しぶりだった。
『島で体験したモナ伝説の話です。』
えっ?画面を閉じる。テレビの笑い声が耳についた。ビールを開け、一口飲む。もう一度開き、スクロール。青いスイトピー。
『私も、その島へ行きました。』
確かにそう書いてある。
「……なんで。」
小さくつぶやく。窓の外で、風が鳴った。レンジの中で、焼きそばだけが冷めていった。
三年前。食卓には、まだ二人分の茶碗が並んでいた。
「友達ほしいわけやないねん。」
夕飯を食べながら、恵が笑って続けた。
「でも、誰とも喋らん日が続くと、人って変になるやろ。」
「ほな、友達作ったらええやん。」
「だから、それはしんどいねん。」
「なんやそれ。」
「近すぎると疲れるし、遠すぎると寂しいねん。」
俺もそうなのか。とはその時は聞けなかった。恵は食卓に置いてあるドロップの缶をてに取った。
「飴ちゃん一個持ってたら仲間、くらいがちょうどええな。」
「適当やな。」
「適当がええねん。」
「ルール多いと、しんどいやろ。」
「誰かおるなぁ、くらいでええ。」
何気ない会話だった。おばち倶楽部は
「寂しい人を救う場所」
やなくて、
「深く繋がるのはしんどい。でも誰もおらんのも嫌。」
という恵の矛盾から生まれた場所になる。そして皮肉にも、そのゆるい場所から人と人が繋がりすぎて、モナの話が感染していく。その時は、どうせ三日もせんうちに飽きると思っていた。
三日目、飽きるとは違う形で見ることはなくなった。一人になってしばらくしてからは、帰ってくるとまずおばち倶楽部を開いた。誰かの晩ごはんを見て、誰かの愚痴を読んで、
「また1号帰ってきとる。」
そんな時間が、嫌いではなかった。ここ数か月は出張が増え、ホテルに帰ると、そのまま寝てしまう日も多い。気づけば、おばち倶楽部を開く回数も減っていた。
画面を閉じようとした時だった。通知の中に、一件だけDMが混じっていた。おばち1号。『こんばんは、まるこさん。ちょっと相談です。さっきテレビ局から連絡がありまして。1号やから発起人やと思われたみたいです。発起人はまるこさんやのに。取材申し込みされたんですけど、どうしましょ。
今の管理人に知らせた方がいいですかね?それとも、やっぱり発起人のまるこさんが対応してくださいますか。』
思わず指が止まる。その下。
『それと、なんか変ですよね。島の話。青いスイトピーさんも、行ったって書いてますし。実は私、本当は行ってないんです。これは聞いた話なんです。でも、書いてるうちに自分ごとのような気がしてきて。夢にまで見るんです。
とにかく、マスコミへの対応の件、お返事待ってます。』
スマホを伏せる。レンジから焼きそばを取り出した。一口食べたが、味がしない。もう一口食べようとして、視線だけがスマホへ向かう。『私、本当は行ってないんです。』
『聞いた話しなんです。』
誰から?
『書いてたら自分のことみたいに思えてきて。』
『変ですよね。』
1号の言葉が頭から離れない。テレビは、バラエティ番組が終わりニュースへ切り替わっていた。映し出されていたのは、荒れた海と島の岸壁だった。
『現地からお伝えします。SNS上で拡散されている「モナ伝説」の影響で、この島を訪れる人が相次いでいます。』
「モナ……。」
思わず手が止まる。
『警察によりますと、本日午後、二十代の女性が岸壁から海に飛び込む様子が目撃され、現在、詳しい状況を調べています。』
「な、っ……。」
持っていた箸を置く。鼓動が早くなる。
『また、島には県外からの訪問者が連日訪れており、一部では立入禁止区域への侵入などのトラブルも発生しています。』
「なんでやねん……。」
思わずテレビの音量を上げた。
『住民からはーー』
老婆が、カメラに向かって言った。
『これ以上来んでほしいとは言わん。来る人は来るけん。ただ、帰る時は、しゃんとして帰りよ。』
老婆はそれだけ言うと、カメラから目を逸らした。喉の奥が少し狭くなったような気がして、ビールを飲んだ。食卓のスマホが震え、画面には1号からのDMだった。
『何度もすみません。なんか、おかしくなってきました。本当に行ってないんです。なのに、海の匂いとか、坂道とか、変なことばかり頭に浮かぶんです。
夢なんですかね。なんや、怖くなってきました。一度、島へ行って確かめたいんです。一緒に来てくれませんか。』
一緒に島って…。
「なんでや……。」
こんなこと、ありえへん。そう思いながらも、『わかりました。』
気づけば、1号に返信していた。送信。しばらくして、既読がつく。
『ありがとうございます。よかった。一人で行くのは怖かったんです。』
スマホを置く。ぬるくなったビールを飲み干す。
「なんでや……。」
また 独り言が漏れる。 テレビでは、島の映像が流れ続けていた。
ーー来る人は来るけん。ただ、帰る時は、しゃんとして帰りよ。 画面の中で、あの時と変わらない、正確で、冷たい海が揺れている。
21年前、俺をあそこで救い上げてくれたのは、恵だった。棚の写真を見る。笑顔の恵。
その隣りに野球部の集合写真、泥だらけのユニホームで、肩を組んで大輔が笑っている。
あの2003年の夏だった。焼きそばを食べ終え、チュッパチャプスを口にした。赤い包み紙が、机からヒラヒラと落ちた。またスマホが震えた。
完
#創作大賞2026 #エンタメ原作部門
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この話を書き始めたきっかけは、「誰かから聞いた話が、いつの間にか自分の記憶みたいになることってあるな」と思ったことでした。
SNSを見ていると、どこからが体験で、どこからが噂で、どこからが願望なのか分からなくなることがあります。
モナは、そんな言葉たちが海の底に沈んで生まれた存在かもしれません。
健太、大輔、早苗、智子、まるこ。
それぞれ別の場所にいる人たちですが、誰もが少しずつ孤独で、少しずつ誰かと繋がりたいと思っています。
おばち倶楽部も、そんな気持ちから生まれました。
もしどこかの場面や言葉が心に残ったなら、とても嬉しいです。
ありがとうございました。




