婚約破棄されたので実家に帰ったら王太子の弟が求婚に来ました
衣装箪笥から取り出したドレスを、畳んで、箱に詰める。取り出して、畳んで、詰める。もう一着。もう一着。
王宮で過ごした五年分の荷物は、こうして箱に収めてみると存外少なくて、私は逆にそのことに腹が立っていた。五年ってこの程度の量なのか。段ボール——もとい木箱にして六つ。私の青春、木箱六つ分。
「リーシェ様……リーシェ様ぁ……」
侍女のマリエが部屋の隅でぐずぐず泣いている。朝からずっとこの調子で、正直なところ作業の手が止まるので困る。
「マリエ、泣くのはいいけれど、泣くなら手を動かしながらにして頂戴。この棚の中身、全部出すから」
「だって、だって……五年もお仕えしたのに、こんな……」
「五年の徒労が確定しただけよ。泣くほどのことではないわ」
我ながら冷たい言い方だと思う。けれど、実際そうなのだから仕方がない。
第一王子アルフレート殿下との婚約が解消された。理由は殿下の新しい恋人、ペトラ・ヴィーゲン男爵令嬢の存在。先日の夜会で殿下が衆目の前で高らかに宣言してくださったおかげで、私は王宮中の同情と好奇の視線を一身に浴びながら実家への帰路についた。
惨めだったかと聞かれれば、まあ惨めだった。ただ、それ以上に呆れていた。
兆候はあったのだ。半年ほど前から殿下の態度が変わり、執務室に男爵令嬢が出入りするようになり、私への連絡が目に見えて減った。気づかないふりをしていたのは私の落ち度でもある。気づいていたのに動かなかったのは——動いたところで結果は変わらないと、どこかで分かっていたからだろう。
マリエを下がらせ、一人になった部屋で、左手の薬指を見る。
外したばかりの婚約指輪の跡。五年も嵌めていれば、日焼けの境目がくっきり残る。
「……馬鹿みたい」
誰に言ったのかは自分でもよく分からなかった。
◇
婚約破棄から三日後のことだった。
「お嬢様、お客様です」
「どなた?」
「……第二王子ユリウス殿下です」
は?
書斎で帳簿を開いていた手が止まる。実家に戻って三日、私はすでに公爵家の領地経営の手伝いに入っていた。五年も王宮で外交補佐をやっていたのだ、帳簿の一つや二つ片手間で見られる。むしろ仕事をしていないと余計なことを考えそうで嫌だった。
「お父様は?」
「旦那様もご困惑の様子で、応接間でお待ちです」
ユリウス殿下。王太子の二つ下の弟君。社交界では「王家の朴念仁」と呼ばれている方だ。剣の腕は立つらしいが、夜会ではいつも壁際に立って黙っているので、正直なところ会話をした記憶が数えるほどしかない。
なぜその方が、このタイミングで?
弔問、ではないだろう。別に私は死んでいない。兄の不始末の謝罪だとしたら、わざわざ王子自ら来る話でもない。
応接間に入ると、父が渋い顔で椅子に座っていて、その向かいにユリウス殿下が——直立不動で立っていた。座ればいいのに、と思ったが、どうやら緊張で座るという選択肢を思いつかなかったらしい。
「お待たせいたしました、ユリウス殿下。本日はどのようなご用件でしょうか」
私が声をかけると、殿下はこちらを向いた。整った顔立ちではある。兄の王太子とどこか似ているが、目つきが違う。王太子が人を品定めする目をしているのに対して、この方の目は妙に——真剣、としか言いようがない。
「リーシェ・エルヴァレスト嬢」
「はい」
「……あなたを、僕にください」
父の目は点になっている。私の目も多分、点になっている。
「……殿下、もう一度おっしゃっていただけますか」
「あなたを——」
「いえ聞こえてはいたのですが、意味の確認です。それは……求婚、ですか?」
「……はい」
迷いなく頷かれても困る。
「経緯をご説明いただいてもよろしいですか」
「兄上が……いえ、兄上は関係なく……いや、関係はあるのですが……」
殿下の言葉がどんどん詰まっていく。見かねた父がお茶でもいかがですかと助け舟を出し、殿下はようやく椅子に座った。しかし座ったところで言葉がまとまる気配はなく、殿下はしばらく膝の上で拳を握ったまま黙り込んでいた。
「殿下」
「……政治的な意図は、ありません」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
「ずっと――あなたを見ていました。兄上の隣にいるあなたを。ただ、兄上の婚約者である以上、僕が口を出すべきではないと……」
「それで、婚約が解消された今なら、と」
「……はい」
正直、驚いた。この方にそういった感情があるとは思いもしなかった。
けれど驚いたことと、受け入れることは別だろう。
「お気持ちはありがたく思います。ですが、お断りいたします」
殿下の顔が強張るも、私は努めて穏やかに続けた。
「三日前まで、私は王族に五年を捧げていました。殿下のお気持ちが本物だとしても、今の私には『また王族に人生を預ける』という選択はできません。申し訳ございません」
残酷だったかもしれないけれど、嘘をつくほうがよほど残酷だ。
殿下はしばらく黙ったあと、小さく頷いた。
「……そうですか」
それだけ言って、立ち上がる。帰るのか、と思ったら、殿下は不意にこちらを向いた。
「では——断られる前提で、通わせてください」
今度は私が黙り込む番だった。殿下は一礼して、本当にそのまま帰っていった。
残された私と父は、しばらく無言で見つめ合っていた。
「……何だったのかしら」
「さあ……」
父も分からないらしい。
◇
翌日から、ユリウス殿下は本当に通ってきた。
毎日ではない。二日に一度くらいの頻度で、必ず午後に来て、必ず一時間ほどで帰る。特に何をするでもなく、応接間で私と差し向かいに座り、ぎこちない世間話をして帰っていく。
四度目の来訪のとき、殿下は花を持ってきた。
「……これを」
「まあ、ありがとうございます」
受け取って、一瞬で気づいた。ラウニア。綺麗な白い花だが、私はこれの花粉に触れると肌が腫れる。
「……殿下」
「はい」
「私、ラウニアに触れると蕁麻疹が出るのですが」
殿下の顔からすべての血の気が引いた。文字通り、紙のように白くなった。
「す、すみません——今すぐ処分、いやそうではなく、お体は——」
「大丈夫です、少し触れた程度では。でも、花瓶に生けるのは遠慮しますね」
「……申し訳ございません」
心底しょげた顔で殿下は帰っていった。翌日、使いの者が手紙を届けに来た。開いてみると——
『リーシェ・エルヴァレスト嬢へ。先日のラウニアの件、深くお詫び申し上げます。今後このようなことがないよう、花卉に関する書物を三冊購入いたしました。現在精読中です。なお、ラウニアの花言葉は「無垢な祈り」であり、意図としてはそう的外れではなかったと信じたいのですが、アレルギーの前には花言葉は無力であったと痛感しております。第二王子ユリウス』
何これ。
報告書か何か?
手紙を持つ手が震えているのは、呆れているからだ。笑っているのではない、断じて。
「お嬢様、笑っておいでですか?」
マリエが覗き込んでくる。
「笑ってないわ」
「しかし、口元が……」
「笑ってない」
——花卉の書物を三冊。
王太子は、五年の婚約期間で一度も私の好みを聞いたことがなかった。嫌いなものも、苦手なものも。この人は間違えた翌日にもう本を買っている。間違え方は最悪だが、間違えた後の行動がまるで違う。
その夜、マリエが殿下の手紙をそっと文箱に仕舞おうとしているのを見て、「別に取っておかなくていいわ」と言おうとして、言わなかった。
◇
ユリウス殿下が通い始めて二週間が経った頃、社交界に噂が広まった。
『第二王子が、婚約破棄されたエルヴァレスト公爵令嬢に求婚なさっているらしい』
こうなることは予想していた。王子が公爵家に頻繁に出入りすれば、隠しようがない。問題はこの噂がもたらす波紋のほうだった。
父のもとに他家からの書簡が相次いだ。内容は大きく二種類。一つは「ご令嬢と第二王子の縁組、まことにお慶び申し上げます」という早合点の祝辞。もう一つは、もっと面白いものだった。
「リーシェ、聞いたか。フォルトナー侯爵が、王太子派を降りたそうだ」
「あら」
父が夕食の席で苦笑まじりに言った。フォルトナー侯爵は有力貴族の筆頭で、王太子の後見人に近い立場にいた人物だ。
「理由は?」
「公式には健康上の問題だそうだが、実際は——まあ、分かるだろう」
分かる。
王太子は婚約破棄によって公爵家との繋がりを失った。それだけなら「色恋沙汰で公爵令嬢を振った軽率な男」で済む。しかし、弟がその公爵令嬢に求婚したことで、話の構図が一変した。
公爵家という後ろ盾が弟に移りかねない。王太子が自ら手放したものを、弟が拾い上げるかもしれない——そう周囲の目に映った瞬間、王太子の判断力そのものが疑われ始める。女を取り替えたのではない、王位の足場を弟に譲ったのだと。
私は何もしていない。ユリウス殿下もおそらく何も計算していない。ただ殿下が真っ直ぐ通ってきた、その一点だけで、王太子の足元が勝手に崩れている。
それから数日後。
予想通りというべきか、王太子からの使者が来た。
「リーシェ嬢、殿下がお会いになりたいと」
使者の態度は慇懃だったが、要するに「戻ってこい」という意味だろうと見当がついた。王太子は私に未練があるのではない。状況が悪くなったから巻き戻したいだけだ。
応接間で会った王太子は、あの夜会の時よりもいくらか顔色が悪かった。
「リーシェ、先日のことは些か性急だった。考え直す余地はある」
撤回、ではなく「考え直す余地はある」。あくまで自分が選ぶ側だという立場を崩さない言い方が、もう何というか——清々しいほど、この人らしかった。
「殿下、お言葉ですが、婚約の解消はすでに陛下の承認を経て成立しております。『考え直す』も何も、もう終わった話です」
「しかし——」
「男爵令嬢は素敵な方でした。どうか、お幸せに」
敬語の壁は便利だ。どれだけ腹の中で呆れていても、笑顔と丁寧語で包んでしまえば相手に刃は届かない。そして刃が届かないということは、反論もできないということだ。
王太子は何か言いかけて、言葉にならないまま帰っていった。
ああ——こういうことか、と思った。
こちらは何もしていない。ただ公爵家の令嬢として当然のことを当然にやっているだけで、勝手に差がついていく。格とはそういうものだ。見せつけるものではなく、ただそこにあるもの。
五年間、私が王太子の隣で培ったものは、木箱六つには収まらなかったらしい。
◇
王太子の訪問から二日後。ユリウス殿下がいつもの時間に来た。
ただし、今日は様子が違った。殿下は応接間に入るなり、椅子にも座らず、深く頭を下げた。
「リーシェ嬢。兄上があなたの元を訪れたと聞きました」
噂が早い。いや、王族なのだから当然か。
「僕の求婚が原因で、あなたにご迷惑をおかけしているのだと思います。兄上の態度を変えたのは僕がきっかけで——もし僕がいなければ、あなたはもっと穏やかに過ごせたはずです」
殿下の声は緊張しているのか、硬かった。
「もし僕の存在があなたを困らせるなら……身を引きます」
この人はたぶん——本気でそう言っている。
社交辞令や駆け引きではない。本当に、私が迷惑だと言えば今この場で引くつもりなのだ。二週間通い続けて、花の図鑑を三冊買って、報告書みたいな手紙を何通も書いて、それを全部捨てる覚悟で。
本当に、不器用にも程がある。
「殿下」
「……はい」
「あなたが身を引いたところで、兄君の評価が戻るわけではありませんし、私が困ることもありません。ですから、身を引く理由にはなりません」
殿下が顔を上げる。
「それと——身を引く前に、一つだけ聞かせていただけますか」
なぜ……。
なぜ、私なのか。王太子の元婚約者で、今は何の地位もない公爵令嬢。政略的な意味を抜きにして、この人は一体いつから、何を見て、私のことを?
「ちゃんと、説明してもらえますか、殿下。あなたの言葉で」
殿下は困ったように視線を彷徨わせて、天井を見て、床を見て、最終的に私の目を見た。
観念した、という顔だった。
「……三年前の、春の園遊会です」
三年前……。
「あなたは——あの日、誰も話し相手にしていないアストル辺境伯と、ずっと話し込んでいました」
覚えている。アストル辺境伯。耳が遠くて声の大きい、気のいい老人だ。確か辺境の古い農法について延々と語ってくれて、これが存外面白くて、気づけば二時間近く立ち話をしていた。
「社交の場で点数にならない相手と、計算ではなく——あなたは本当に楽しそうでした。笑っていました」
殿下の声が少し震えている。
「兄上の隣にいるときのあなたは、いつも完璧で、隙がなくて、正直に言えば近寄りがたかった。でも、あの日のあなたは違いました。笑い方が——全然違った」
手が、膝の上で握られている。
「好きになった理由を言葉にすると、全部嘘くさくなるのですが……あの日のあなたの横顔を、僕は一生忘れないと思います」
不器用の極致だと思う。殿下はまだ何か言いたそうにしていたけれど、どうやらもう語彙の貯蔵が尽きたらしく、耳まで赤くして押し黙ってしまった。
花言葉を調べて手紙に書いてくるくせに、肝心のことは全部後回しにするし、言い出したら言い出したで着地が分からなくなるし、たぶんこの人はこういう人なのだろう。ずっと、こうなのだろう。
嫌では——なかった。
不思議なくらい嫌ではなかった。
「殿下」
「……はい」
「お花、今度はちゃんと調べてきてくださいね」
殿下の表情が固まった。目が一瞬泳いで、こちらを見て、また泳いで、もう一度こちらを見た。
「それは……つまり——その、つまり」
「お返事です」
つまり、を三回言いかけた人を私は初めて見た。
「ただし、条件があります」
「是非……何でも仰ってください!」
「即答しないでください、まだ言ってないんですから。——私は殿下の付属品になるつもりはありません。対等に、きちんと話し合える関係であること。それが条件です。もう二度と、黙って消費されるだけの五年を過ごす気はないので」
「……当然です。僕はあなたの言葉が聞きたくてここに来ているんです。黙らせるわけがない」
——今の、本人は気づいていないだろうけれど、結構なことを言っている。
気恥ずかしさを誤魔化すように窓の外を見ると、応接間の扉の向こうで何やら騒がしい。たぶんマリエが聞き耳を立てていて、また泣いている。
◇
後日。
婚約の正式な発表は王宮の大広間で行われた。第二王子ユリウスとエルヴァレスト公爵令嬢リーシェの婚約。陛下じきじきの承認つき。
広間の端で、王太子が苦虫を噛み潰したような顔をしているのが視界の隅に映ったが、あえて目を向けはしなかった。もう関係のない人だ。
式の後、ユリウスが小さな花束を差し出した。
白ではなく、淡い青の花。名前は——フリューリア。
「今度は調べました。アレルギーも確認しました。万全です」
真剣な顔でそう言うので、思わず笑ってしまった。
「花言葉は?」
「……調べました」
「何でしたか?」
「……」
殿下が黙り込む、相変わらず耳の端が赤い。
「『永遠にあなたのそばに』」
ほとんど聞き取れないくらい小さな声だった。あれだけの衆目の前で求婚してきた人が、花言葉一つ口にするのにこの有り様だ。
「調べすぎです」
「……すみません」
「謝らなくていいです」
フリューリアの花弁に触れる。冷たくて、柔らかい。蕁麻疹は出ない。
「——ありがとうございます、ユリウス殿下」
「ユリウスで、構いません」
「……ありがとうございます。ユリウス」
名前を呼んだだけで、この人は世界が救われたみたいな顔をする。
私が五年かけて得られなかったものが、こんなにもあっさり——いや、あっさりではないのだ。この人はたぶん、三年前からずっと。
花束を抱え直して、少しだけ腕に力を込めた。
今度の五年は、木箱には収まらないものにしよう。




