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君の声が消える、その最後の一秒まで

作者: 汐見 アオ
掲載日:2026/03/29

レコード・リングが、薬指の上で青く瞬いた。


夜の屋上風は、ビルの壁をなでるように吹き抜けていく。

都会のネオンがぼやけて見えるのは、眠れていないせいか、デバイスのせいか。


俺――月島 巡(つきしま めぐる)は、指輪型の記憶デバイス〈レコード・リング〉の表示をぼんやり眺めていた。


《共有ログ:心路 – 182件》

《編集履歴:1件(非公開)》


どれだけスクロールしても、そこには彼女がいる。


笑って怒って、ふくれて泣いて。

それなのに――現実には、もうどこにもいない。


心路(こころ)が死んだのは、一ヶ月前の夜だ。



【1】


「それさ、もう恋人っていうより、共犯者だよね」


ベッドの上で心路が笑った。

レコード・リングのログを並んで覗き込みながら。


「共犯者って物騒だな」


「だってさ、これ」


心路は自分のリングを弾いた。

空中に小さなウィンドウが開く。


《今日のハイライト:

・巡、会議で噛む(3回)

・巡、私の前でだけ調子に乗る(5回)

・巡、帰りにアイス2個買ってくる。偉い。》


「勝手に俺の黒歴史まとめるな」


「はいはい、『黒歴史』フォルダに入れとくね」


「性格悪いな」


「でも消さないじゃん」


「……まあ、あとで見返すと、ちょっと面白いし」


「ね、共犯」


レコード・リングは、恋人同士や家族で「記憶の断片」を共有するデバイスだ。

文章、映像、感情の色。


「ねえ巡」


「ん?」


「もし、どうしても消したい記憶ができたら、どうする?」


心路の声はいつもより静かで、本気だった。


「……そんときは、二人でログ見て、一緒に笑えるまで残しとく」


「まじめか」


心路は肩に頭を預けた。

そのとき、俺のリングがほんの一瞬だけ、見慣れない色で滲んだ気がした。


「あのときみたいになれたらいいね」


その会話が、この一ヶ月、頭の中を何度もリピートしている。



【2】


心路が死んだ夜を、俺は何度も再生している。


事故の瞬間だけじゃない。

その少し前の、たいしたことのないやりとりまで。


《共有ログ:

心路:まだ終わんない?

巡:終わんない

心路:知ってた

巡:ひどくない?

心路:だって今日もそういう顔してたし

巡:画面越しに顔見える機能ついてたっけ

心路:ついてないけど、巡って仕事詰まると返事が雑になる

巡:今はまだちゃんと返してる

心路:えらいえらい》


そのあと、少し間が空く。


《共有ログ:

心路:なんか食べた?

巡:まだ

心路:でた

巡:あとでなんか食う

心路:その“あとで”が信用ならないんだよ

巡:失礼だな

心路:失礼なのは生活》


それが、その夜の最後のやりとりじゃなかった。


《心路ログ:

巡の好きな味のラーメン見つけた。

どうせまた仕事で死んでるだろうから、ラーメンで蘇生させよう作戦。》


通知を見たとき、俺は少しだけ笑って、返信欄を一度だけ開き、何も打たないまま閉じた。

それからまた、仕事の画面に戻った。


あとで返せばいい、と思った。


いつものことだった。

心路もきっと、いつものこととして受け取ると思っていた。


その“いつも”の先が、そこで切れるなんて考えもしなかった。


コンビニ袋を片手に、心路は信号待ちをしていた。


横断歩道の向こうで、トラックがライトを揺らした。


白い光。

ブレーキ音。

クラクション。


そのログはそこで切れた。


病院に駆けつけたとき、彼女はもう、デバイスだけの存在になっていた。


葬儀が終わっても、心路のレコード・リングは俺のリングとリンクされたままだ。


俺は、それを手放せなかった。


……はずだった。



【3】


「ねえ巡、そのカップラーメン、いつ食べるの?」


夜、突然声が聞こえた。


振り向くと、心路がソファの背もたれに腰かけていた。


「……は?」


「“期間限定・ピリ辛味噌”、賞味期限ギリだよ?」


「いやいやいやいや……」


「私、一応データ的な幽霊ってことで。よろしくどうぞ」


そう言って笑った口元が、ほんの一瞬だけ、ノイズみたいにぶれた。

次の瞬間には、もういつもの心路の顔に戻っていた。


さらっと言われても困る。


最初は幻覚かと思ったが、心路は毎日現れた。


「巡、洗濯物、裏返しのまま洗ってるでしょ」


「なんで分かんだよ」


「シャツの乾き方見れば分かる。ほら」


心路は自分の姿をぺたぺた触った。


「私さ、多分“全部”残ってるわけじゃないんだよね。

記憶の抜け殻? テンプレ? みたいな」


「テンプレ幽霊は新しいな」


「雑な呼び方やめて」


彼女は生前のログの継ぎ接ぎでここに存在しているらしい。


後日こっそり調べると、旧仕様に“M-07”という機能があった。


《M-07:ペアユーザー間の感情ログを統合し、一時的に“関係プロファイル”を生成》

《※死亡時や権限違反時に残存する可能性あり》

《※旧型端末では、感情の届き方を調整する補正機能が存在した》

《※現在は封鎖済み》

《※消去条件は検証中》


「検証中って、何だよ……」


心路は俺の肩の横で軽く手を挙げた。


「つまり私、未検証機能ちゃんってこと?」


「呼び方の問題じゃないけど……そうなるな」


俺たちが使っていたのは、付き合い始めた頃に揃えたままの旧型だった。

記録を残すだけなら不便はなくて、買い替える理由もなかった。


その夜、帰り道のコンビニで、俺は無意識にカップラーメンを二つ買っていた。


部屋に戻って袋をテーブルに置くと、心路がソファの背もたれから覗き込んだ。


「え、また麺?」


「またって言うな。これは非常食だ」


「巡の家、非常事態が日常すぎるんだよ」


「うるさいな」


心路は笑いながら、袋の中を覗こうとした。

指先がビニールに触れる――ように見えて、表面をわずかに揺らしただけで、持ち上げることはできなかった。


「あー……やっぱまだ無理か」


本人は軽く言ったが、俺はその手元を見ないふりをした。


「それ、ピリ辛味噌?」


「そうだけど」


「前に私が“二口で飽きる味”って言ったやつじゃん」


「覚えてんのかよ」


「そりゃ覚えてるよ。巡の味覚、たまに信用できないし」


「失礼だな」


「あと野菜が足りない」


「死んでまで生活指導すんな」


「できる彼女だからね」


「自分で言うな」


そう返した瞬間、会話のテンポがあまりにもいつも通りで、一秒だけ、何も変わっていない気がした。


仕事帰りにコンビニへ寄って、くだらない文句を言われる。

それだけのことなのに、胸の奥が遅れて痛くなった。


俺は袋の口を折ったまま、湯を沸かすこともしなかった。


心路がいる夜は、何かを食べることより、こうして話している方が大事だった。

そんなふうに思った自分に、少しだけぞっとした。


明日も帰ったら、こいつはいるんだろうか。


そう考えたことは、心路には言わなかった。



【4】


心路が幽霊になってから、生活は少しだけ賑やかになった。


「巡、今日噛んだ?」


「……噛んだ」


「リングが『舌が迷子』ってログ出してた」


「そんなログ出るの?」


「出るよ。私が作った巡専用テンプレだし」


心路は俺の額にリングをこつんと当てた。


「ねえ巡。楽しい?」


「……お前がいて、楽しいよ」


「そっか」


心路は笑うけど、その奥に影があった。


賑やかになった、なんて言い方は、たぶん少しだけずるい。


俺がそう思いたかっただけで、本当は、心路がここにいること自体が不自然で、危うくて、いつ終わるか分からない仮の時間だった。


それでも俺は、その仮の時間に、少しずつ甘えていた。


心路がまだここにいる理由を、本気で知ろうとはしなかった。

知ってしまえば、この時間が終わる気がしたからだ。


俺のリングには、たった一つだけ“非公開ログ”がある。


《個人ログ M-07:編集履歴1件(高危険度)》


あの日――俺が、やってしまった“最低な行為”が記録されている。



【5】


心路と最後に喧嘩した夜。


仕事で三度約束をすっぽかし、心路の誕生日すらまともに祝えなかった翌日。


俺たちは、初めて本気でぶつかった。


「巡は、いつも自分だけ安全な場所にいるよね」


「そんなこと――」


「あるよ」


心路の声は震えていた。


「私がどれだけ我慢してるか、どれだけ“平気なふり”してるか……

巡は見ようとしない」


胸が痛かった。


でも、その痛みの意味をちゃんと考えるより先に、俺は早くこの場を終わらせたかった。


心路の怒りを真正面から受け取ったら、自分が本当に悪かったと認めるしかなくなる気がして、それが怖かった。


本来なら、共有ログそのものに手を入れることはできない。

でもあの夜、心路のリングは同期画面を開いたままで、旧型端末にだけ残っていた補正機能の入口がむき出しになっていた。

その項目を、昔いじっているときに一度だけ見つけたことがある。

喧嘩の熱を和らげるための古い補正機能。危険だとして封鎖されたものだ。

俺は、それが何に使えるか知っていた。


だから俺は――最低な逃げ方をした。


感情ログの届き方を、勝手に薄めたのだ。


《補正:怒り 80→35 / 失望 70→20》


編集を終えたあと、心路は少しだけ静かになった。


それを見て、俺は自分でも気づかないくらい浅く息を吐いた。


一瞬だけ、ほっとした。


――これで今日は終われる。

怒られたまま、眠らなくて済む。


そう思った。


その安堵が、一番最低だった。


あの夜の彼女の痛みを、“なかったこと”にした。


俺は、自分の罪悪感を消すために、彼女の感情の輪郭を削った。



【6】


ある夜、心路が言った。


「巡。私さ、“死んだこと”自体はあんまり怖くなかったよ」


「……そうなのか」


「うん。でもね」


心路は胸を指で叩いた。


「ここに、なんか引っかかってる。言えなかった言葉。飲み込んだ怒り。

それがここにへばりついてる」


「へばりついてるって言い方やめろ」


「擬音に文句つけないで」


心路は真顔になった。


「たぶんさ。

それ、M-07に残ってるんだよ」


心臓が跳ねた。


《個人ログ M-07:編集履歴1件(高危険度)》


心路が深呼吸をして、俺を見た。


「ねえ巡。あの夜、何した?」


誤魔化せない。


口を開いて、閉じた。

それでも、もう誤魔化せない。


「……ログを、いじった」


「やっぱり」


心路は少しだけ肩の力を抜いた。


「うん、なんかそんな気がしてた」


「怒らないのか?」


「怒ってるよ? めちゃくちゃ」


そう言ったあと、心路は少し笑った。


「しかも最悪なのがさ、私、多分あのときも、巡のこと嫌いになりきれなかったんだよね」


ただしその後、ふっと表情が陰った。


「ねえ巡……正直ね」


心路はゆっくりと言葉を続けた。


「もしさ、あの夜の私を“そんなに怒るほどじゃない”って思ってたなら……

その瞬間だけ、ほんとに……ちょっとだけ殺意湧いたよ。

というか、あのときの私は、巡が少しだけ困ればいいのにって本気で思った」


すぐに自分で苦笑したけど、その声の奥に、薄い痛みがあった。


「でもね。怒りの気持ちの半分を巡が勝手に薄めちゃったから……

私、自分がどれくらい本気で怒ってたのか、もう思い出せないんだよ」


その一言が、胸に、深く刺さった。



【7】


M-07を開くと、

心路の怒り、失望、諦め、そして“それでも一緒にいたい”が全部詰まっていた。


《巡はいつも一歩遠くにいる》

《泣きそうな顔見られたくなくて我慢してるのに、それにすら気づかない》

《“今忙しい”の一言で済まされるたびに、私ばっかり後回しみたいでちょっとずつ削れる》

《怒りたいのに、怒ったあと嫌われる方が怖くて、結局また平気なふりしてるの、ほんと意味わかんない》

《帰ってきて顔見ると安心するの、悔しい》

《それでも好きっていうの、ほんとめんどくさい》


「うわ……」


喉の奥で、変な音が詰まった。


ただ怒っていたわけじゃない。

ただ傷ついていただけでもない。


怒るたびに、その先で嫌われることまで怖がって、そのたびに自分で自分を飲み込んで、それでもまた好きでいる方へ戻ってしまう。


そういう、面倒で、みっともなくて、でも確かに生きていた感情の流れが、ログの一行一行に残っていた。


「うわ、めんどくさい私」


心路が苦笑した。


「……めんどくさいとかで済ませんなよ」


言いながら、指先が画面の上で止まった。


次の行を開くのが、少し怖かった。

そこに、俺がまだ知らない心路が残っている気がした。


読めば読むほど、俺が勝手に薄めたのが“怒り”だけじゃなかったと分かる。


心路が怒るまでに飲み込んだもの。

怒ったあとで引っ込めたもの。

好きでいたせいで余計にこじれたもの。


あの夜、俺は怒りだけじゃなく、その流れそのものにまで手を入れてしまった。


《別れたいわけじゃない。

でも、このままの巡を好きでいるのもしんどい》

《ちゃんと怒れたら楽なのに、それもできない自分にも腹が立つ》

《それでも、帰ってきたら少し嬉しい。ほんと最悪》


胸の奥が、じわじわ痛んだ。


殴られるみたいな痛さじゃない。

遅れて熱を持つ打撲みたいに、読んだ言葉の分だけ内側から鈍く広がっていく痛みだった。


心路は俺を見ずに、ログの方を見ていた。


「でも、こういうの全部、ちゃんとあったんだよね」


「……あった」


やっとのことで、それだけ言った。


心路は少しだけ息を吐いた。


「巡。“なかったことにした”責任、取ってよ」


心路は俺を見つめた。


「私の怒りも悲しみも全部、“あった”って認めて。

その上で……“それでも私を好きだった記憶”も抱えてよ。

私の代わりに、私の気持ち、持っててよ」


俺は、やっと言えた。


「……分かった」



【8】


M-07には「共有承認」ボタンがあった。


これを押せば、心路の“未消化の痛み”がそのまま俺に流れ込む。


そして――心路は、いなくなる。


画面の中央に浮かぶ承認ボタンだけが、妙に明るく見えた。


押せば終わる。

押さなければ、終わらない。


たったそれだけのことのはずなのに、指先がそこで止まった。


喉が、乾いていた。

さっきまで泣きそうだったのに、今は息だけがうまく吸えない。


「巡」


心路が呼ぶ。


「……分かってる」


分かっていた。


ここで押さなければ、心路はまだここにいられるかもしれない。


でもそれは、心路の痛みをまた“保留”にするだけだ。


俺はずっと、それをやってきた。


あとで返せばいい。

今は仕事が先だ。

怒るほどじゃない。

少し静かになれば今日は終われる。


そうやって、心路の気持ちを後ろへ押しやって、そのぶんだけ自分が楽になる方を選んできた。


ここで押さなければ、同じことの繰り返しだった。


心路は、急かさなかった。


ただ、静かに俺を見ていた。

その視線の中に、怒りも、寂しさも、諦めも、それでも好きだった気持ちも全部残っている気がした。


「怖い?」と、心路が聞いた。


俺は少しだけ笑おうとして、失敗した。


「怖いに決まってるだろ」


「何が」


「押したら終わるのが」


言葉にした瞬間、それが終わることだけじゃないと分かった。


お前が消えること。

この部屋がまた静かになること。

帰ってきても、もう誰も文句を言わないこと。

俺がちゃんと、一人でこの痛みを持っていかなきゃいけなくなること。


全部、怖かった。


心路は少しだけ首を傾げた。


「でもさ」


「……うん」


「終わるっていうより、巡の中に移るだけじゃない?」


その言い方が、あまりにも心路らしくて、泣きそうなのに少しだけ腹が立った。


「便利な言い方すんなよ」


「便利じゃないよ。重いよ、たぶん」


「他人事みたいに言うな」


「もう半分くらい、巡のものになる予定だから」


「やめろ」


「ごめん」


心路はそう言って、少し笑った。

その笑い方まで覚えてしまうと思った。


画面の文字が、じわじわ滲んだ。


《共有承認を実行しますか?》


指を伸ばす。

触れる寸前で、また止まる。


押したくなかった。

責任を取りたくないわけじゃない。

でも、押したら本当に戻れなくなる。


今のままでも、十分戻れないくせに、それでもどこかで、まだ少しだけ

“押さなければ、ここにいてくれるかもしれない”

と思っていた。


本当に、最後まで自分本位だ。


「巡」


「……ん」


「それ、別に“私のために押して”って話じゃないからね」


心路の声は静かだった。


「むしろ逆。

押さないままにしたら、巡、また私の気持ちを都合よく棚上げするでしょ」


何も言い返せなかった。


その通りだった。


心路は目を細めた。


「だから、ちゃんと嫌な方を選んで」


優しい言い方なのに、逃げ道だけがきれいに塞がれた気がした。


嫌な方。

楽じゃない方。

痛いまま残る方。


たぶん、記憶ってそういうものだった。


「巡」


心路は少し得意げに笑った。


「大丈夫。

私のこと忘れていいよって意味じゃないから」


「……」


「“ちゃんと覚えてるなら、ここにいなくても平気”って意味」


「お前が消えたら、俺……たぶん、みっともなく泣くぞ」


「いいよ。最後くらい、そうしなよ」


俺は、もう一度指を伸ばした。


今度は、止めなかった。


「心路」


「なに」


「好きだった」


心路は少しだけ目を細めた。


「うん。知ってた」


俺は「はい」を押した。



【9】


感情ログが一気に流れ込んだ。


怒り

悲しみ

寂しさ

嫉妬

期待

不安

そして――言えなかった「好き」。


その波の中に、ひとつだけ鮮明な景色が混じった。


心路の部屋。

机の上に、小さなケーキの箱。

フォークは一本も使われていない。

コンビニの細いろうそくの袋だけが、端を少し折られたまま置かれている。


誕生日の翌日。

俺の帰りを待ちながら、「平気だよ」ってログを送ったすぐ後に、机に突っ伏して、肩だけ震えている心路の背中。


その震えが、生々しい音になって胸に広がった。

泣いている背中なのに、俺を待つのをやめていない形だった。


「……っ……」


膝から崩れ落ちた。


「巡、大丈夫?」


「大丈夫じゃねえよ……!」


涙は止まらず、声はぐちゃぐちゃで、まともに息もできなかった。


「……ごめん。

全部……あったのに。俺が、勝手に薄めた。

お前の人生だったのに……」


心路は静かに言った。


「今ちゃんと受け取ってくれたから、それでいいよ」


そのとき、心路の輪郭がふわりと滲んだ。



【10】


「心路……行くのか」


「たぶんね」


「置いてかないでくれよ……」


「置いてくよ」


心路は笑った。


「巡なら大丈夫。

だって今はもう、“温度の残し方”知ってるでしょ」


「そんなの……教えてもらってねえよ」


「教えたよ。今ね」


心路は手を振った。


「巡。

私のこと、ちゃんと覚えててくれて――ありがとう」


光が、水に落ちたインクみたいに広がって――消えた。



【11】


光が消えてから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。


部屋は静かで、時計の秒針の音だけがやけに大きく響く。


何もできなかった。

立ち上がることも、泣き止むこともできないまま、外の空が群青から薄灰へと色を変えていく。


心路が消えた空気だけが、部屋の隅に重く沈殿していた。



【12】


朝になっていた。


テーブルには、

心路が最後に買ってきたカップラーメン。


もう一つ取ろうとして、

そこで手が止まった。

体だけが、まだ昨日までの続きみたいに動いた。


レシートには「カフェラテ 50円引き」とあった。


なんでそんな細かいものまで刺さるんだよ。


俺は、ラーメンにお湯を注ぎながら、レコード・リングの画面を開いた。


《共有ログ:心路 – 182件》

《個人ログ M-07:消去済み》


共有ログはそのまま残っている。

でも、心路の“居場所”は、もうない。


「……ありがとな」


胸が痛いのに、どこか温かかった。


俺は、ほんの一行だけ書いた。


《心路のことを、今日もちゃんと覚えていた》


その記録に、名前をつけようとしてやめた。

送信先の欄は、空白のまま。


これはもう、誰かに見せるためじゃない。


俺が、俺の責任で抱えていくための記憶だ。


もう巻き戻らない世界で、俺は、この痛みを抱えて生きていく。


そして――


心路のいない未来を、自分の足で歩いていく。

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