第29話 水より重いもの
「方法はあります」
そう言った瞬間、部屋の空気が変わった。
セリアの目が、さらに鋭くなる。
「本当に?」
「ええ」
俺は答えた。
「ただし、薬だけでは足りません」
セリアの眉がわずかに動く。
「……足りない?」
「この患者は、病気そのものより先に、水と塩を失って死にます」
沈黙。
セリアは、すぐには返さなかった。
だが、否定もしなかった。
俺は寝台の男を見る。
脈は速い。
皮膚は乾いている。
眼球は落ち、声を出す力も弱い。
典型的な重度脱水だ。
「温かい湯を」
俺は言った。
「それから、塩と砂糖を用意してください」
「……砂糖?」
セリアが聞き返す。
「はい」
「甘味料ですか?」
「ええ」
俺は頷いた。
「できるだけ早く」
セリアは一瞬だけ迷った。
そのあと、すぐに使用人へ指示を飛ばす。
「用意して。急いで」
口調は短い。
迷いはもうなかった。
⸻
数分後。
湯。
塩。
砂糖。
すべて揃った。
俺は器を手に取る。
「何をするつもりですか」
セリアが聞く。
「飲ませます」
「ただの湯に?」
「違う」
俺は塩を入れる。
砂糖も加える。
「体の外に出ていったものを、戻します」
かき混ぜる。
透明な液体は、それだけでは何の力も持たないように見える。
だが、違う。
「水だけでは足りません」
「塩だけでも足りない」
「両方必要です」
セリアは黙って見ていた。
試す目だった。
そして、学ぶ目でもあった。
「レオン、体を起こしてください」
「はい!」
レオンはすぐに動いた。
無駄のない動きで患者を支える。
器を口元へ運ぶ。
「ゆっくりでいい、少しずつ飲んでください」
男は力なく唇を動かした。
一口。
また一口。
喉が動く。
「……吐きませんね」
セリアが小さく言う。
「ええ」
「今は、これが一番必要です」
⸻
少し待つ。
十分。
二十分。
長く感じる時間だった。
セリアは腕を組んだまま、じっと患者を見ている。
ルカは窓際で黙り、エレインは扉のそばに立っていた。
レオンだけが、わずかに落ち着かなかった。
「先生……」
「黙って見ていてください」
「はい」
短く返し、口を閉じる。
その時だった。
「……あれ」
セリアが、小さく声を漏らす。
患者の呼吸が、さっきより深い。
脈も少し落ち着いている。
目の焦点が、戻り始めていた。
「水を飲ませただけで……」
「違います」
俺は言った。
「水ではなく、戻したんです」
「体が失ったものを」
セリアは、はっきりと動揺していた。
表情はまだ崩れていない。
だが、目が揺れている。
「……そんな方法は、聞いたことがない」
「だからでしょうね」
俺は男の脈をもう一度確認する。
「この病で死ぬ人間が多いのは」
「病そのものより先に、脱水で落ちるからです」
セリアは息を呑んだ。
「つまり」
「治療すべきは、そこ……」
「まずは」
俺は頷く。
「そこです」
⸻
男が、かすかに目を開けた。
焦点はまだ甘い。
だが、明らかに違う。
「……みず」
「あります」
俺は器をもう一度渡す。
「ゆっくり」
男はそれを飲む。
今度は、自分の意志で。
セリアが、何も言えずに見ていた。
悔しさでも、反発でもない。
ただ、目の前の変化を受け止めきれない顔だった。
「……回復している」
小さな声だった。
だが、部屋にいる全員が聞いた。
「すごい……」
レオンが思わず呟く。
ルカが笑う。
「先生ですから」
エレインは何も言わない。
だが、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
⸻
セリアが、ようやくこちらを見た。
「その液体、何ですか」
「特別な薬ではありません」
俺は答える。
「湯と塩と砂糖です」
セリアの目が大きくなる。
「そんなもので……」
「そんなもの、ではありません」
俺ははっきり言った。
「必要なものです」
沈黙。
セリアはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……認めます」
一拍。
「この患者は、あなたが救いました」
真正面からの言葉だった。
ごまかしも、言い訳もない。
プライドの高い人間が、ちゃんと頭を下げる時の声だった。
「ですが」
セリアは続ける。
「一人救っただけでは終わりません。この病は、街全体に広がっています」
「ええ」
俺は頷く。
「だから次は、原因を止めます」
セリアの表情が変わる。
初めて、本気で食いついた顔だった。
「……できるんですか」
「まだ仮説です」
俺は窓の外を見る。
遠くの水路。
流れていく汚水。
井戸。
人の集まり。
「ですが」
「たぶん、当たっています」
⸻
部屋を出た時、王宮の廊下には人が集まっていた。
患者の家族。
使用人。
兵士。
皆、こちらを見る。
その視線の意味は、一つしかない。
「助かるんですか」
誰かが聞いた。
俺は短く答えた。
「助かります」
その一言で、空気が変わった。
希望。
それが、初めてこの国に戻ってきた。
⸻
セリアが隣に並ぶ。
さっきまでの刺すような視線はなかった。
代わりにあるのは、強い関心だった。
「……教えてください」
「何をですか」
「その治療を」
一拍。
「そして」
少しだけ言いにくそうに続ける。
「あなたが見ている“原因”も」
俺は歩きながら答えた。
「分かりました」
この国の医療は、まだ死んでいない。
足りないだけだ。
原因に、辿り着いていないだけだ。
なら。
やることは決まっている。
病を見つける。
原因を止める。
そして救う。
医者の仕事は、いつだって同じだった。




