第16話 神官長の部屋
夜。
神殿の裏庭は、昼とは別の顔をしていた。
巡礼者の足音も、祈りの声もない。
石造りの回廊には、灯りだけが揺れている。
その影の中を、ルカは音もなく進んでいた。
神殿の警備は甘い。
というより、侵入者など想定していない。
神に守られた場所。
それが、この国の常識だった。
神殿の奥。
神官長の執務室。
昼は神官や使者が出入りする場所だが、夜は静まり返っている。
ルカは扉に触れた。
鍵がかかっている。
だが、問題ではない。
細い金具を差し込み、軽く回す。扉はすぐに開いた。
中は広かった。
本棚。
祈祷具。
そして重厚な机。
神殿の頂点に立つ男の部屋らしく、質素だが威圧感のある空間だった。
ルカは机へ近づく。
書類、封蝋された手紙、帳簿。
そして、机の端に置かれた小さな箱。
蓋を開ける。
乾燥した草、灰紋草。
ルカの目が細くなる。
「……やっぱり」
灰紋草を少量、布袋に移す。
それから机の書類をめくる。神殿の調薬記録。滋養薬の配合。日付。
そして――
ある名前、王女の名前だった。
その横に書かれている。
【灰紋草 微量】
ルカは書類をもう一枚めくる。
同じ記録。
数日おき。
繰り返し。
「……これは」
完全に計画だった。
その時、廊下の奥から足音がした。
ルカは即座に動く。机の影。影の中に身を沈める。
扉が開いた。
入ってきたのは、一人の男だった。
白い法衣、細身の体、落ち着いた眼差し。
神官長だった。
男はゆっくり机へ近づく。
書類を見る。
そして、箱を開けた。
灰紋草。
神官長はそれを指でつまむ。
しばらく眺めてから、静かに言う。
「順調だ」
声は落ち着いていた。
「王女の衰弱も、予定通り」
ルカは動かない。
神官長は椅子に腰を下ろす。
そして続ける。
「あと少し」
「あと少しで、神殿は王族の上に立つ」
狂気は感じられない。
むしろ確信だった。
「祈りこそが救い」
神官長は書類を閉じる。
そして立ち上がる。
灯りを消し、部屋を出た。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
静寂、、数秒後。
影の中から、ルカが姿を現した。
「……十分ですね」
机の書類を数枚、静かに抜き取る。
王女の名前。
灰紋草の記録。
調薬指示。
決定的な証拠だった。
ルカは窓へ向かう。
夜の闇の中へ、音もなく消えた。
⸻
離宮。
深夜。
窓が静かに開く。
ルカが戻ってきた。
部屋には三人がいた。
俺。
エレイン。
王子。
ルカは机に布袋を置いた。
乾燥した草が出る。
灰紋草。
そして書類。
王子がそれを掴む。
目を通す。
数秒後。
顔色が変わった。
「……これは」
俺も見る。
調薬記録。
王女の名前。
灰紋草。
繰り返し。
エレインが低く言う。
「完全に計画ですね」
王子の手が震えていた。
怒りだった。
「神殿が」
「王族を毒で蝕んでいた」
俺は静かに言った。
「しかも」
「神殿の滋養薬として」
王子はゆっくり顔を上げる。
「誰が指示した」
ルカが答える。
「神官長です」
その名前を聞いた瞬間。
俺の脳裏に、あの声が蘇る。
俺を神殿から追い出した男、神官長。
王子が低く言う。
「……あの男か」
エレインが頷く。
「これで証拠は揃いました」
王子は書類を握りしめた。
「神殿は王族を支配するつもりだった」
沈黙。
やがて王子は言う。
「叩く」
その声は冷たかった。
「神殿を叩く」
俺は静かに言った。
「その前に」
三人がこちらを見る。
「王女の体内の毒を完全に止める必要があります。灰紋草は、まだ少し残っています」
王子が聞く。
「できるのか」
「ええ」
俺は答える。
「できます」
神殿が作った病。
だが。
それを治す方法を知っているのは、
この世界で
俺だけだった。




