表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夜を縫うアラベスク ―不器用な調律師とドビュッシーの美しい嘘―

作者: さる
掲載日:2026/01/31

本作は、クロード・ドビュッシーの『アラベスク第1番』を主題とした短編小説です。


執筆にあたり、ドビュッシーの生涯における複雑な人間関係、当時の音楽的背景、および楽曲の構造解析について、AI(Gemini 3 Flash)との対話を通じた共同制作を行いました。


一人の調律師の視点を通して描かれる、音楽と人生の「曲線」をお楽しみいただければ幸いです。

 深夜二時、工房の空気は冷たく凪いでいた。作業机に突っ伏していた僕は、潮騒に似た風の音で目を覚ました。首を回すと、凝り固まった関節が小さく鳴る。視界の隅には、納品を控えた調律の依頼書と、先ほどポストから引き抜いてきたばかりのハガキが、嫌な存在感を放っていた。


 ハガキには、ターナーの絵画を思わせる光の風景が印刷されている。かつての親友からの、個展の案内状だった。音大時代、「お前の曲には血が通っていない」と僕を罵り、そして僕が言葉にできなかったアイディアを鮮やかに盗んでいった男。成功した彼が放つ眩しさは、今の僕には毒に等しい。僕はハガキを裏返し、その光を机の端に押しやった。


 三十二歳。地方の小さな楽器店で、古びたアップライトピアノの鍵盤を外したり、フェルトを貼り替えたりして日銭を稼いでいる。他人とぶつかるのが怖くて、不快な予感がすればすぐに口を閉ざす。説明を放棄し、黙ってその場から逃げ出す。そうやって辿り着いたのが、この薄暗い工房だった。


 僕はふらりと立ち上がり、部屋の中央に置かれたピアノへ向かった。一八九〇年代に作られたという、フランス製の古いピアノ。明日には持ち主の元へ返さなければならない。椅子に深く腰掛け、重い蓋を押し上げる。月光が窓から差し込み、八十八の鍵盤の上に細長い影を落としていた。


 ――伝統を破壊しかねない、生意気な不平家。

 ――女性関係の泥沼に沈み、友人を裏切りながら、天上の美しさを夢想した男。


 不意に、クロード・ドビュッシーの横顔が脳裏をよぎる。二十代の若き彼もまた、今夜の僕と同じように、ままならない現実の中にいたはずだ。不倫の恋に身を焼き、生活のために不本意な譜面を書く。本人が嫌ったと言われるこの『アラベスク第一番』も、そんなおりのような日々の中で生まれた。


 僕は指を鍵盤に置いた。ホ長調の曲なら、主音である「ミ」から始めるのが、この世界の、あるいは音楽という学問の「正しい」振る舞いだ。だが、ドビュッシーはそれを拒んでいる。


 僕の指が、吸い込まれるように沈んだ。カチリ、とハンマーが弦を叩く手応え。響き出したのは、「ド♯・ミ・ラ」。 ホ長調の明るさには程遠い、どこか宙に浮いたような、拠り所のない和音。その不安定な響きが、僕の孤独を優しく肯定するように、工房の壁に染み込んでいく。


「……これだ」


 僕は小さく息を吐いた。期待された正解を選べず、いつも所在なさを感じてきた自分の人生。ドビュッシーが敢えて選んだこの音は、僕が誰にも言えなかった「正解からの逃避」そのものだった。


 右手の三連符が動き始める。指先から溢れ出すのは、現実の醜さから目を逸らし、自分だけの美しい箱庭を編み上げるための銀の糸だ。僕は目を閉じ、音楽に意識を没入させた。友の成功も、自分の不甲斐なさも、今はまだ、この旋律の向こう側に追いやっておくことができる。


 音階にとらわれない、独特の始まり。夜の闇を縫うように、僕だけの『アラベスク』が静かに、滑らかに動き出した。


 三連符の波に乗り、指が鍵盤の上を滑る。この曲を弾いている間だけ、僕は現実のぬかるみから数センチだけ浮上していられる。


 クロード・ドビュッシーという男のことを思う。この『アラベスク第一番』を書いた頃、彼は二十代の後半。人妻との情事に溺れ、生活は困窮し、音楽院の型苦しい教えに不平不満をぶちまけていた。その後も、彼の人生は「不実」の一言に尽きる。ギャビーという女性と同棲しながら別のソプラノ歌手と通じ、その後、ギャビーの友人であるリリーと結婚。それなのに今度は教え子の母親であるエンマと不倫の末、イギリスへ逃避行。絶望したリリーが自分の胸を銃で撃ち抜くという惨劇すら引き起こした。


 ……最低だ、と思う。だが同時に、僕はその最低な男の譜面に、救われるような心地で縋り付いている。


 この曲の中間部。四つのパートが合唱するように響く場所へ差し掛かると、胸の奥がチリチリと焼ける。僕にも、捨ててきた過去がある。大学時代、僕のことを誰よりも理解し、僕の「言葉にできない想い」を音楽の中から拾い上げてくれた女性がいた。けれど僕は、ドビュッシーがそうしたように、彼女が一番苦しんでいる時に背を向けた。正論をぶつけられるのが怖くて、彼女の涙を見るのが耐えられなくて、僕は何も言わずに連絡を断った。音楽という聖域に逃げ込み、現実の責任から、卑怯に、徹底的に、目を逸らし続けた。


 不実で、内向的で、自分の美学を守るためなら誰かを傷つけることも厭わない。ドビュッシー。あんたもそうだったのか。


 この曲は、ホ長調、イ長調、またホ長調へと戻る明確な三部形式だ。非常に保守的で、売れることを意識した商業的な作品。ドビュッシー本人はこの曲をひどく嫌っていたという。けれど、だからこそ、この音色には「純粋な嘘」が詰まっている。私生活がどれほどドロドロとした愛憎にまみれていようと、友人との絶縁や裏切りを繰り返していようと、五線譜の上に一度ペンを下ろせば、彼はそこに「完璧な曲線」を描き出した。現実の世界では何一つうまくこなせない僕たちが、せめてこの数分間だけ、誰にも侵されない美しい箱庭を所有することを許される。


 五音音階ペンタトニックが混ざり合う、オリエンタルな響き。それはどこか遠い国、ここではないどこかへ連れて行ってくれる呪文のように聞こえる。


「……汚れていても、いいのか」


 呟いた声は、ピアノの共鳴の中に溶けて消えた。ドビュッシーは、現実の醜さを知っていたからこそ、これほどまでに透明な逃げ場所を必要としたのではないか。僕は、傷つけてきた人々の顔を思い浮かべながら、それでもこの至高の曲線を手放せずに、鍵盤を叩き続けた。


 曲は、この『アラベスク第一番』の核心へと入り込む。右手が奏でる細やかな三連符に対し、左手が二拍子の八分音符を刻む。二対三。拍の頭は重なるのに、その中身は決して歩調を合わせない。このポリリズムこそが、ドビュッシーが描いた「揺らぎ」の正体だ。


 鍵盤の上で、指が交互に、あるいは同時に、異なる時間を刻む。このズレの心地よさを感じるたび、僕はハガキの主である、かつての親友を思い出す。


 彼と僕は、同じ音を愛していた。けれど、拍の刻み方が根本的に違っていたんだ。彼は伝統的な形式を愛しながらも、その枠組みを自分の力で拡張しようとする野心に溢れていた。一方の僕は、型に収まることも、型を壊すこともできず、ただ音の隙間に隠れていたいだけの臆病者だった。


「お前の音には、覚悟がない」


 最後に会った夏の日、彼はそう言って僕を切り捨てた。僕が温めていた旋律を、彼はもっと鮮やかな、大衆に届く形に書き換えて自分の曲にした。それを「盗作だ」と責める気力さえ、当時の僕にはなかった。ただ、彼と僕の刻むリズムが、二度と重ならないところまでズレてしまったことだけを理解した。


 ドビュッシーも、同じような断絶を経験したのだろうか。あのモーリス・ラヴェル。互いの才能を認め合い、譜面を貸し借りするほど親密だった二人が、ある一曲の類似をきっかけに、死ぬまで解けないわだちを作った。

 似すぎているからこそ、許せない。同じ美しさを求めているからこそ、隣にいる相手の不純さが鼻につく。ドビュッシーは気難しく、内向的で、友人が去っていくのを止めようとはしなかった。その代わり、彼はその孤独な沈黙を、和音の平行進行や五音音階という、当時としてはあまりに先鋭的な「新しい言語」に変えていった。


 アルペジオが、交互に折り重なりながら上昇していく。 三連符と八分音符。ズレている。確かにズレているのに、全体としては一つの、途切れることのない美しいフレーズとして流れて聞こえる。

――それでいいんだ、と音が言っている気がした。他人とうまく歩幅を合わせられないこと。期待される正解のリズムを刻めないこと。それは必ずしも「間違い」ではない。そのズレが生む隙間にこそ、ターナーの絵画のような、輪郭のぼやけた、光のグラデーションが宿る。


 僕は、ハガキに描かれた友人の風景画を思い出す。あの日、僕が言葉にできず、旋律にもできなかったあの「光」を、彼は絵の具に変えて表現したのだ。僕たちは同じ曲線を見ていた。ただ、表現する手段が、そして歩む速度が違っただけだ。


 ペダルを踏み込み、響きを幾重にも重ねる。工房の空気は、もはや夜の静寂ではなく、微光が舞う水底のような色彩を帯びていた。


 ドビュッシー。


 あんたの音楽が、百年の時を超えて僕の指を動かすのは、あんたが「正しさ」よりも「美しさの曲線」を信じたからだ。僕は、ズレたままのリズムを抱きしめるように、鍵盤を奥深くへと沈めていった。


 曲は再現部へと差し掛かり、冒頭のあの旋律が戻ってくる。けれど、最初の一音とは響きが違って聞こえるのは、僕の気のせいだろうか。


 「♯ド・ミ・ラ」。相変わらず所在なく、宙を彷徨うような和音。けれど今の僕には、それがどこか遠くへ向けられた「祈り」のようにも聞こえる。


 バッハを敬愛したドビュッシーは、「人を感動させるのは、旋律の性格ではなく旋律の曲線である」と言い遺した。


 曲線。


 それは最短距離で結ばれる直線とは正反対の、遠回りで、不器用な歩みだ。ドビュッシーの描くアラベスクは、伝統的な和声のゴールへ急ごうとはしない。ただ、水面に広がる波紋のように、あるいは風に揺れる植物の蔓のように、緩やかに、そして必然的な必然性を持って夜の闇を縫っていく。


 僕の人生も、そんな曲線ばかりだった。音楽院を去り、友人や恋人を傷つけ、この海沿いの工房へ流れ着いた。真っ直ぐに、誠実に生きられなかった自分を、僕は長い間、出来損ないだと思ってきた。けれど、今夜この曲を弾きながら、僕は生まれて初めて、自分の「曲線」を許せるような気がしていた。


 中間部で見せた四つのパートが重なり合う合唱コラールのような響きが、再び意識の底で共鳴する。ドビュッシーがその奔放な人生の果てに、愛娘シュシュにだけは見せた、濁りのない愛情。彼が最後に求めたのは、複雑な革新性ではなく、そんな純粋な「美の領分」だったのではないか。


 指先が、最後の下降アルペジオをなぞる。音符が重なり合い、美しい模様となって並び、そして夜の空気の中へと溶けていく。僕はペダルをゆっくりと離した。静寂が戻ってきた。 だが、それは曲を弾く前のような、刺すような孤独な沈黙ではない。顔を上げると、工房の窓の向こう、水平線のあたりが深い紺碧から白銀へと変わり始めていた。夜明けだ。ドビュッシーが愛したターナーの絵のように、空と海の境界線が、光と霧の中に溶け合っていく。


 僕は机の端に置いたハガキを、もう一度手に取った。描かれた風景の中に、かつての親友が見ていた光を探す。


 「……見に行こうかな」


 口から出た言葉は、驚くほど自然だった。彼に謝るためでも、自分を正当化するためでもない。ただ、同じ時代に同じような「美しい曲線」を求めてもがいた一人の人間として、彼の描いた光を、今の僕の目で確かめてみたくなった。


 僕はピアノの蓋を静かに閉じた。現実は相変わらず泥臭く、明日からも僕は不器用な調律師として、誰かのピアノの歪みと向き合う日々を送るだろう。けれど、心の中には一枚の『アラベスク』が刻まれている。不実な男が、現実逃避の果てに掴み取った、至高の曲線。それは、僕のような不完全な人間が、この不完全な世界のまま生きていくための、唯一無二の地図だった。


 僕は工房の電気を消し、朝の光が差し込む街へと、ゆっくりと歩き出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。本作の主題となったドビュッシーの『アラベスク第1番』について、物語の背景となった史実や設定を補足させていただきます。


■ 楽曲の背景と「美しき嘘」  この作品が書かれた1888年から1891年にかけては、ドビュッシーの創作における転換期でした。当時の彼は生活のために商業的な出版を意図してこの曲を書いており、本人自身はこの曲をひどく嫌っていたという説もあります。しかし、私生活での混乱――マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人との情事や、その後のガブリエル・デュポン(ギャビー)との同棲生活など――という「現実の泥」の中にいながら、これほどまでに清廉な「美」を構築した点に、彼の音楽家としての本質的な孤独と矜持を感じずにはいられません。


■ 音楽的特徴と「曲線」  ドビュッシーは「バッハの音楽において人を感動させるのは、旋律の性格ではなく旋律の曲線である」と言い遺しています。本作でも触れた通り、この曲はホ長調でありながら、冒頭に「♯ド・ミ・ラ」という不安定な和音を配しています。また、三連符(右手)と八分音符(左手)が織りなす「二対三」のポリリズムや、五音音階による東洋的な響きは、伝統的な音楽語法からの緩やかな「逃避」と「革新」の象徴として描きました。


■ ターナーと印象主義  ドビュッシーはイギリスの画家ウィリアム・ターナーを深く愛好していました。形が光の中に溶けていくターナーの絵画と、ドビュッシーの音の重なりは、互いに深く共鳴しています。主人公・櫂が感じた「輪郭のぼやけた美しさ」は、彼らが共有していた芸術観そのものでもあります。


 現実がどれほど不完全であっても、音楽という「美しい嘘」の中にだけは真実がある。そんなドビュッシーの祈りにも似た旋律が、少しでも皆様の耳元に届きましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ