第9話 古の声、風の記録者
イストラ峡谷での「封調律」から、三日が経った。
王都への帰還は慎重に行われたが、報告書の提出より早く、噂が広まった。
――“空を織り直した冒険者”。
その呼び名は半ば伝説のように、街の酒場や市場で囁かれていた。
俺自身、その実感がない。
空を直したのではなく、“織り目を整えた”だけだ。
それでも、王都の空は青く、裂けた気配はもうない。
「……噂なんて、勝手に広がるもんだな」
窓辺に肘をつき、ぼんやりと呟く。
シルが机の上で光を丸め、「キュル」と鳴いた。
導糸が“少し誇らしげな震え”を返す。
「お前の手柄でもあるぞ。素直に喜べ」
「キュルル」
穏やかなひと時。
だがその静けさは、長く続かなかった。
扉を叩く音。
開けると、黒外套――カイル=ロウが立っていた。
表情はいつもの冷静さを保ちながらも、その瞳には焦りの色があった。
「リオ。……今度は西だ」
「西?」
「封蔵課からの緊急報。〈風の記録庫〉が沈黙した」
俺の背筋が凍る。
風の記録庫――王都西部の高台にある古代の観測塔だ。
すべての風の流れ、気圧、音を“糸”に記録し、
王都の防衛と気象予知を司る。
「沈黙って、つまり……?」
「“風が止まった”。塔が呼吸していない。
封の結界が動作していないのに、内部から誰も出てこない。
――あそこに“別の折り目”が、現れた可能性が高い」
俺は杖を取り、外套を羽織った。
シルが肩に乗る。
「行こう」
「待て」
カイルが片手を上げる。
「今回は俺も同行する。議会の命令だ」
「……査察官が現場に? 珍しいな」
「珍しい事態だからだ」
*
王都西部、〈風の記録庫〉。
高さ三十メートルの尖塔が、霧に包まれている。
普段は塔の頂から絶えず風を吐き出しているはずが――今日は、無風だった。
入口の封印は閉じていない。
それなのに、中からは一切の音がしない。
「……空気が死んでる」
カイルが呟く。
俺は頷き、導糸を伸ばした。
だが、返ってくるのは“無反応”。
糸が触れても、まるで“空間が存在しない”ような虚無だ。
「シル、慎重に行こう」
「キュル」
内部に入ると、壁一面に彫られた風紋が光を失っていた。
風を記録する“糸板”が砕け、床には淡い粉が散っている。
カイルが腰を屈め、粉を指で擦る。
「……魔力の残滓。だが、これは“風”じゃない。声だ」
「声?」
「聞こえなかったか? 微かに――」
耳を澄ます。
――“織り目を返せ”。
低く、ざらついた囁き。
塔の奥から、風の代わりに“声”が流れてくる。
まるで誰かが、無数の糸を擦って発音しているような、不気味な響き。
「来るぞ」
俺は杖を構えた。
空気が震え、塔の中央――観測陣のあった場所に、影が現れる。
それは、風そのものの形をした存在だった。
顔も輪郭もない。
ただ、空気の層が人の形を真似て立っている。
「……“記録者”だ」
カイルが呟いた。
「この塔の守護。風の流れを記し続ける精霊。
本来なら人を襲うことはない。だが――“何か”が上書きしている」
影が口を開く。
――『おまえたちの声は、偽物だ。
風は記録した。
王都は、織りを裏切った』
次の瞬間、塔全体が鳴動した。
壁の風紋が剥がれ、空気が刃のように走る。
俺はとっさに導糸を展開した。
〈導糸:三重結び(トリプル・ノット)〉
〈皮膜守り:竜鱗模倣〉
〈抑圧:乱流鎮静〉
だが、風そのものが“意思”を持つ以上、止めきれない。
カイルが叫ぶ。
「リオ、下へ! 風の根を叩くんだ!」
塔の螺旋階段を駆け下りる。
下層の制御陣――中心には、砕けた“竜の羽根”の欠片があった。
それが淡く光り、空気をねじ曲げている。
「これか……!」
俺は杖を突き立てた。
〈導糸:循環結び(ループ)〉
〈封:共鳴制御〉
シルの光が加わり、風が渦を巻く。
塔全体の音が低く、やがて静まる。
息をつき、崩れかけた壁に背を預けたとき――
頭の中に声が響いた。
〈まだ終わりではない〉
振り返る。
羽根の欠片がゆっくりと浮かび上がり、
その内側から、“銀の糸”が覗いた。
カイルが驚きの声を漏らす。
「これは……王都創建以前の、最古の織糸だ!」
俺の導糸が、それに自然と繋がる。
シルが淡く震え、“嬉しそう”に音を立てる。
〈竜は眠らない〉
〈糸は覚えている〉
声が、古の風そのものから聞こえた。
「……お前は誰だ」
〈わたしは風の記録者。かつて“織り王”に仕えし証〉
〈――この糸を継ぐ者よ。王都の“根”を見よ〉
光が爆ぜ、視界が反転した。
次の瞬間、俺は見知らぬ景色の中に立っていた。
――空に浮かぶ巨大な“織り機”。
無数の糸が王都全体を覆い、
その中心で、青白い竜が静かに眠っていた。
シルの声が、心の奥で震える。
〈あれは……“原初竜”〉
〈この世界の最初の糸を編んだ存在〉
「まさか、王都そのものが……竜の夢の上にあるのか?」
カイルの驚愕が、かすかに聞こえた。
だが俺はもう、彼の姿を見られなかった。
風が、俺とシルを上へ引き上げる。
〈編術師よ。目覚めよ。
“織り王”の継承は、いまここから始まる〉
光が爆ぜ、視界が白に包まれた。
そして――
俺は、“糸の海”のただ中に立っていた。
(つづく)




