第6話 査察官の刃、糸の誓い
石畳が縦に裂け、灰色の塵が噴き上がった。
離れた通行人の悲鳴、衛兵の怒号――全部、遠く。
目の前の男だけが、異様にくっきり見える。
黒外套の青年、査察官カイル=ロウ。
右手は鞘に添えたまま、足先で地脈を“叩く”。
遅れて震動。石畳が波紋のように隆起し、俺の足首を狙って縛り上げ――
「〈軽脚〉、二重」
足裏へ圧を通し、波紋の合間に自分の重心を“滑り込ませる”。
シルが俺の影に沿って低く伸び、表層に竜鱗模様を浮かべた。
「キュル」
導糸が“右上”。合図。
俺は頷く。二拍遅れて、石の槍が地面から生えた。
……速い。
カイルは大きな身振りをほとんど見せない。
靴裏と呼吸だけで地面を操る地走系の術式。
街中で暴れて建物を壊さぬよう、力を下へ流す訓練された戦い方だ。
「封蔵監視下冒険者が、場所を選べないと困るからな」
カイルは薄く笑い、外套の裾を払った。
「ここで倒すつもりはない。測るだけだ。
君とその“竜核体”が、人の街で共に呼吸できるか」
挑発は受けない。
俺は杖を横に寝かせ、低い声で織る。
〈導糸:三重結び(トリプル・ノット)〉
〈皮膜守り(ガードヴェイル)〉
〈視界収束〉
シルの表層に鱗が重なり、銀青の光が細く脈打つ。
同時に、俺は糸の一本をカイルへ伸ばした。
敵に直接結ぶのではない。靴裏の震動、呼吸の間合い、視線の焦点――
“彼のリズム”を、織り目の外からなぞる。
「……“編術師”の真似事、か」
カイルの瞳が一瞬だけ笑う。
次の瞬間、影が跳ねた。
外套の裾から滑り出たのは影の鎖。
石の波と影の縄が同期して襲う。
物理と霊的圧、二層。よく訓練された手だ。
「シル、間を噛め!」
俺の声と同時に、シルがぬめりの膜を薄く伸ばす。
竜鱗模様の“節”がカチリと噛み合い、影の鎖に歯車みたいな反力を与える。
鎖の節が一コマ狂い、石の波と位相ズレが起きた。
そこへ俺は〈抑圧:位相固定〉を一点落とす。
波が止まり、影がほどける。
カイルの唇がわずかに歪む。
「面白い。では――どうかな」
鞘鳴り。
刃は抜かれない。だが、風圧だけが俺の頬を斬った。
鞘打ちの軌跡に、封印術式の細線が乗る。
切っ先が触れた空間に、目に見えない**封**が刻まれ、
俺の〈導糸〉の一筋が、動かなくなった。
「糸は便利だが、切られれば死ぬ」
カイルの足が石を叩く。
封印線が増える。
一本、二本――五本。
糸の自由度が削がれ、シルの皮膜に負荷がかかる。
焦りは、編まない。
俺は息を長く吐き、残る糸を撚り直す。
一本で足りないなら、三本を一本みたいに使えばいい。
〈導糸:撚り合わせ(ツイスト)〉
〈支点移し(ピヴォット)〉
封じられた糸を支点に見立て、撚り糸側を回転させる。
糸は切られていない。封じられているだけ。
ならば、その封ごと“道具”にしてしまえ。
撚り糸が円を描き、シルの周囲に渦のパターンを浮かべる。
鱗の節が渦の目で嚙み合い、刃なき吸引が生まれる。
カイルの影鎖が引っ張られ――地の波が逆流した。
「おっと」
さすがに彼も一歩引く。
地走のリズムを崩されても、崩れ切らない踵。
強い。
けれど、読み切れないほどではない。
「次で終わらせる」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、
糸の一本を自分自身に結んだ。
支援職の奥の手。
“仲間がいない時”にだけ使う、自己強化の束ね。
〈束糸/身〉
〈反響〉
心拍が、糸の拍に溶ける。
視界の輪郭が研ぎ、カイルの踵の落ちる角度、
鞘の先の空気のたわみが、はっきり見える。
――ここだ。
「シル、前。三拍のち、跳べ」
「キュル!」
銀青の雫が地面を滑り、カイルの影へ影絵みたいに重なる。
俺は杖の石突で、カイルの足影を“突いた”。
影は地面と人をつなぐ仮の糸。
そこに〈抑圧:重〉を一瞬だけ乗せる。
踵が半拍、遅れる。
鞘の線が逸れた。
すれ違いざま、俺はカイルの外套の内側へ糸を通した。
〈編掛〉――
敵意でも拘束でもない。
胸郭の上下、肩甲骨の滑り、呼吸の“引っかかり”を整える。
支援。
敵に対する支援。
「……っ」
カイルの瞳が、初めて驚きに広がる。
外套の内側で、彼の呼吸が楽になるのを、俺は糸で感じた。
その“楽さ”が一拍、彼の動作を鈍らせる。
癖が消えたからだ。
癖で積み重ねてきた剣筋は、突然“正しく”なると、遅い。
「ここまで」
俺は杖をクルリと返し、石突で地面を叩く。
〈鎮〉。
振動が街路に沈み、立ち上がった石の槍も、影の鎖も、
音もなくほどけて消えた。
シルの表層がさらりと波立ち、銀青の光が収束する。
風だけが、残った。
沈黙ののち、カイルが鞘を軽くたたいた。
乾いた音。
彼はふ、と笑って一礼する。
「合格だ。人の街で戦い、人の敵を殺さない。
君は“編んだ”。悪くない」
「試験、という名の嫌がらせだと思いましたよ」
俺が苦笑すると、カイルも肩をすくめる。
「仕事柄、嫌われる。慣れてくれ」
彼の視線が、俺の足元へ落ちた。
シルが少しだけ身をふくらませる。
「竜核体。名は?」
「シル」
「良い名だ。……王城は君たちを完全には信じていない。
だが、私は今の一手で十分だと思ったよ」
それで、と彼が声を落とす。
外套の内ポケットから、封蝋の切られた二通目の書状が現れた。
「公にはできない。封蔵庫第九室――子どもが消えた。
軽い足跡の報告があっただろう?」
喉が鳴る。
靴。
あの、裂け目の縁に落ちていた小さな皮靴。
「親は下層の薬師。封蔵庫で働いていた下請けの搬出人だ。
“鍵”を付け替える工事の間に子が消えた。
封蔵課は“事故”で片づけたい。
しかし――私は、誘いだと思っている」
「誘い?」
「第七室で竜核が“目覚めた”。その呼応が、別室にも走った。
彼ら(そこにいる“何か”)は、糸を求める。
そして、糸を持つ者は――君だ」
俺はシルを見た。
銀青の中心が、静かに脈打っている。
“行こう”。
導糸が、ためらいのない二拍を返す。
カイルは短く頷き、街角の陰へ身を引いた。
「夜、第九室裏口。衛兵は私がどかす。
君は公式には“検査”に来たことにして帰れ」
「査察官が規則を破っていいんですか」
「査察官だから、裏口を知っている」
悪戯っぽく片目をつぶり、影の中に消えた。
*
夕景が王都の屋根を赤く染める頃、
俺は一度、家に戻った。
窓辺にシルを置き、糸を撚り直す。
誓結で増えた回線は、負荷がかかると絡む。
夜の封蔵庫で、それは致命傷になる。
指先が糸の谷を撫でる。
シルは目を細め――いや、目はないが――気持ちよさそうに震えた。
「キュル……」
微睡の拍。
そこに、もう一つの拍が混ざった。
知らない、誰かの心拍。
弱い。
子どもの拍だ。
「……つながっているのか」
窓の外で鐘が鳴る。夜の合図。
俺は外套を羽織り、杖を手に取った。
扉に手をかける前に、ひとつだけ深呼吸。
ぼっちの呼吸ではない。
二人の呼吸だ。
「行こう、シル」
「キュル」
*
王城地下、封蔵庫の裏口は、昼間と別の匂いがした。
冷たい石と、古い香。
物陰からカイルが現れ、短く指を立てる。
「静かに。第九室は感度が高い」
俺たちはほとんど音を殺して階段を降り、
昼間は通らなかった側道を抜ける。
狭い扉。封蝋は無傷に見えるが、触れると脈がある。
生きている封。
カイルが短剣の柄でそっと叩くと、封の脈が一瞬だけ弱まる。
「今だ」
扉がわずかに開く隙間へ、シルの薄膜が染み込んだ。
鍵の内側の“噛み”を柔らかくし、
俺の〈導糸〉が古代の折り目を撫でる。
ほどくのではない。
緩める。
扉の向こうは――深い水の匂いがした。
湿った空気。遠い波音。
室内に海はない。だが、海の折り目が開いている。
空間の一部が、どこかの潮間帯とつながっているのだ。
「子どもは――」
言い終える前に、導糸に悲鳴が走った。
細い、かすかな、助けを求める拍。
俺は駆けだした。
シルが影のようにぴたりと寄り添う。
折り目の奥。
水面の幻影が床に揺れ、
その中央に古い石の祠が口を開けていた。
祠の前に、小さな影。
裸足。肩を震わせ、祠の黒を見つめている。
「大丈夫だ」
俺が膝をつくと、子どもはびくりと肩を跳ねさせ、
俺の顔と、足元のシルを交互に見た。
その瞬間、祠の奥から“潮”がせり上がった。
海ではない。
記憶の潮だ。
失われた祈り、捨てられた言葉、封じられた約束――
それらが水に似た形で押し寄せ、子どもを連れていこうとする。
「渡すものか」
俺は杖を地に当て、
〈導糸:環〉
〈皮膜守り:庇〉
糸の輪で子どもを囲い、シルが上から庇う。
潮が輪に当たり、祠の黒がきしむ。
背後でカイルが低く唸る。
「第九室は“忘れもの”の保管庫だ。
王家が忘れたもの、人が置き去りにしたもの、言葉にならない願い。
――ここは、奪う」
ならば、返す。
俺は糸を祠の“折り目”へ差し入れ、
たたみ直しの手順を組む。
古い編術の手触りが、指の腹で蘇る。
師はいない。
書で学び、仮説を重ね、ぼっちの時間でひとり身につけた手だ。
だが今、俺はぼっちではない。
「シル、拍を合わせろ。三拍で閉じる」
「キュル!」
銀青の光が祠の縁を走り、
潮の記憶から“名前”だけをすくい上げる。
子どもの名。
母の呼び名。
祠が“思い出す”。
――返す場所を。
音が、止んだ。
潮は引き、祠の口が眠りに戻る。
輪の内側で、子どもがしゃくり上げ、俺の袖を握った。
「……こわかった」
「もう大丈夫だ。帰ろう」
シルがそっと子どもの足へ巻きつき、温度を渡す。
銀青の光は、今夜はただ優しい。
息を吐く俺の横で、カイルが短く掌を打った。
音は小さいが、真剣だ。
「見事だ、リオ=クラフト。
君は“封”を破らず、“約束”を編み直した」
彼は子どもに膝をつき、目線を合わせる。
「怖かったな。母上のところへ帰ろう。道はこの人がもう編んだ」
帰路、地上へ上がる階段の途中で、カイルがぽつりと言う。
「……君は敵にも支援をかけた。あれは意図的か?」
「ええ。息が整えば、人は刃を振り下ろす理由を一つ、失う」
カイルは笑った。
「危険な理屈だ。だが、好きだ」
夜風が頬を撫でる。
王都の屋根には星がいくつか、遅れて灯った。
子どもはカイルの外套にくるまれ、静かに眠っている。
シルはその傍らで、子どもの拍に寄り添って揺れた。
別れ際、カイルが封のない封書をもう一枚、俺に押し付けた。
「正式な書類は明日回る。だが非公式に伝えよう。
第九室の折り目が閉じたとき、王都全域の封蔵庫に微細な共鳴が走った。
君の糸は、もう城のあちこちで感じられている」
「嫌な知らせですね」
「期待と、警戒と、欲。
……君がどれを選ぶか、私は見ていたい」
歩き出す彼の背に、俺は短く返した。
「俺は――編む。
欲でも警戒でもなく、繋がりを」
カイルは振り返らず、片手だけ上げた。
その掌の角度は、承認の形だ。
家へ帰る道すがら、シルが掌に乗って重みを預ける。
導糸が、穏やかな三拍を刻む。
俺は空を見上げ、思う。
ぼっちの俺にできることは、思っていたよりも多い。
一人と一匹のパーティは、王都という巨大な布の上で、
いま確かに、最初の模様を描き始めている。
(つづく)




