第2話 森で最初の戦い、スライムが“応える”瞬間
森は、夕焼けを吸いこんで色をなくしていく。
枝葉が風に擦れ、獣の匂いが湿った土から立ちのぼる。
俺は杖の石突で地面を軽く叩き、呼吸を整えた。
――薬草採りのついで、のはずだった。
だが、胸の奥は妙にそわついている。
足元で跳ねる小さなスライムが、ぴとりと俺の靴先にくっつく。
「キュル」
透明の身体の中心で、灯のような光がまた脈打った。
「怖いなら、帰ってもいいぞ」
そう言いながらも、俺の指先は無意識に魔力を編んでいた。
支援職の魔法は、攻撃の華やかさも、回復のわかりやすさもない。
ただ、見えない糸を相手に結び、整え、守り、速め、軽くする。
誰かと結んでこそ意味を持つ魔法だ――ずっと、そう思っていた。
「……今回は、“誰か”がいる」
俺はそっと詠唱を載せる。
〈軽脚〉
〈皮膜守り(ガードヴェイル)〉
視界の隅で、薄い膜がきらめいた。
スライムの表層がいっとき虹色に揺れて、すぐ透明に戻る。
「キュ?」
効いているのか、いないのか……判断がつかない。
それでもいい。今日は、ちゃんと“掛ける相手”がいることが大事だ。
森の小径を外れて、湿地帯の方へと踏み込む。
薬草〈青聖葉〉は、冷たく水気の多い土を好む。
陽が沈み切る前に数束見つけて帰る――それで今日の食費はどうにかなる。
その程度の算段しか、ぼっちの俺には立てられなかった。
……鼻を突く、獣臭。
息を止め、耳を澄ます。
「――来る」
茂みが裂け、灰毛の猪――〈牙猪〉が飛び出した。
体高は俺の腰ほど、肩の筋肉は岩みたいに盛り上がり、
額から伸びる白い牙が剣のように光る。
目が俺を捉え、突進の姿勢に入る。
支援職の俺には、受け止める術がない。
「下がれ!」
杖を横に払って距離を取る。
猪の鈍重な体格に似合わず、突進は速い。
俺は足裏に魔力を流し、草鞋が地を掴む感覚を鋭くする。
〈軽脚〉の自分用簡易版。名前もない、自己流の微調整だ。
牙が目の前を裂いた。
紙一重で身を捻り、肩をかすめる風圧に歯を食いしばる。
――重い。あれをまともに受けたら終わりだ。
俺の得意は、受けず、避け、仲間に勝たせること。
仲間がいない今は、避け続けるしかない。
「キュル!」
足元のスライムが、猪の進路へ跳んだ。
無謀、と言いかけて言葉が止まる。
スライムが、空気を吸い込むみたいにふくらみ――
次の瞬間、透明の身体にきらきらと細い糸が走った。
「……魔力の糸?」
俺が“掛けた”〈皮膜守り〉の線だ。
スライムはそれを自分の身体の内側に巻き込み、
弾力のある膜の多層構造にしていく。
小さな盾を幾重にも重ねるみたいに。
牙が当たった。
鈍い音。
スライムの体表がぶよんと凹み、糸の層がばちばちと弾けスパークする。
「キュルルッ!」
押し負ける――そう思った瞬間、
スライムの中心の光が強く脈打ち、反発の波が走った。
猪の頭が跳ね上がり、体勢が崩れる。
「いける!」
俺は杖を突き出し、短い詠唱で自分の腕力を底上げする。
〈筋力補助〉
杖先で地面を叩き、猪の足元の泥を蹴り上げ、
視界を奪ってから斜め後ろへ回り込む。
支援職の戦い方は、正面衝突ではなく“状況を動かす”ことだ。
俺は息を吐き、スライムへもう一段の魔法を重ねる。
〈導糸〉
見えない糸が俺とスライムを結ぶ。
糸はただの通信回線じゃない。
相手のリズムを感じ取り、こちらの意図を微細な振動に変えて送る。
“そこから押し返せ”“跳ねろ”“粘れ”――言葉になる前の合図。
相手が人間なら、ここで戦闘の呼吸を合わせられる。
……相手はスライムだ。それでも、糸は結べた。
「右、だ。押して、跳ね返せ!」
声に出す必要はないが、俺はつい言葉にしてしまう。
スライムは震え、右へ弾け、猪の膝に体当たりをかました。
弾力と魔法膜の反発が合わさって、予想以上の力になる。
猪の脚が泥にとられ、体ごと横倒しに――。
今だ。
俺は胸のうちで火をつけるみたいに魔力を燃やした。
〈一瞬加速〉
足裏が軽くなる。
滑り込むように横腹へ回り、杖の石突を“的”へ叩き込む。
〈神経鈍化〉――痛覚と運動野の伝達を一時的に鈍らせる補助妨害。
攻撃魔法じゃない。だが、効く。
猪がぶるりと身を震わせ、力が抜けた。
スライムが追い打ちのように跳ね、猪の顔面に張り付く。
透明の膜が、ゆっくりと、確実に牙と鼻面を封じていく。
相手は呼吸ができない。
俺は躊躇した。やりすぎれば、窒息させてしまう。
「――もういい。離れろ」
導糸に“緩め”の合図を送り、
スライムを猪からそっと剥がす。
猪は泥の上でしばらく痙攣し、やがて静かになった。
耳を近づけると弱い呼吸がある。気絶だ。
命を奪わずに済んだ――胸の奥の小さな線がほどける。
「……やれた、な」
腕が震える。恐怖と、遅れてやってきた実感のせいだ。
支援職の魔法が、初めて“通じた”。
俺の糸に、あいつが応えてくれた。
「キュ」
スライムが嬉しそうに震え、俺の足に身体をすり寄せてくる。
表層の膜が、さっきよりも厚い。
いや、違う――層の数が増えている。
俺の〈皮膜守り〉を、あいつは学習して、真似て、積み上げている。
「……お前、やっぱりただのスライムじゃないな」
スライムは照れる子どもみたいに身体を小さく丸め、
中心の光がぽうっと明滅した。
その光に意識を向けると、導糸の先で微かな震えが返ってくる。
言葉ではない、でも確かに“意思”だ。
「ありがとう、助かった」
俺がそう言うと、
「キュ、キュル」
返事とともに、導糸が小さく弾んだ。嬉しい、のリズム。
俺は笑ってしまった。森の夕闇の中で、ほんの少し声が漏れる。
倒れた猪の脇に膝をつき、傷の具合と状態を確かめる。
浅い擦り傷と打撲。牙も折れていない。
ギルドに持っていけば素材として買い取ってもらえるだろう。
ただし、ひとりでこの重さの搬出は骨が折れる。
「……半分捨てるか」
そう諦めかけたとき、導糸がぴん、と震えた。
「キュル」
スライムが猪に近づき、表層にさざ波が立つ。
まるで胃袋を動かすみたいに内側が蠢き、
猪の皮膚に触れていた部分の魔力――微量の生命の残滓――を吸い上げた。
スライムの中心の光が――一段、濃くなる。
「待て。それは――」
俺は反射的に止めかけて、手を下ろす。
生命を喰うわけじゃない。あくまで、魔力の残り火を吸収しただけだ。
吸収した魔力は、すぐさま表層の“層”の強化に注がれていく。
〈皮膜守り〉の糸が増え、太くなり、網目が細かくなった。
学習、模倣、強化。
支援魔法と組んだとき、あいつは指数関数的に強くなれる。
……震えたのは、恐怖ではなく、期待だった。
“この相棒となら、俺は戦える”。
正面から殴り合うのではない。
支援で守り、糸で導き、状況をひっくり返す。
理屈の上では、ずっとできるはずだった。
けれど、俺には“結べる相手”がいなかった。
「名前を、つけてもいいか?」
スライムがぱちん、と弾けるように跳ねた。
導糸の向こうから、期待の震え。
「シル」
俺は口に出してみる。
透明の〈シル〉。
森の薄闇で輝く銀の光。
短くて、呼びやすい。
「今日からお前はシルだ」
「……キュル!」
嬉しさで表層に波紋が走る。
さっきよりも確かなリズムが導糸を駆け上がってくる。
名を与えることは、関係に“輪郭”を与えることだ。
俺の魔法は、輪郭を持った相手に強く働く。
同調率が上がる。効果の立ち上がりが早くなる。
理屈は、勉強で知っている。
――けれど今は、ただ嬉しかった。
猪の素材のうち、牙と一部の皮だけを剥ぎ、
荷にできる軽さにしてからギルドへ戻ることにした。
森の出口へ歩き出すと、
シルが俺の足首のあたりでころころと転がり、
時々ぴょんと跳ねて前に出る。
子犬みたいだ。
「調子に乗るなよ。今のは運が良かっただけだ」
そう言っても、導糸は弾む。からかうような軽さ。
――俺も、少しだけ浮かれていたのだろう。
森を抜ける手前、風の匂いが変わった。
生臭さ。鉄の味。
「止まれ」
シルがぴたりと動きを止め、俺の靴に影を作るように寄り添う。
導糸が、緊張の細波を伝えてくる。
茂みの陰で、男が三人。
乱暴に地面へ縛り伏せられた若い商人風の男と、
その荷車を漁る二人の粗末な革鎧。
――山賊。
彼らの手には短剣と棍棒。
俺の存在にまだ気づいていない。
距離は二十歩。
正面突破は無理。
だが、この距離なら――。
「シル、合図で左へ跳べ。俺が右を取る」
導糸に“二拍ののち左跳躍”のパターンを送る。
返事の震え。
俺は草陰から一歩、二歩と踏み出した。
「そこで何をしている」
わざと声を張る。
山賊の視線が一斉にこちらを向いた。
その刹那、俺は足裏に魔力を叩き込む。
〈一瞬加速〉
〈軽脚〉
〈視界収束〉
世界の輪郭がくっきりする。
右端の男が棍棒を振り上げる。遅い。
俺はその間合いの外へ滑り込み、
杖の石突で手首の腱を突く。
〈神経鈍化〉
指が開き、棍棒が落ちる。
同時に左から短剣がくる――その前に、シルが跳ぶ。
透明の塊が視界の端を横切り、短剣の刃に張り付く。
ぬめりの膜が刃を包み、摩擦が消える。
男の手から短剣がつるりと抜け落ちた。
「な、なんだこいつ!」
驚愕の声。
俺は間髪入れず、中央の男へ糸を飛ばす。
〈抑圧〉
目に見えない重りが、相手の肩と腰にのしかかる。
姿勢が崩れ、膝が土に落ちる。
シルがすぐさまその背中に張り付き、
多層の膜で上半身を拘束した。
逃げようと暴れるたび、膜がきしみ、締め付けが増す。
……拘束。
支援職の魔法とシルの性質は、想像以上に相性が良い。
残る一人が後退しかけ――足をもつれさせて転んだ。
俺はその喉元へ杖先を向ける。
「武器を捨てろ。命は取らない」
短い沈黙ののち、草の上に金属音が落ちた。
縛られていた商人風の青年が、涙目でこちらを見る。
「た、助けて……ありがとうございます!」
「縄、切ってやる。動くな」
俺は〈導糸〉の片方をシルに残したまま、青年の縄に手を伸ばす。
縄が切れると、青年は震える手で荷車を押さえ、ぺこぺこと頭を下げた。
「ギルドへ届けます。証拠も、あなたの手柄も間違いなく――」
言いかけて、俺は首を振る。
「俺は……リオ=クラフト。Fランクの支援職だ」
言葉にするのは、少しだけ怖かった。
けれど、青年は目を丸くして言った。
「支援職、ですか。あなたの指示、すごく……すごく速かった。
あの粘る魔物も。あなたの仲間なんですか?」
俺は足元のスライムを見る。
「相棒だ。名前はシル」
「キュル」
シルが得意げに跳ねる。
青年は小さく笑った。
「いい名前ですね。助けてくれて、本当にありがとうございました」
彼は山賊たちの武器や荷を確認し、
俺たちと一緒に街へ戻ることを申し出た。
“護衛料はちゃんと払います”――その言葉を、
俺は何度も心の中で撫でた。
支援職の働きに、初めて値段がついた気がした。
森を出ると、空はすっかり群青に沈んでいた。
街の灯が点々と揺れている。
ギルドの前まで来て、俺は一度だけ立ち止まった。
今日の朝、この場所で俺は三十回目の「✕」をもらった。
今、俺の足元にはシルがいて、背には猪の牙と、山賊の証。
心臓が、静かに、力強く打つ。
普通に考えれば、受付へ行って報告するだけだ。
――けれど、俺は扉の前で短く息を吸い、
胸の奥の何かに火を灯すように、言葉を整えた。
「パーティ申請、お願いします」
扉を押し開ける。
ざわつく酒場の匂い。
冒険者たちの視線が、するりと俺を貫く。
朝と同じだ。
だが、俺の靴先にシルがいる。
導糸が脈を刻む。
俺は受付へ真っ直ぐに歩き、カードを差し出した。
「リオ=クラフト。支援職。申請内容は――」
受付嬢が顔を上げる。朝と同じ彼女だ。
“またあなたですか”と目が言いかけて、止まった。
俺の背の牙、証拠の袋、足元のスライム。
「……討伐報告と、護衛の依頼完了の証明書。
それから、パーティ名の登録をお願いします」
「パーティ名……?」
彼女が固まる。
俺は言った。
「“二人(ひとりと一匹)パーティ〈編み手と雫〉”。
――俺は編む。こいつは応える。
仲間がいないと言われ続けた俺に、仲間ができました」
カウンターの向こうで、彼女の表情がわずかに揺れる。
後ろからひそひそ声。朝、俺を笑った男の声だ。
「スライムとパーティ? 冗談だろ」
「いや、あの牙猪をひとりで……?」
半信半疑の視線が刺さる。
俺は視線を受け止め、逃げなかった。
導糸の先で、シルが小さく跳ねる。心拍のような弾み。
受付嬢が決めた。
「確認します。……討伐証拠、問題なし。護衛達成、証明書も有効。
では、パーティ登録――〈編み手と雫〉ですね」
羽根ペンが紙を滑る音がやけに鮮やかに聞こえた。
「登録、完了しました。依頼掲示板にも“二名パーティ”として表示されます」
周囲の空気が、ふっと変わる。
“ゼロ”ではない。“一”になった。
世界の見え方が、少しだけ違う。
受付嬢が、ふと微笑んだ。
「……おめでとうございます、リオさん。
支援職の方の登録を見るの、久しぶりです」
その微笑みに、朝の“気まずさ”はもうなかった。
俺は小さく会釈する。
「ありがとうございます。明日から、依頼も受けます」
「でしたら――」
彼女が掲示板をちらりと見て、紙を一枚差し出した。
「新設パーティ向けの連携試験があります。
支援の適性と、相棒との同調率を測る内容です。
合格すれば、推奨ランクが一段上がります」
“同調率”。
導糸が、脈を打つように震えた。
シルが俺を見上げ、中心の光が期待に揺れる。
「受けます」
俺は紙を受け取り、決意を言葉にした。
“ぼっち”のまま戦うために覚えた、
誰にも見えない魔法の糸。
その糸は今、確かな相手に結ばれている。
俺は編む。
シルは応える。
――二人でなら、世界を相手にできる。
ギルドを出ると、夜風が少し冷たかった。
街灯の下で、シルがぴょんと跳ね、
俺の手のひらへ乗ってくる。
ひんやりして、柔らかくて、心臓みたいに律動がある。
「明日は試験だ。ちゃんと寝ような」
「キュル」
導糸が、同意の二拍を返す。
星が滲む夜空の下、
俺たちは同じ歩幅で、同じ家路を歩いた。
――そして、翌日。
ギルドの訓練場。
試験官が無表情で巻物を広げ、
俺とシルの前に、魔法陣が淡く点った。
「連携試験、開始。被験モンスター:擬似意志霊」
ひやりとした風が、砂の上を走る。
俺は杖を握り直し、シルを見た。
中心の光が、強く、明るい。
「行こう、シル」
「キュル!」
俺は糸を編み、世界に指をかける。
今度は、最初から“二人”だ。
(つづく)




