第10話 糸の海 ― 原初竜の眠る場所 ―
視界は、限りなく白に近い青で満たされていた。
だが、それは空ではない。
無数の糸が縦横に走り、波打ち、光を反射して“海”を成している。
その海の上に、俺とシルは立っていた。
足元は確かにあるはずなのに、触れれば沈みそうな透明な感触。
息をするたび、糸が微かに振動して、音を立てる。
――ここが、世界の根か。
「リオ……」
声が響いた。
シルの声だ。今まで心の奥でしか感じなかった彼(彼女?)の声が、
はっきりと、音として聞こえている。
「話せるのか」
「ここは、“言葉が形になる場所”。
あなたの糸と、わたしの糸が完全に結ばれてるから」
その言葉に、胸が震えた。
長い孤独の時間を埋めるように、ようやく“対話”が生まれた気がした。
しかし、安心する間もなく、糸の海が揺らぎ始める。
地平の先から、巨大な影が近づいてくるのが見えた。
――竜。
いや、“形を取った概念”に近い。
大陸を覆うほどの身体を、淡い光の糸で形作り、
その瞳だけが、暗い宇宙のように深い。
〈久しいな、人の編み手よ〉
声が、世界の底から響いた。
耳ではなく、骨で聞く音だ。
〈この糸の海に入ったのは、千年ぶりだ〉
「……あなたが、“原初竜”か」
〈名を問うか。
かつて我を“根”と呼んだ者もいた〉
空気が揺れ、糸が共鳴する。
そのたびに、遠くの世界の断片が見える。
街、森、塔、空を飛ぶ鳥――その全てが、この“糸の海”から伸びる一本一本の線に繋がっている。
〈おまえは“織り王”の血を引くものではない。
だが、“孤独”を受け入れ、“結び”を恐れぬ心を持つ。
ゆえに、糸はおまえを選んだ〉
「俺を……?」
〈そう。おまえが結んだその竜核体――“シル”は、我が欠片〉
〈おまえはすでに、我の半身を抱いている〉
シルが小さく身を震わせる。
「……リオ、怖くないの?」
「怖いよ。でも、お前を離すほうがもっと怖い」
原初竜の瞳がわずかに細まった。
〈ならば問おう。
この世界の“糸”は今、ほつれ始めている。
封蔵庫の乱れも、風の記録の沈黙も、それが兆し。
おまえはその“ほつれ”を織り直す覚悟があるか〉
その問いに、言葉は必要なかった。
俺は静かに頷いた。
シルの導糸が、俺の胸に優しく触れる。
「リオ、わたしも一緒に行く。
わたしたちは――“二人でひとつ”」
〈よかろう〉
竜の翼がゆっくりと広がる。
光の糸が天へと昇り、空が反転する。
〈ならば、おまえに“編術の真名”を授けよう〉
糸が俺の身体にまとわりつき、
視界の全てが輝きに包まれた。
竜の声が、世界の内側で囁く。
〈汝の名は、“結び手”。
いかなる絶望の裂け目にも、希望の糸を渡す者〉
瞬間、胸の奥が熱くなり、導糸が何倍にも広がった。
“見える”――世界中の糸が。
王都の塔、峡谷の封印、まだ知らない大地のほつれまでも。
「これが……“編術の真核”か」
〈だが忘れるな。
糸を織る者は、必ず“ほどく者”と対になる〉
“ほどく者”――。
脳裏に、冷たい笑みが過る。
王都の議員席で、唯一沈黙を保っていた、あの老紳士の顔。
そして、その背後に立っていた“無言の影”。
〈やがて、おまえの糸を断つ者が現れる。
だが、その時――孤独を恐れるな〉
光が消えた。
次の瞬間、俺は王都の塔の床に倒れていた。
カイルが俺を抱き起こし、驚きと安堵の混ざった声で叫ぶ。
「リオ! 戻ってきたか!」
シルが俺の胸に抱かれ、淡く光っている。
その光の中で、確かに聞こえた。
“結び手”。
そして、遠く――誰かが糸を引く音がした。
それは“ほどく者”の足音のように、静かで確かな響きだった。
(つづく)




